「神の平和」フィリピの信徒への手紙4:1-9、2019年8月4日(日)平和聖日説教
・今日は平和聖日です。これは日本基督教団が8月第一日曜日を平和聖日としたことによって、日本基督 教団に属する私たちの教会が8月第一日曜日の礼拝を平和聖日として毎年守っているのです。
・この8月第一日曜日を日本基督教団の平和聖日とすることを提案したのは、広島のある西中国教区で
す。広島はご存知のように1945年8月6日に、世界で初めて原子爆弾が投下された所です。8月9日には長崎
にも原子爆弾が投下されました。そして1945年8月15日に日本は敗戦を受けいれたのです。ですから、私
たちにとって日本が侵した侵略戦争の過ちを憶え、二度と再び戦争をしてはならないとの決意を新たに
し、平和の大切さを繰り返し考えるために、毎年8月は特別な月になっています。
・西中国教区は8月6日のヒロシマへの原爆投下を憶え、8月第一日日曜日を平和聖日とすることを教団総
会に提案し、日本基督教団は8月第一日曜日を平和聖日にしました。
・この平和聖日のメッセージを、今年はパウロの書簡の一つでありますフィリピの信徒への手紙4章1節か
ら9節のテキストから聞きたいと思います。この箇所には2箇所「平和」という言葉が出てきます。7節と9
節です。どちらも原語ではエイレーネーという言葉が使われています。7節は「神の平和」(ヘー・エイ
レーネー・トゥー・テウー)で、9節は「平和の神」(ホ・テオス・テース・エイレーネー)です。
・ギリシャ語のエイレーネー(平和)は、パウロをはじめ新約聖書でそれを用いられる場合には、旧約聖
書の「平和(シャローム)」の意味で用いられています。そこで手元にある聖書事典で旧約聖書でシャ
ロームがどういう意味合いで使われているかを調べてみました。
・➀第一に、「旧約聖書において戦争の対立概念としての平和を意味する語はシャロームである」とあ
り、シャローム(平和)が戦争の対立概念であることが明確に述べられています。
・◆屬靴し、それ(シャローム)は単なる政治的概念ではない。元来この語は、何かが欠如したりそこ
なわれたりしていない充足状態をさし、そこからさらに無事、安否、繁栄、安心、親和(互いになごやか
に親しむこと)、和解など、人間の生のあらゆる領域にわたって真に望ましい状態を意味する語である。
それは単に精神的な平安状態のみでなく、歴史的社会的具体性を伴った福祉状態を包括する概念である」
とも言われています。つまりこのことは、日本国憲法第25条の生存権の保障を意味します。「第二十五
条:すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。/国は、すべての生活部面につ
いて、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
・ですからシャローム(平和)は、人が誰であっても、戦争がなく、精神的にも物質的にも安心して生活
できる、満ち足りた状態を意味すると思われます。
・「このような意味での(シャローム)平和は、(旧約聖書の民)イスラエルにとっては神の業であ
り、神の賜物にほかならない。しかし、それは神に対する人間の態度と無関係に与えられるのではなく、
人間が神の意志に基づき正義を行うことによって神との契約を正しく保持するところに現実化されるので
ある。『正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である』(口語訳、イザヤ32:17)と
言われるように、平和は義や公平と切り離すことはできない」。
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到来、諸国民の神への帰依による世界平和の確立、あるいはまた、正義による平和をもたらすメシア的王
の到来など、さまざまな構想をもって理想的な平和について語り、そのような真の平和の実現を終末論的
に(神が実現成就してくださると)待望した。彼らはまた、神の意志に基づいた真の平和の確立のために
は、見せかけの平和状態や偽りの平和の預言に対して、戦争と滅亡の預言をすることもあえて辞さなかっ
た」のです。
・イ任垢ら、「旧約聖書においては、真の平和は、人間の不義と悪の現実に対する神の裁きと赦しの業
によって、苦難のかなたに初めて終末論的に実現される救いそのものとして待望されている」いるので
す。
・新約聖書のエイレーネー(平和)はどのような意味合いで使われているのでしょうか。
・➀「新約聖書において平和を意味するエイレーネーという語も、単に戦争と対立する政治的社会的概念
としての平和のみをさしているのではない。エイレーネーは、当時のギリシャ思想の影響を受けて、確か
に内面化されているが、いかし基本的には、ヘブル語のシャロームが包含している多様な意味内容とその
終末論的特質をそのまま受け継ぎ、人間の生の全領域にわたって神の意志に基づいた真の望ましい状態を
さしている。もちろんその場合、シャロームの意味内容や特質が、キリストの福音によってより深められ
ていることは言うまでもない」。
・◆峙賁鸚蚕颪篥??離罐瀬箒気砲いて終末論的に待望されていたシャローム、すなわち神の救いとし
ての真の平和がイエス・キリストによって実現されていることを認識かつ体得し、そのことをエイレー
ネーという語を用いて表現しているのである。キリストがもたらしたのは『平和の福音』であり、真の平
和を確立する『平和の道』にほかならない。人間はイエス・キリストの十字架によって神との敵対関係か
ら和解へと導かれ、同時に、それに基づいて神との間のみならず、人間相互間の平和をも与えられたので
ある」。
