「霊の実」ガラテヤの信徒への手紙5章16-26、2017年3月12日(日)船越教会礼拝説教
・昨日川崎教会でありましたアフリカ・ウガンダの性的少数者やその仲間たちを描いたドキュメンタリー映画、Call
me Kuchu上映会に行ってきました。ウガンダでは、「2014年2月、同性愛者を終身刑にできる「反同性愛法」が成
立しました。国際的な非難が巻き起こる中で、ウガンダに生きる性的少数者たちはより深刻な状況におかれるよう
になりました。この映画はこの法案をめぐり2009年に闘っていたウガンダのです」。ウガンダはイギリスの植民地
支配によりキリスト教の影響が強く、この法案成立の背景にもウガンダのキリスト教の影響があったと言われてい
ます。ウガンダのキリスト教は、聖書の中にある同性愛差別をそのまま神の定めとして理解する原理主義的な聖書
解釈から、未だ自由になっていないのではないかと思われます。
・創世記に記されています人間創造の物語によれば、私たち人間は神の被造者として男と女に造られました。この
男と女に造られたということは、二項対立的な意味ではなく、性的少数者をも含めて、お互に違いを持った存在と
して愛し合う者として造られたということではないかと思います。互いに愛し合い、互に仕え合い、共に生きる
ことによって、神によって与えられたお互いの命を喜んで生きる、そのような者として私たちは、私たち人間を
造ってくださった神の御心に従って生き、見えない神の愛を現わすのです。それが聖書にしるされた神の人間創
造の目的ではないでしょうか。
・しかし、私たちの中には、アダムとイブの物語にありますように、自分が神のような存在になりたいという自
己中心性が存在します。それを聖書では人間の罪と呼んでいます。この罪から解放されて、神の被造者としてそ
れぞれ異質な者として造られた私たちが、お互にその違いを生かし合って、どうしたら愛し合い、仕え合って生
きることができるか。これが聖書のテーマです。
・その聖書のテーマは、人間の原初史として創世記1章から11章の物語によって提起されています。
・アダムとイブが造られ、エデンの園に神は二人を住まわせます。神はこれだけは破ってはならないと、園の
中央にある木の実だけは食べてはならないと、二人に約束させます。しかし、それを食べれば神のようになれる
という蛇の誘惑に負けて、二人はその木の実を食べてしまいます。神の命令を破った二人を、神はエデンの園か
ら追放し、労働の苦しみによって生きる道と、出産による女の苦しみによる子孫への継承の道を与えます。しか
し、二人から生まれたカインとアベルは兄弟殺しをしてしまいます。その後大地に広がって住むようになった人
類の罪はますますひどくなり、神は人間をノア家族のみ箱舟で救い、後は洪水によって全滅させてしまいます。
神はそのことを悔いて、二度とそのようなことはすまいと誓います。ノアの末裔も洪水前の人類と同じように罪
深く、バベルと塔を築いて、神のようになろうとします。神はバベルの塔を破壊し、人間を全地に散らします。
そこまでが創世記11章で終わります。
・創世記12章から始まるアブラハムの物語からは、神に選ばれた人間、神との契約の民、イスラエル民族による
実験がはじまります。神との契約をベースにして、奴隷であったエジプトからモーセを指導者にして解放された
イスラエルの民が、ただ神のみを神とし、隣人の命と生活を互に奪わないという定めを守って、神によって造ら
れた人間にふさわしく互いに愛し合て、仕え合って、共に生きて行く、それが契約の民イスラエル民族がめざし
た目標です。創世記12章以下の旧約聖書はこの信仰の民イスラエルについての証言集です。けれども、この実験
もその目的を達することはできませんでした。
・聖書は、イスラエルの民に代わって、神がイエスをこの世に遣わし、イエスとその仲間たちによる新しい契約
を私たちに与えてくださったと言うのです。それはイスラエルの民に与えられた律法や割礼ではなく、パウロは
このガラテヤの信徒への手紙で、それは人間の肉に支配されないキリストにある自由だと言っているのです。
・5章1節に、《キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった》と言われています。また、5章13節では、
《兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会と
せず、愛によって互いに仕えなさい》と言われています。
・ここでパウロが言うところの「自由」とは、どういうことなのでしょうか。
・私はサスペンスを見るのが好きで、鶴巻で昼一人でいるときは、自分で冷蔵庫にある物でお昼を食べながら、
