なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(4)「『道』を準備する」ヨハネ1:19-28

1月29(日)降誕節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   152(みめぐみふかき主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-152.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編48編1-12節(讃美歌交読文52頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書1章19-28節(新約163頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   529(主よ、わが身を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm

⑨ 説  教  「『道』を準備する」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書の序(プロローグ)である1章1-18節で、イエスは「闇の世を照ら命の光である」と語られていました。「闇の世」とは、私たちが生きているこの現実の世界を象徴的に言い表している言葉です。ヨハネ福音書の教会(共同体)にとって、その背後にはローマ皇帝の支配があり、具体的にはエルサレム神殿崩壊後のファリサイ的なユダヤ教(共同体)との軋轢の中で苦難や迫害を強いられていた、1世紀末の彼ら・彼女らが生きている社会的状況が「闇の世」であったと思われます。その闇の世に光り輝く命の光であるイエスを証言していくことによって、ヨハネ福音書は、そのイエスの命の光に照らされて、自己と世界についての新しい了解と行動を、ヨハネ福音書の共同体の人びと(=私たち)に促しているのです。

 

大貫隆さんは、ヨハネ福音書のイエス証言は「金太郎あめ」のように、どこをとっても一つの同じこと「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)という「イエス受肉した神の子である」ということを描いていると言っています。新共同訳では20章30,31節は「本書の目的」という表題がついていますが、その20章31節に、ヨハネ福音書を書いた目的がこのように記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(新共同訳)と。

 

今日は、ヨハネによる福音書1章19-28節のところから私たちへの語りかけを聞いてみたいと思います。

 

この個所は、1章19-34節のバプテスマのヨハネのイエス証言の前半部分です。バプテスマのヨハネのイエス証言は、すでに1章1-18節のプロローグの中にも出ていました。6-8節と15-18節です。

 

その箇所をもう一度読んでみたいと思います。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しするために来た」(6-8節、新共同訳)。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(15-18節、新共同訳)。

 

このようにヨハネ福音書は、既にバプテスマのヨハネイエス・キリストの証言者として描いているのです。

 

しかし、今日の1章19節以下では、バプテスマのヨハネのイエス証言は、28節に、「これは、ヨハネが洗礼(バプテスマ)を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」と記されていますように、ヨハネがベタニア(このベタニアはエルサレム近郊のベタニアではなく、「ヨルダン川の向こう側」と言われている)で人々に洗礼を施していた時の出来事として描かれているのです。つまりこの現実の世界の中で実際に起こった出来事の中で、ヨハネはイエス証言をしているのです。

 

そのヨハネのイエス証言が、どのような状況において行われたのかを、「さて、ヨハネの証しはこうである」(19節、新共同訳)と言って、今日の聖書箇所が記しているのです。

「証し」(マルトウリア)とは、20節「すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した」(口語訳)に記されていますように、「告白する」「否先ず」という言葉を含めて、もともとは法廷用語です。ある事件を目撃して知っている人が、法廷に喚問されて、裁判官の前で、その事件の真実を包み隠さずありのままに申し述べることです。「証人」(マルトウス)は、法廷において真実を語る義務を負っています。偽証、いつわりの証しは、法的にも道義的にも、重大な罪であるのは、今も昔も変わりありません。ヨハネ福音書の著者)は好んで「証し」という言葉を用いています。(先ほども言いましたように)ヨハネ福音書全体が、キリストについての証言の記録であると言ってもよいでしょう。

 

「言(ロゴス)の受肉」であるイエス・キリストの福音の真理は、それを証言する器である人の言葉を通して証しされるのです。「泉から水を汲み出して運ぶためには水を盛る器が必要であるように、福音の真理を語り伝えるためには、それを担い盛る器である証人が必要となるのであります。」(森野)。

 

おそらくヨハネ福音書の著者は、ヨハネ福音書の教会(共同体)のメンバーであるキリスト者には、福音の真理の証人となることが求められていると考えていたのだろうと思います。ですから、ここで描かれているバプテスマのヨハネの証人としての姿は、ヨハネ福音書の共同体のメンバー一人一人のあるべき姿として描いているのではないでしょうか。それは、今日における私たちキリスト者のあるべき姿でもあると言えるでしょう。

 