・「キリストが実現したこのような終末論的な平和は、「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)と呼
ばれる当時のローマ帝国の支配下における平和のような見せかけの平和とは根本的に異なっている。神の
意志が無視され、特定の人びとや民族が抑圧されているところに真の平和はあり得ないからである。
・ぁ屮ぅ┘垢蓮愧肋紊吠刃造鬚發燭蕕垢燭瓩法△錣燭靴きたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込
むためにきたのである』(口語訳、マタイ10:34=ルカ12:51、黙示録6:4)と言ったが、この言葉は、イ
エスが虚偽や見せかけの平和に対して戦った旧約の預言者達の伝統と、救いとしての平和への終末論的待
望の上に堅く立って、神の意志に基づいた平和を実現するために、自己の前実存を投げ出したことを端的
に示している」。
・ァ崙瑛佑縫僖Ε蹐發泙拭∧刃造亮腑リストへの信仰に基づいた終末論的実存から脱落して見せかけの
平和状態の中に眠り込んでしまおうとするキリスト者たちに対して(「人々が『無事だ、安全だ』と言っ
ているやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決し
てそれから逃れられません」〔第一テサロニケ5:3〕という)警告を発したが、パウロをはじめ新約時代
の教会の人びとにとって、平和を追い求めること、また平和を作り出すことは、『平和の福音』に従って
生きる終末論的実存者の倫理にほかならなかった」のです。
・パウロが用いています「神の平和」「平和の神」の「平和」にはこのような意味合いが込められている
ことを憶えたいと思います。そして今年の平和聖日に当たって、「パウロをはじめ新約時代の教会の人び
とにとって、平和を追い求めること、また平和を作り出すことは、『平和の福音』に従って生きる終末論
的実存者の倫理にほかならなかった」ことを再確認したいと思います。その上に立って、私たちもまた、
そのような「『平和の福音』に従って生きる終末論的実存者の倫理」をもって、「平和を追い求めるこ
と、また平和を作り出す」者として、今ここでの状況の中で立ち続けていきたいと願います。
・すでにある人々からは、日本の現在は戦時下であると言われていることを踏まえて、かつての日本の天
皇制絶対主義的国家の下に積極的に戦争協力した日本基督教団の諸教会・伝道所の歴史を反省し、二度と
再び「戦責告白」を出さないですむように、国家の戦争行為に抵抗していきたいと思います。
・最後にその文言には一部不適切な言葉があり、また内容的には不十分な面もありますが、1967年のイー
スターに、当時の日本基督教団総会議長鈴木正久さんの名前で出しました「戦責告白」を朗読して終わり
たいと思います。
・「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)
・わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわ
たくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本
及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。
まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯
したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。
わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請い
たしました。
明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの
福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教
会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。
わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる
歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。
「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故に
こそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努める
ことを、内外にむかって声明いたしました。
まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わ
たくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、
主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同
胞にこころからのゆるしを請う次第であります。
終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふ
たたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたた
びそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、
主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。
1967年3月26日 復活主日
日本基督教団総会議長 鈴木正久
・ 祈ります。