なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(516)

船越通信、№516 2022年5月22日(日)北村慈郎

 

  • 15日(日)は礼拝後、Nさんが作って来てくれたサンドイッチをいただいて、第2回目の「ウクライナに平和を!」のスタンディングを京急田浦駅前で、7人の参加者によって行いました。40分ほどでしたが、カンパをして下さる方や署名をして下さる方が、前回よりも多かったように思います。午後1時少し前に終了し、その場で散会しました。私とSさんの二人で教会まで戻りました。教会に戻ってから、Sさんも帰り、私も後片付けをして午後1時38分の追浜行のバスに乗り、鶴巻への帰途に着きました。この日はIさんのお見舞いカードに、出席者が一言を添えたり、名前だけの方もいますが、署名しました。ただ出席者が少なかったので、私がメールでみなさんにIさんの報告をして、遠くの方から寄せられたものを、22日(日)にお見舞いカードに代筆し、その日に投函することにしました。
  • 20日(金)午前中にIさんから電話をもらい、手術と術後の様子を伺いました。その電話のIさんの声は、入院する前のIさんの声よりも、大変元気に聞こえました。Iさんに現在の様子をうかがってから、「お元気な声で安心しました」と申し上げましたら、彼女も入院前はしんどかったのでと、おっしゃっていました。病院に検査に行ったら、あれよあれよと入院手術になり、びっくりされたと思いますが、術後しばらく経っていましたので、大分平常の状態に戻っているのではないかと思われます。ただ今後、お話をお聞きする限り、抗がん剤治療をするようですので、皆さんも、Iさんのことを覚えて、今後もお祈りくださいますようにお願いいたします。
  • この週の前半は、4月2日開催の私の支援会総会で発言してくださった元神奈川教区議長・元住吉教会牧師のMさんの発言(Mさんは講演ではなく、発言ということで引き受けてくれたとおっしゃっていますので、発言にしておきます)を、録音から文章化する作業をしました。Mさんに原稿をお願いしていたのですが、事情があって、今Mさんにはとても原稿を書く余裕がありませんので、私が文章化し、それをMさんに送り、手を入れてもらって、Mさんの発言を支援会通信の次号に掲載したいと思っています。その通信発行が6月10日前後を予定していますので、どうしても今月中には文章化した原稿を完成しなければならないからです。関田先生の支援会総会の挨拶も、先生の修正版をデータにして、先生に送って、手を入れてもらい完成稿が20日には出来上がりました。
  • 17日(火)夕方、紅葉坂教会時代の信徒の方で、町田に住んでいて、数年前にご夫妻で町田の教会に転会され、半年ほど前に妻であるお連れ合いが帰天したIさんから電話がありました。久しぶりに互いの近況報告を交換しました。Iさんの電話の目的は、80代後半になる方と二人で私のところに来たいということでした。一週の内で予定もなく家にいる日をお知らせしましたら、折り返し、もう一人の方と打ち合わせを下上で、電話連絡があり、来週火曜日24日の午後に二人で私の所に来て下さることになりました。
  • 19日(木)は、前週より小田急鶴巻温泉駅を20分ほど遅く、11:24の快速急行で国会前の座り込みに出かけました。それでも代々木上原で地下鉄千代田線に乗り換えて、国会議事堂前駅に着いたのが12時40分頃でした。まだ少し早いので、国会記者クラブ会館の中にある食堂でおそばを食べてから、参議院会館前の座り込みの場所に行きました。午後1時少し過ぎていましたので、既に二人の方が、横断幕やプラカードを石壁に貼っていました。私が到着したのと、ほぼ同時に3人組のもう一人の方も到着しました。アッピールのための準備を終えた頃、平和をつくり出す宗教者ネットの議員会館での集会に来た、東神大の一年後輩の友人ご夫妻と、久しぶりに会いました。彼は3年間国会前には来ていなかったので、3年ぶりに来た、と言っていました。私の連れ合いが元気なころに、私も国会前の座り込みに来て、宗教者ネットの集会に来ていた彼とは何度か会って、話をしていました。彼に私の連れ合いが2年ちょっと前に亡くなったことを話したら、彼はびっくりしていました。彼は私の支援会にも参加してくれていて、数年前から支援会通信を出しても戻って来て、音信不通になっていましたので、新しい住所を私のノートに書いてもらいました。音信不通になったときに、彼もそれなりの年なので何かあったのではないかと思っていましたが、今回元気な彼と再会できて、嬉しかったです。彼とお連れ合いが、宗教者ネットの集会に行った後、横浜から来た二人の座り込みへ参加者の一人の方が、私と話したいとおっしゃって、この日はその後座り込みの終わるまで、ほとんど彼と話していました。彼は、最初復活について、永遠の生命について、私がどのように考えているのか、質問してきました。復活については、教会だより「船越の丘」第18号に掲載しています、4月17日のイースターでの私の説教に基づいて、特にボンフェッファーの「新しい人間の創造」ということをお話しました。また、彼は「永遠の生命」と「永遠に続く」生命と受けとめて、疑問を抱いていたようでしたので、鈴木正久さんのマルコ福音書の説教集、確か『神の国のおとずれ』だったと思いましが、その中のどこかで、鈴木正久さんは「永遠の生命とは永遠に意味ある生である」という趣旨のことを言っています。彼にはそのことを紹介しました。他にも、キリスト教にとっては知的な神学的理解よりもイエスへの追従としての信仰者の生き方が大切ではないか。それがキリスト教の問題ではないかという趣旨のことを言われました。これには知性を重んじたテルトリアヌースに代表される西方教会と、感覚を大切にしたオリゲネスを代表とする東方教会の違いを説明し、知性も感覚も誤ることがあり、どっちもどっちで、イエスへの追従としての信仰者の生き方は、どちらからも生まれるし、どちらからも生まれないというものではないかという話をしました。その後お互いの信仰者としての歴史を披瀝し合う中で、彼が浅野順一牧師に師事していたことがわかり、私の最初の赴任した教会が、やはり浅野順一先生を師事していた藤村靖一先生が自宅で開拓伝道した教会で、私の3人の子供たちは浅野先生から幼児洗礼を受けていることなどを話し、浅野先生繋がりで、いろいろと話題が広がり話が盛り上がりました。気づいたら、座り込みの終わりの時間になっていました。