12時から2時間BSの5チャンネルと8チャンネルで、すでに放映された古いサスペンスを放映していますので、
どちらかを観ています。連れ合いが一緒にいる時は、ご飯を食べながら人殺しをする番組をよく見ていられる
わねと言われますが、それでも観ることもあります。サスペンスは大体パターンがあります。犯罪を犯す人間は
過去の負い目に縛られて、そこから自由になれません。犯罪を犯すことによって過去の負い目から自由になろう
としているように思われます。犯罪を犯しても自由になれないのですが、時々サスペンスの中には、犯罪者を愛
する人が登場してきて、その犯罪者が捕まった時、刑事とは限らないのですが、サスペンスの主人公によって、
罪を償ってやり直しなさいと言われて、その犯罪者が悔い改めているというシーンがよく出てきます。この過
去の囚われからの自由は、私たちが前向きに生きて行くためには必要なことではないでしょうか。そしてその
自由は、自分自身が欠け替えのない固有な存在として生かされているということへの気づきから与えられるの
ではないでしょうか。
・パウロは、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」と言っています。これは、キリストが罪の
囚われから私たちを自由にしてくださったということです。イエスは、「幼な子のようにならなければ、神の国
に入ることはできない」と言われましたが、このイエスの言う「幼な子」性が自由ということなのではないで
しょうか。無償の愛によって育てられた幼な子の自由さです。
・パウロは、《兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を
犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい》(5:13)と語ります。そしてこの勧めの展開が、今日のガラ
テヤの信徒への手紙5章16節以下の箇所なのです。
・この箇所には、繰り返し「霊に従って」とか「霊に導かれて」ということが語られています。16節、《わた
しが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい》。18節、《しかし、霊に導かれている
なら・・・》。25節、《わたしたちは、霊の導きに従って生きるなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう》
と。
・この「霊に従う」とか「霊に導かれる」ということはどういうことなのでしょうか。最近「霊性」ということ
がよく言われます。農村伝道神学校では「霊性についての講座」がありますし、座禅の授業というか、実際に座
禅がとり入れられています。私も紅葉坂教会時代には10年ほど「黙想と祈りの夕べ」という集まりを持ったこと
があります。聖書を読んで、しばらく黙想して、それぞれの思いを語り合い、祈って終わるという集まりです。
いつも少人数でしたが、連れ合いは、この集いで黙想の時を持ち、自分が思うところを語ることによって、自分
の考えをまとめることできるようになったと言っていました。聖書を読むだけで、聖書の解き明かしはありませ
んので、自分が黙想して、聖書の言葉を思いめぐらすわけです。自分なりに聖書の言葉から触発されたことがあ
れば、それを語るので、自分の中で聖書の言葉を反芻することになります。日常の生活は課題に追われるように、
忙しく生活していますので、静かに聖書の言葉と向かい合う時は、意識してつくらないと、そういう時間を持つ
ことなく、生活が流れて行ってしまいます。聖書と向かい合う時間を日常的に持つことによって、生活の中での
様々な出会いの中で神に出会うというか、イエスに出会うということが起きるのではないでしょうか。
・私は、「霊に従う」とか「霊に導かれる」という場合の「霊」は、神の霊でありキリストの霊であると思って
います。ですから、「霊に従う」とは「神に従う」「キリストに従う」ということであり、「霊に導かれる」と
は、「神に導かれる」「キリストに導かれる」ということだと思っています。
・また、今日の所には、霊と肉の対立抗争について記されています。「霊の導きに従って歩めば」、「決して肉
の欲望を満足させるようなことはありません」(16節)と言われていますし、17節ではこのように語られていま
す。《肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、
あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです》と。
