なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(16)「歩き疲れるイエス」ヨハネ4:1-6

5月7(日)復活節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌  3(扉を開きて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-003.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編119編9-16節(讃美歌交読文131頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書4章1-6節(新約168頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   358(小羊をばほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

⑨ 説  教  「歩き疲れるイエス」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書4章のイエスサマリアの女との出会いの物語(4:1-42)は、他の福音書にはなく、ヨハネによる福音書にだけ記されています。1節~3節は、このイエスサマリアの女との出会いが起こる、導入の部分に当たります。

 

1節~3節を田川訳で読んでみます。

「それでイエスは、イエスヨハネよりも多くの弟子をつくり洗礼をほどこしているとパリサイ派が聞いた、と知った時に、しかしながら洗礼をほどこしていたのはイエス自身ではなく、彼の弟子たちであったのだが、ユダヤを離れ、再びガリラヤへと去った」。

 

この記述によれば、イエスは、パリサイ派を意識して、それまでいたユダヤを離れ、ガリラヤへと去った」と言われています。3章25節には、バプテスマのヨハネの弟子たちとユダヤ人との間に清め(洗礼)のことで論争が起きたことが記されていました。その論争が、イエスの宣教活動に多くのユダヤ人の目を向けさせる機会になり、そのことが、律法に熱心であったユダヤ教の最大のグループであるパリサイ派の人々の関心を引くことになったと思われます。伝統的なユダヤ教の最大グループであったパリサイ派の人々は、突然荒野に現われて、ヨルダン川で洗礼を施し、人びとに悔い改めを迫るバプテスマのヨハネの洗礼運動にも、ある種の警戒心を持ったに違いありません。ましてそのヨハネが、自分より後から来るイエスこそ、自分はその方の靴の紐を解く資格もないほど偉大な方であると証言しているのです。イエスが実際にヨハネよりも多くの者にバプテスマを授けて弟子とし、人々の注目を集めていることが、パリサイ派の人々の耳に入ったことを知ったイエスは、無駄な争いを避けて、ユダヤを離れ、ガリラヤに去って行かれたと言うのです。ただここに、「しかしながら洗礼をほどこしていたのはイエス自身ではなく、彼の弟子たちであった」と記されていて、実際に洗礼を授けていたのは、弟子たちであってイエスではないと、わざわざ断り書きが記されています。

 

この断り書きが、わざわざ聖書にしるされているということをもって、「バプテスマキリスト教信仰の最も重要な要素ではない」と言っている人がいます。ライルと言う人ですが、少し長くなりますが、その部分を引用したいと思います。

 

「しかしながら洗礼をほどこしていたのはイエス自身ではなく、彼の弟子たちであった」。<ここに用いられる表現は、非常にきわだっている。それを読むと、必然的に一つの示唆にとむ結論へと導かれる。その結論とは、バプテスマキリスト教信仰の最も重要な要素ではないということ、またバプテスマを授けることはキリスト教の牧師・伝道師が任職され、目標とされる最も大切な働きではないということ、である。主イエスが福音を語り、祈られた姿は、しばしば記録される。主の晩餐(聖餐)を制定されたことも述べられている。だが、イエスが誰かにバプテスマを授けたというような記事は、ただ一つもない。しかも、このところではっきりと、それは副次的な働きであり、他の者にゆだねられた働きであったと語られている。「イエスご自身がバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たち」がそれを行なったのであった。//キリスト教会にとって第一の、そして最大の使命は福音を宣べ伝えることにあることを、決定的な大原則として心に留めておきたい。「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです」(Ⅰコリ1:17)という使徒パウロのことばを、いつも覚えるべきである。キリストの福音が忠実に、あますところなく語られているならば、聖礼典が軽んじられるというような懸念を抱く必要はない。イエスのうちにある真理が誤りなく教えられ、受け止められる教会においては、バプテスマと主の晩餐に対して常に心からの畏敬の念が持たれることであろう」(ライル)。

 

私は、バプテスマ(洗礼)ではありませんが、聖餐式で洗礼を受けていなくても希望する人にも陪餐させていることを理由に、教団から戒規免職処分を受けています。伝統的には、洗礼も聖餐も、神の恵みの伝達手段としてサクラメントカトリックでは「秘蹟」)とされてきました。しかし、バルトは、「イエス・キリストの歴史的存在が唯一のサクラメントであって、それ以外にはない」と言っています。「説教も、洗礼も聖(晩)餐も、唯一のサクラメントであるイエス・キリストの歴史的存在という神の恵みの証しを本質とする徹底的に人間的な応答的な行為である」と言っています。

 

バルトとライルのサクラメント理解は、全く同じではありませんが、似ているように思われます。大切なのは、イエス・キリストの歴史的存在であり、それが福音であり、神の恵みなのです。「イエスのうちにある真理が誤りなく教えられ、受け止められる」ことなのです。私たちは、そのイエス・キリストの福音を聞いて信じた者であり、そのイエス・キリストの福音を宣べ伝える者なのです。

 

4節から6節には、ユダヤからガリラヤに行くときにイエスサマリアを通ったことが記されています。当時、ユダヤからガリラヤへ行く道のルートは、サマリアを経由しないルートもありました。ヨルダン渓谷を東に渡って北上してガリラヤに入ればサマリアを避けていくことができました。

 

