なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(45)

     「イエスの招き」マタイ9:9-13、2019年7月28日(日)船越教会礼拝説教
               

・自分が今日のマタイによる福音書に出てくる徴税人のマタイだったら、その場所を通りかかったイエス

が、「わたしに従いなさい」と言われたとき、マタイのように迷わずに「立ち上がって、イエスに従う」

ことができるでしょうか。


・特にマタイは徴税人として、同じユダヤ人の仲間からローマの名において税金を徴収し、外国である

ローマの使い走りをして生活していたのです。仲間のユダヤ人にとっては、マタイは敵であるローマ側に

ついている裏切り者でした。


・徴税人マタイはさらに、もう一つのレッテルで仲間のユダヤ人から見られていました。それは、ユダヤ

人が守るべき律法を破る、ルールを守らない悪い人でした。徴税人という仕事上、ローマの人と付き合う

ために、目上のローマ人の仕来りに従わざるをえなかったので、ユダヤの決まりを破ることが時々あった

のです。


・仲間の人々から裏切り者として、ルールを守らない悪い人として自分が見られていたことを、マタイは

よく知っていました。ですから、自分は徴税人である以上、仲間と一緒にはなれないはずれ者だとマタイ

は思っていました。


・そういうマタイが、同じユダヤ人であるイエスから、出会い頭に「わたしに従いなさい」と招かれたの

です。自分のような人間に、自分と同じようにユダヤ人から軽蔑されている人ではなく、声をかけてくれ

ユダヤ人があるとは、マタイは思ってもいませんでした。しかも「わたしに従いなさい」と。


・「わたしに従いなさい」ということは、イエスはこの自分を仲間として迎えてくれていることを意味し

ます。「わたしに従いなさい」とイエスから声をかけられたとき、マタイは、この人にとっては自分が徴

税人であるということは全く関係ないことなのかもしれない。一人のかけがえの無い人間として自分を見

てくれているのかもしれないと、一瞬全身を貫く稲妻のように感じたことでしょう。反射的に「彼は立ち

上がってイエスに従った」のです。


・それから「イエスがその家で食事をしておられたときのことです」(10節)。「徴税人や(徴税人と

同じユダヤのルールを守れない)罪人も大勢やってきて、イエスと弟子たちと同席して」いました。


・食事は、食事において人と人とが共にあるのです。食事において人と人は生命をわかちあい、その運命

をともにするのです。徴税人と罪人と食事を共にされたイエスは、徴税人や罪人の一人になられたという

ことでもあります。マルコによる福音書15章28節に「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と証言さ

れているとおりです。


・ところが、「ファリサイ派の人々はこれを見て、(イエスの)弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生

は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言」いました。ファリサイ派の人々には、イエスのしておら