バプテスマのヨハネの証しは、「エルサレムユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき」(19節、新共同訳)に、それに答えてなされています。「あなたは、どなたですか」という質問には、「わたしはメシアではない」と。ところが、預言の中には、民のもとにくることを約束されている他の人物がいました。マラキは、神の大いなる日に、神の群れをととのえるエリヤの到来を約束しています(マラキ4:5)。そこで祭司やレビ人は「では何ですか。あなたはエリヤですか」と問います、バプテスマのヨハネは「違う」と答えます。またモーセは、自分のように神からつかわされる預言者の到来について語っています(申命記18:15)。祭司やレビ人は「あなたは、あの預言者ですか」と問います。バプテスマのヨハネは「そうではない」と否定します。

 

ここでのヨハネの証しはまずもって、「わたしは・・・ではない」という消極的、否定的な形をとっています。「彼は光ではなく、光について証しするためにきた」(8節、新共同訳)と言われている通りです。――「わたしはメシア(キリスト)ではない」(20節)。「わたしはエリヤ(預言者エリヤの再来)ではない」(21節)。「わたしは、(世の終わりに来る)あの預言者ではない」(21節)と。

すると祭司やレビ人は、ヨハネにこのように言ったというのです。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなしません。あなたは自分を何だと言うのですか」(22節)と。それに対して、「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。/『主の道をまっすぐにせよ』と。」答えたというのです。

 

井上良雄さんは、[ここでヨハネが自分を「声」と規定していることに、私たちは注意しなければなりません。彼がそのように自己規定しているということは、彼の叫びの内容こそが重大なのであって、彼自身はその伝達者にすぎないということだと、思います]と言っています。ヨハネの叫びの内容とは、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(26,27節)というキリスト告白です。15節にも、同じ内容のことを、「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った」記されていて、ここでははっきりと声を張り上げたヨハネの叫びとしてキリスト告白が記されているのであります。

 

このようにバプテスマのヨハネの証言を見てみますと、その証言には、「わたしは・・・ではない」という消極的、否定的側面と、イエス・キリストを指し示す声という肯定的、積極的な面があることが分かります。

 

キリストを証しするとは、キリスト以外のあらゆる価値を相対化すること、「それはキリストではない」と告白することであり、そこに否定の告白の意味があります。森野善右衛門さんは、「真の信仰は、その基底に、現生否定的な生き方を持っています。それは決してこの世を軽蔑し、または悲観するところから来るペシミスティックな考え方、生き方ではなく、この世を超えたところに究極の価値と意味を見出すところから来るのです。『目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようとつとめる』(フィリピ3:14)生活――これがキリスト教的生活であります。この世に安住し、富や名誉や地位にしがみつくような生き方はキリスト者のものではありません」と言っています。「富や名誉や地位にしがみつくような生き方」はしなくても、ある程度安定した生活を手放せないところが、私たちの中にはあるのではないでしょうか。

 

バプテスマのヨハネは、荒野に住み、「らくだの毛ごろもを着物にし、いなごと野密とを食物としていた」(マタイ3:4)と言われます。禁欲的生活それ自体を自己目的化してはいけないでしょう。生きるために最低限必要なものまで捨てる必要はありません。ただ必要以上のものを求め過ぎているとすれば、その信仰は神と富とを同時に求めていることになるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようなキリスト者の生き方からは、自分を無にして、絶対的肯定としてキリストを指し示す、バプテスマのヨハネの証しのような説得力は生まれません。だからと言って、生活困窮者に施しをすればいいというものでもないでしょう。

 

「わたしはその履物のひもを解く資格もない」という自覚を持って、私たちの中にいたもうイエス・キリストを指し示すことは、私たちにとっては、どのようなことなのかを考えていきたいと思います。イエスは「闇の世を照ら命の光」であり、「恵みと真理に満ちている」方なのです。その方を指し示し、その方を共に生きることによって、私たち自身が変えられていくことに希望が持てるのではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
  • 今日はバプテスマのヨハネのキリスト証言をとうして、キリストを証言するということがどういうことなのかを学びました。神さま、さまざまな破れの中で、人の命と生活が暴力で奪われていく現実を私たちは抱えて生きています。どうかその只中に立ち給うキリストによって、罪と悪からの解放へと私たちが導かれますように、心からお願いいたします。
  • 権力と富を動かしている人々が、あなたの光に照らされて、あなたの御心を行う人へと導いてください。
  • 今様々な苦しみの中にある方々を癒し、支えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    237(聞け、荒れ野から)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-237.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。