なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(57)

「堕落」エレミヤ書23:9-15,   2017年2月19日(日)船越教会礼拝説教

・自分と同じ預言者たちが、どう考えてもその本来の務めを果たさず、堕落し切っているとしか見えな

かったエレミヤは、やむにやまれず預言者たちを批判する言葉を発せざるを得ませんでした。その預言者

たちに対するエレミヤの預言が、先ほど司会者に読んでいただいた23章9節に、「預言者について」と言

う表題があり、23章40節まで記されているのであります。今日の箇所はその最初のところです。

・まず9節のエレミヤのこの言葉に注目したいと思います。<わたしの心臓はわたしのうちに破れ/骨は

すべて力を失った。/わたしは酔いどれのように/酒にのまれた男のようになった。/それは、主のゆえ

/その聖なる言葉のゆえである>と言われています。

・これはエレミヤ自身の言葉です。エレミヤは、ここで生ける神との出会いにおいて、一つの決定的な体

験をしているのではないかと思われます。それは、「神の聖と人間の生の現実の汚れとの間にある橋渡し

できないほどの距離を、はじめて畏れをもって自覚する」(ワイザー)という体験であったと思われま

す。

・エレミヤは、堕落した預言者を批判していますが、自分は堕落してはいない、自分は間違っていないと

いう、批判した預言者たちと自分は違うのだというスタンスで批判しているのではありません。<わたし

の心臓はわたしのうちに破れ/骨はすべて力を失った。/わたしは酔いどれのように/酒にのまれた男の

ようになった>と、エレミヤは言っていますが、この言葉はある種のエレミヤ自身の自己崩壊を語る言葉

です。このエレミヤの自己崩壊は、<それは、主のゆえ/その聖なる言葉のゆえである>と言われていま

すから、聖なる神に対して、自分がいかに汚れた者であるかという、神の前における自己認識と言えま

す。ワイザーは「聖なる神の現実を知る知識が真剣であればあるほど、人間の罪の現実認識は深まるもの

だからである」と言っています。

預言者イザヤもまた同じような体験をしています。イザヤ書6章のイザヤの召命の記事の中で、イザヤ

の言葉として、<「災いだ。わたしは滅ぼされる。/わたしは汚れた唇の者。/汚れた唇の民の中に住む

者。/しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」>(6:5)と言われています。

・エレミヤもイザヤも、神との個人的な出会いの中で、自分を含めた人間の汚れ、罪の現実を、幻想に

よってあたかもそのような罪の現実に私たちがいないかのように装うのではなく、ありのままの人間の罪

の現実を、自分自身を含めて、神の前に直視しているのであります。

・エレミヤの預言者批判には、そのようなエレミヤ自身の体験がベースにあるということを見失ってはな

りません。

・私たちは自分への問いを抜きにして、他者を批判する言葉を語ることが多いのではないかと思います。

あの人はああだ、こうだと言って、他者を貶めることで、何か自分が良い人間、より優れた人間であるか

のように偽装するのです。けれども、他者に向けられる言葉は、ちょうど天に向かって唾を吐くに等しい

ことなのです。その他者に向けられた言葉は自分に向けられたものとして返ってくるのです。他者批判は

イコール自己批判なのです。

・エレミヤもイザヤも、まず神の前に自らを問うたのです。神が聖なる方であることを知れば知るほど、

自らの汚れの深さに恐怖しないではいられなかったのです。まずこのことを確認しておきたいと思いま

す。

・次に、エレミヤはこの罪の現実がユダの国の中に深刻な形で表れていることを明らかにしています。直

接的な預言者批判ではなく、預言者もその中に取り込まれていると言うのです。10節から12節のところ

を、もう一度読んでみます。

・<姦淫する者がこの国に満ちている。(ここでの姦淫はヤハウエ神を捨てて、異教の神々を礼拝するこ

とを言う)/国土は呪われて喪に服し/荒れ野の牧場も干上がる。/彼らは悪の道を走り/不正にその力

を使う。/預言者も祭司も汚れ/神殿の中でさえわたしは彼らの悪を見たと/主は言われる。/それゆ

え、彼らの道は/すべる岩のようになり/彼らは暗闇の中を追われて倒れる。/わたしが彼らに災いを/

彼らを罰する年を臨ませるからだと/主は言われる>。

・悪の力が自分の民の人々の間で、猛威をするっていることに、エレミヤは驚いているのです。しかも、

祭司や預言者たちはこの悪の力に抵抗せず、むしろ自ら堕落していました。この臆病で、自己中心的な態

度こそが、やがて破滅に至る道となることに、エレミヤは気づき、そのことを、ここで指摘しているので

す。この地の住民の罪が、この地全体を苦難の巻き添えにして、祝福を呪いに変えるというのです。

・私はこのエレミヤの預言を読みながら、エレミヤが目にした罪の現実は、私たちが今生きていますこの

現代の世界にも当てはまるのではないかと思えてなりませんでした。悪の力が自分の民の人々の間で、猛

威をふるっていることに、エレミヤは驚いているのですが、悪の力が世界大で猛威を振るっているのが、

今の世界の現実ではないでしょうか。国家を巻き込みながら新自由主義経済を牛脂っています多国籍企

業、その背後でそれを動かく一部の大金持ちと、それに追随する多くの人々によって押し進められてい

る、現代の世界政治と経済活動とが、平和を阻害し、自然環境を破壊し、貧富の格差を増大しているので

はないでしょうか。それによって祝福されるべき大地が、今も爆弾の投下によって荒廃しており、原発

故でその土地には誰も入れない場所が出来てしまっているのです。大地が現代世界の苦難に直面してあえ

いでいるのです。その中で、エレミヤの時代の祭司や預言者たちがこの悪の力に抵抗せず、むしろ自ら堕