4:9に「ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである」(新共同訳)と明言されているように、ユダヤ人とサマリア人との間は不和でありました。北王国滅亡後はアッシリアバビロニアの政策によりサマリア地域では異邦人との婚姻関係が結ばれ、宗教的にも純粋性が失われたとしてユダヤ人はサマリア人を蔑視していたのです。その上捕囚期以後エルサレム神殿の再建をサマリア人が妨害したという事実が重なって、ユダヤ人のサマリア人に対する敵意が強まったと考えられています。紀元前2世紀のマカバイ戦争当時、サマリア人はシリアのセレウコス朝に与して、ユダヤ人を攻撃し、ユダヤ人はその報復としてゲリジム山の神殿を焼き打ちにした(前129年)ことが歴史に残っています。こうしたことで、サマリア人の側からもユダヤ人に対する非常な憎悪が決定的に強くなったと考えられています。

 

共観福音書では、マルコ福音書にはサマリアサマリア人という言葉は一度も出て来ません。マタイ福音書には10:5-6に「サマリア人の町に入ってはならない」と一回言及があるだけです。ルカ福音書では3回出て来て、何れもサマリア人に好意的です(9:51-56,10:30以下、17:11以下)。使徒言行録には8章のステファノの殉教に端を発して、伝道者フィリポがサマリアで伝道したとしています。使徒言行録の世界伝道計画には「エルサレムユダヤサマリアの全土、更に地の果てまで」(1:8,9:31、3章)と、サマリアがその展望に入れられています。

 

このように見てきますと、ヨハネ福音書はルカ福音書に似てサマリアに好意的であると言えます。

 

4-6節も、田川訳で読んでみます。「だが彼はサマリアを通りぬけねばならなかった。それでシュカル(新共同訳「シカル」)と呼ばれるサマリアの町に来る。ヤコブが自分の息子のヨセフに与えた土地の近くである。そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった」。

 

ここに「イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた」と記されています。

 

福音書における他の多くの表現と同様、このところから知られるのは、イエスが私たちと同じように肉体を持っておられたという点であります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)とあるように、イエスは、罪だけを例外として、他のすべての点で私たちと同じ人間なのです。私たちと同じように、幼児から青年へ、青年から一人前の大人へと成長されました。私たちと同じように、空腹やのどの渇きを覚え、痛みを感じ、睡眠を必要とされました。私たちが弱さを持つように、イエスも罪とは関係ない人間としての弱さを持っておられました。その体は、すべての点で、私たちと同じように形づくられていたのです。

 

ですから、「イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた」のです。このことは、私たちにとっても大変大きな慰めではないでしょうか。イエスは、人として私たちが持つ弱さを同じように負っておられるのです。決して超人的な人間ではありません。私たちが経験する、愛するものを失った者の悲しみ、貧困や差別されている者の不当な苦しみや悲しみ、悪や罪を犯すことへの誘惑への苦しみを、イエスも同じように共感することができるのです。なぜなら、彼自身、試みにあって苦しまれたことがあるからです。実際の苦痛や弱さを覚えて叫ぶ時、イエスは私たちの訴えをよく理解してくださいます。私たちキリスト者の祈りや賛美のことばが肉体的な弱さによって弱々しくなる時、イエスはその状態をわかってくださるのです。私たちの体のつくりを熟知しておられ、人間であるとはどういうことなのかを、イエスは体験的に知っておられるからです。

 

ヘブライ人への手紙では、そのイエスが今は大祭司として天の高い所におられる大いなる方(神)の右の座についていると語られています(1:3)。そして、「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです」(2:17,18)と記されているのです。ここには、まことの人であり、まことの神であるイエス・キリストが大祭司として神の右にいて、今も私たちをとりなしていることが語られているのです。

 

「地上におられた間キリストはまぎれもない人間の性質を持っておられた。天に上げられた折も、真の人間性を身につけておられた。私たちには神の右に、私たちの弱さという感覚を共感し得る大祭司がおられる。なぜなら、彼自身、試みにあって苦しまれたことがあるからである。実際の苦痛や弱さを覚えて叫ぶ時、キリストは私たちの訴えをよく理解してくださる」のです。

 

私たちキリスト者は、<自分が仕えているお方の内に二つの完全無欠の本姓が宿っていると言う、この重大な真理をしっかり把握していなければならない。福音が私たちに信じるようにと迫るお方、主イエスは、疑いもなく全能の神である。すべての点で父なる神と同質であり、彼によって神のもとに来る者はすべてを完全に救うことができる。しかし同時に、同じイエスは全く確かに人間でもあられた。実際のすべての苦しみという点で人間に同情でき、人間が体をもって経験する一切のことを体験的に知っておられる。全能と思いやりとが、私たちのため十字架で死なれたお方の内にすばらしく結合されている。キリストは神であるゆえに、私たちは臆することなく確信をもって、魂の重みを主にゆだねよう。キリストには救う力がある。主は人であるゆえに、私たちは自由に、肉が受け継ぐ様々の試練について申し上げよう。キリストは人間の心をわかってくださる。ここに疲れた者への休息の場がある。ここに福音がある。贖い主は、神であると同時に人間であり、人であると同時に神であられる。彼に信頼する者は、安心感であれ平安であれ、アダムの子としての人間が必要とする一切のものを得ることができるのである>(ライル)。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、人としてのイエスが、私たちの弱さを同じように経験し、私たちの痛みや苦しみを私たちと同じように共感してくださる方であることを想い起すことができ、感謝いたします。そのイエスが、今は天に在って私たちをとりなしてくださっていることを覚えて、日々の歩みへと私たちが向かうことができますようにお導きください。そして平和の主イエスに従って生きる者としてください。
  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。私たちに分かち合う力を与えてください。
  • 神さま、この世界が平和になりますように。軍事力に頼らない平和をつくり出す力をすべての国の人々に与えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    289(みどりもふかき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-289.htm

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。