えることが全く理解できませんでした。「ユダヤ教においては、食事とは神が与えてくれた食物を神への

感謝と讃美のうちに聖別して食べる一種の礼拝」と考えられていたからです。ですからユダヤ人のルール

である律法に忠実な人々は、「食事が罪人によって汚されないように自宅で食事をした」と言われます。

「律法を唱えない者と食事を共にすることは、偶像にささげた犠牲を食べるようなものだ。食事は汚物で

満ちている」というユダヤ教の教師ラビもいたそうです。彼らにとって食事は神聖でなければならなかっ

たからです。


・「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたし

が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とは、どういう意味か、行って学びなさい。わたしが

来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(12,13節)と。


・このイエスの物語では、私たち人間が、私たち人間の中に立てる人と人とを分け隔てる壁が崩れて、な

くなってしまいます。義人と罪人、丈夫な人と心身に病気や障がいのある人の間にある隔ての壁が音を立

てて崩れていくのです。


山本太郎さんが、今回の参議院選で新しい党をつくって、二人の重度の障がい者の人が参議院議員に当

選しました。これはすごいことです。最近の新聞には、国会が二人の議員を受けいれ、参議院議員として

の活動ができるように、参議院本会議場の椅子三つを取り払って、車いすが置けるようにしたとか、二人

の議員の表現活動が保証されるような補助手段を認めるとか、いろいろな改革が進められています。とい

うことは、今まで車いすで議員をしていた八代英太さんのような人はいますが、お二人のような重度の障

がい者が議員になるということは、想定していなかったいうことです。想定していなかったことによって

国会の中にあった隔ての壁が、二人の議員の当選によって壊されていっているのです。


・一方、つい最近7月26日でした。三年前の7月26には相模原のやまゆり学園事件が起きた日です。植松聖

という人が起こした、やまゆり学園に入所していた障がい者と職員、19人が殺害され27人が負傷した事件

です。植松聖に面会を続けている、自分の子どもにも障害を負っている人がいる新聞記者の人や障がい者

のことで本を書いている著作家渡辺一史さん)によれば、「障がい者は社会には不要である」というあ

る種の優生思想だと思われますが、植松聖の障がい者に対する考え方は、今も変わらないと言われます。


・人と人との間に、「義人と罪人」という、また「丈夫な人と病人」という、基準線を引いて、人を区別

し、差別し、強い立場の人間が弱い立場の人間を差別・排除していく現実は、今も再生産されているので

はないかと思われます。特に労働の現場では、経済至上主義が支配しているでしょうから、役に立つ人間

と役に立たない人間という分け隔てが露わとなっているのではないでしょうか。


・教会の中にもこの人間を分け隔てする基準線が持ち込まれているように思われます。正統的な信仰とそ

うでない異端的な信仰という分離です。正統と異端です。


・信仰とは何か、教会とは何かという、正統と自認する教義(おしえ)による一致を求めることによっ

て、そうでない立場の人を排除していくのです。


・これはイエスにはなかったことで、後の教会がつくり出したものです。イエスは当時のユダヤ教正統派

のファリサイ人を批判しています。


・今日の箇所でも、徴税人のマタイを招いて、彼と共に、また弟子たちと共にしていた食卓に「徴税人や

罪人も大勢やってきて、イエスの弟子たちと同席していた」(マタイ9:10)のを見て、先ほども引用しま

したように、ファリサイ派の人々は弟子たちにこう質問したと言うのです。「なぜ、あなたがたの先生は

徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。


・すると、<イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人であ

る。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とは、どういう意味か,行って学びなさ

い。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」>(マタイ9:12,1

3)。


・先週の日曜日に船越教会の初代の棚山六三郎牧師の関係者の方礼拝に来られました。その時その方に

『船越教会創立50年誌』差し上げましたので、私も改めてパラパラと50年誌をめくってみました。その中

の「歴史に生きたイエスに立ちかえる事」という文章改めて読んで感銘を受けました。この表題の下に

「赤城先生の言葉より」というメモ書きがあり、「故赤城昭二郎牧師 南米サンパウロ教会にて事故によ

り永眠、享年62歳」と記されています。その「歴史に生きたイエスに立ちかえる事」という文章は、こう

いう文章です。短い言葉ですので、全文お読みします。


・「私はキリスト教にたまらなく嫌気がすることがある。それと同時にイエスにたまらない愛着を覚え

る。私は悟りきっているような顔をしている人に、真実を見ることができない。世界の矛盾に苦悩して、

生きている人に真実を見る。イエスを追求すればするほど、キリスト教がイエスとは異なることがはっき

りしていきて、キリスト教を批判せざるを得ないのです。批判を通過して、イエスキリスト教の先駆者

ではなく歴史の先駆者でありました。我らの主とするイエスは逆説的反抗者の道を生きたが故に十字架に

殺された。イエスが生き主張したとことキリスト教が教えてきた事は異なるのです。我らキリスト者がい

まなすべきことは、歴史に生きたイエスに立ちかえる事です。」


・現在世界的に、これまで少しずつ進展してきた多様性を認め合って、共に生きる社会から、自国主義

立ち帰っていくところが多く、格差・差別社会に向かう危険性が大きくなっています。世界的に見れば、

これ以上の経済成長の可能性がほとんどなくなっている状況で、奪い合う関係から分かち合う関係に変わ

らなければならないにもかかわらず、なおより多くをめざす奪い合いの関係を貫こうとしているからで

す。そのため人と人とを隔てる壁が強化されようとしています。


・そういう現状にあって、イエスが実際に生きられた、今日の記事に見られるような、開かれた食卓共同

体が示している道を、私たちは踏み誤らないで歩んでいきたいと願います。