・パウロによれば、キリスト者の倫理的生活は肉の力と霊の力のせめぎ合う場であります。肉(サルクス)とは、
この文脈では、神の意思に反する人間的思いのことであり、一つの支配力として働いています。信仰者の心の中
で、霊の働きによって生じる思いと、肉の働きによって引き起こされる思いとが互いに争い、拮抗しているとい
うのです。パウロはローマの信徒への手紙8章6節で、「肉の思いは死であり、霊の思いはいのちと平和である」
と言っています。
・人間を唆して罪ある業へと向かわせる肉の力に打ち克つ力は、人間の中にはなく、神が与えた聖なる霊の働き
に由来するのではないかというのです。様々な悪行は「肉の業」(ガラ5:19)であるのに対して、様々な美徳は
「霊の実」である(5:22)と。
・キリストの受肉によって私たちは神の愛を受け、神の子となる可能性が開かれているのです。神の霊は信じる
者の心に働いて、御心にかなった思いを起こさせるので、「霊によって歩む」ならば、「肉の欲を充たすことが
ない」はずであると。こうして霊は信仰者の倫理的生活を導く力となるというのです。
・「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、
不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラ5:19~21)。
・このように悪徳を列挙した後、パウロは、「そのようなことを行っている者たちは神の国を継ぐことはない」
という警告を与えています。「神の国を継ぐことはない」ということは、人間に下される終末的裁きを意味しま
す。キリストを信じることによって義とされ、聖霊を受けて神の子とされていても、そのことは終末的救いに与
ることを自動的に保証するものではないというのです。ここで引用されている悪徳表は一般的な内容のものであ
り、他の書簡にに見られますが(ロマ1:24-32;汽灰5:10-11,6:9-10)、パウロはガラテヤの信徒たちの現況を
鑑みて、再度強調する必要を感じていたのでしょう。
・パウロは、霊の実として「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という徳目を列挙してい
ます。これらの徳目は、律法のめざすとことに一致しています。
・「キリストに属する者たちは、肉を熱情や欲情と共に十字架に架けてしまったのです」(24節)と、パウロ
は主張しています。「十字架に架ける」ということは、本来はローマの極刑である「十字刑を執行することで
すが、ここでは「肉」に象徴される今までの自己中心的な生の在り方に終止符を打つことを指しています。根
底にある表象は、信仰を通して信徒の生がキリストと結び付けられ、キリストの十字架の死と復活に与り、神の
ために生きる新しい生が与えられるというのです。このことは後にローマの信徒への手紙で展開されるキリスト
と共に死に、キリストとともに甦るということと同一の事柄の違った表現法であると考えられます。
・「霊によって生きている」ということは、宗教的な熱狂を生むのではなく、霊の指し示すところに従って歩
む倫理的生き方を生まなければなりません。虚栄心や、相互の争いや嫉妬は、「愛を通して互いに仕え合」うこ
と(ガラ5:13)を妨げ、教会の交わりを損ないます(5:15を参照)。これらを避けることは、霊に従う者たちの
当然の務めであると、パウロがここで敢えて強調しているのは、虚栄心や相互の争いが当時の教会にしばしば見
られる深刻な問題であったからではないかと思われます(汽灰6:1-6;フィリ4:2-3)。
・さて、このガラテヤの信徒への手紙における霊による倫理的な生き方としてパウロの挙げている徳目は、極め
て個人主義的なもののように思われます。これらの徳目はローマ皇帝が支配するヘレニズム社会の中で立派な市
民の生き方として認められていたものでもありました。そのような立派な市民の生き方をキリスト者もしていか
なければならない。そのようにして、教会はローマ社会の中で人々に認められていかなければならない教会内的
な倫理、これがパウロの主張ではないでしょうか。
・けれども、福音書のイエスにおける怒りや憤りはこの徳目の中には入っていません。イエスは何に怒り、憤っ
たのでしょうか。人を抑圧差別するこの世の見えない力、悪霊やその力を体現している権力者や宗教家たちに対
してではないでしょうか。キリスト者としての倫理的生の中に、このイエスの怒りと憤りも必要なのではないで
しょうか。
・そのことを、今日の箇所からのメッセージに付け加えておきたいと思います。