落していたように、私たちの教会とキリスト者はどうでしょうか。エレミヤの批判した預言者たちのよう

にではなく、エレミヤのようにあり得ているでしょうか。エレミヤの預言者批判を、私たち自身の問題と

して受け止めなければと思うのであります。

・さて、13節から15節では、「わたしは、エルサレム預言者たちの間におぞましいことを見た」(14節)

と言って、このところでは、エレミヤは直接預言者たちへの告発をさらに強められているのです。エルサ

レムの預言者たちのおぞましさとは、<姦淫を行い、偽りに歩むことである。/彼らは悪を行う者の手を

強め/だれひとり悪から離れられない。/彼らは皆、わたしにとってソドムのよう/彼らと共にいる者は

コモラのようだ>(14節)と言われていることです。預言者は、本来イスラエルの民を神ヤハウエのもと

に導き、神の契約の民としてイスラエルの民が、神を愛し、己のごとく隣人を愛するという、かく生きよ

と、神に定められた法(道)に従って生きるようになるために、言葉(預言)を語ることによって神と民

に仕えることでした。しかし、エルサレム預言者たちは、その本来の使命から大きく反れて、悪に加担

し、自らその悪に染まってしまっていたというのです。

・エレミヤはそのようなエルサレム預言者たち見て、すでにアッシリヤによって滅亡した北イスラエル

預言者たちには、神の審判はすでに下っていた。だから、彼らの方がエルサレム預言者たちに比べて

まだましである。他方エルサレム預言者たちは今、自分たちの不品行によって全地を汚しているのだ

と、言っているのであります。そして、エレミヤはそのような悪に加担したエルサレム預言者たちは、

個々人その責任を神によって問われるのだと語っているのです。15節にこのように言われているのです。

・<それゆえ、万軍の主は預言者たちについて/こう言われる。/見よ、わたしは彼らに苦よもぎを食べ

させ/毒の水を飲ませる。/エルサレム預言者たちから/汚れが国中に広がったからだ>と。罪を犯

し、悪に加担した責任は、ここではエルサレム預言者たちですが、それぞれ個々人がきちっととらなけ

ればならないと言われているのです。そうでなければ人間は再び同じ過ちを繰り返すのです。

第二次世界大戦が終わって、その戦争責任の取り方において、ドイツと日本が対照的であったというこ

とがよく言われます。ドイツは第二次世界大戦後ナチの協力者を探し出して、その責任を問いました。戦

後何十万人のユダヤ人虐殺に加担したアイヒマンをドイツの検察がいかに探し出したかということが映画

になっているくらいです。もうナチ協力者が生存していても、90歳以上になっていますが、今でも見つか

れば、その責任を問われるのではないかと思います。ところがご存知のように、日本の場合一部の人が戦

争犯罪者として処刑されましたが、最大の戦争犯罪者である天皇の責任が問われませんでしたので、戦争

責任の所在が不明確なまま、戦後の時代を歩んできています。そのために再び同じ過ちを繰り返す危険性

は、おそらくドイツよりはるかに日本の方が高いと思われます。犯した過ちの責任を問うということは、

再び同じ過ちを繰り返さないために大変重要なことではないかと思います。

・エレミヤが罪を犯し悪に加担したエルサレム預言者に神の審判を語るのも、同じことです。ただ罪を

犯し、悪に加担する、神の裁きの下にある私たちがどのようにして罪と悪から自由になり得るのでしょう

か。罪を犯し、悪に加担する私たちの存在が新しく変わらなければ、罪と悪から自由になることはできま

せん。けれどもパウロがローマの信徒への手紙5章12節以下で、「アダムとキリスト」について論じ、こ

のように記して言います。<一人(アダム)の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった

とすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、イエス・キリストを通して生き、

支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決を下されたように、一人

の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の不従順によって多

くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込ん

で来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増し加わったところには、恵みはなおいっ

そう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配しているように、恵みも義によって支配しつつ、わ

たしたちのイエス・キリストを通して永遠の命に導くのです>(5:17-21)。

・ここには、罪を犯したアダムの末裔である私たちが、イエス・キリストの従順によってイエス・キリス

トの仲間、兄弟姉妹に変えられたことが明確に述べられているのです。イエス・キリストを信じること

は、私たちすべてが、信じる者も信じない者も、罪から解放されて、イエス・キリストを通して永遠の命

に導かれている存在であることを信じることなのです。その信仰によって、私たちは、罪を犯し、悪に加

担し、神の裁きの下に置かれている者としてではなく、イエスによって新しくされた者として、イエス

兄弟姉妹として、神の子どもとして、アバ父よと祈りつつ、互に愛し合う者として、未だ罪と悪にまみれ

ている現実社会の中を生きていくように、招かれているのではでないでしょうか。このイエスによって私

たちの存在が根底から新しくされていることを、何よりも私たちの基盤にして生きていきたいと願う者で

あります。