ローマの信徒への手紙による説教(47)

5月22(日)復活節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編15編1-5節(讃美歌交読詩編15頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙11章11-12節1(新約290頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     60(どんなにちいさいことりでも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-060.htm

⑨ 説  教    「過ちが豊かさに」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • パウロは、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)9章から、これまでも何度となく、一つの問いを出し、それを否定してきました。

 

  • 新共同訳聖書では、10章18節、19節に「それでは、尋ねよう」と、11章1節に「では、尋ねよう」とあり、今日の11章11節でも「では、尋ねよう」とあります。これらのところでパウロが問うていることは、イスラエル人(=ユダヤ人)についてです。

 

  • 福音が宣べ伝えられたのに、イスラエルは聞いたことがなかったのだろうか(10:18)。イスラエルは福音を聞いたのに、分からなかったのだろうか(10:19)。神は御自分の民(イスラエル)を退けられたのだろうか(11:1)。「彼ら(イスラエル人)が転んだのは、倒れるためなのですか」(11:11、田川訳)と。

 

このパウロの同胞の民ユダヤ人に対する執拗な思いは、既に私たちがローマ書で学びましたように、ユダヤ人の救いを切実にパウロが願っていたこと、そのためならば、自分がキリストから離され、神から見捨てられても構わないとまで言っていることに見られると思われます(9:3)。また、自分はイスラエル人が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っていますと明言しているのであります(10:1)。

 

  • 何故パウロはこれほどまでに同胞イスラエルの救いを強く願っているのでしょうか。そもそもユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた特別な民であるという信仰によって、一つに強く結ばれていました。選民としての民族的一体性が強いという意味では、かつての戦前の日本人が天皇を神として、皇国の臣民として民族的な一体感を強制的に持たされていたのと同じかもしれません。そういうことがなかったとは言えないでしょうが、それ以上に、パウロが同胞のユダヤ人の救いを心から願い、そのために神に熱心に祈ったのは、救われたパウロ自身の喜びが大きかったからではないでしょうか。自分が復活の主イエスに出会って得た、イエス・キリストの福音によって生きることの素晴らしさ、その自由と喜びを持って、人間として本当の生き方に導かれているという、パウロの確信からではないでしょうか。

 

  • パウロは、フィリピの信徒への手紙で、ユダヤ教徒であった自分がキリストの使徒になったことを、このように記しています。<わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです>(3:5-11,新共同訳)。

 

 

  • 11章11節の問い、「彼らが転んだのは、倒れるためなのですか」(田川訳)は、本田訳だと「イスラエルの人たちは、足を取られて倒れて終わり、ということですか」となっています。クランフィールド訳も「彼らは、〔最終的に〕倒れるために躓いたのか」と、<「最終的に」倒れる>と、「最終的に」を補って訳しています。この「終わり」とか「最終的に」という言葉は、原文にはありませんが、それを補って訳しているのは、「倒れる」ということが、イスラエル人が救われないで滅んでしますということを意味しているからです。「転んだ」(躓いた)とは、不従順という過ちを犯したということです。つまり、イエス・キリストの福音に対して不従順なユダヤ人は、神によって滅びに定められているのかと、パウロは問うているのです。 

 

  • それに対して、パウロは、「まさか、そんなことはありえない」(11節、田川訳)(「断じてそうではない」口語訳)と言って、このように言うのです。「そうではなく、彼らの過ちによって救いが異邦人に及び、その結果彼らを妬ませるためである」(11節、田川訳)と。

 

  • パウロが(11章)7節で「他の者たち」について、彼らはかたくなにされたと語っている場合、彼はそのことをまさに「書いてあるとおり」、すなわち聖書が語っているように語ったのである。しかし、彼がそのように語ったからと言って、神が、神の民の、この「他の者たち」だけは棄てたのだということを、決して語ろうとしたのではないことを、今明らかにする。神は昔も今も彼らについて何を欲しているのか。彼らの罪過によって救いは異邦人に及ぶはずであった(11節前半)。七千人(11:4)の選ばれた者ではなく、実に、イスラエルにおける大多数の棄てられた者は、イエス・キリストを(ローマ帝国政治犯に対する処刑である)異邦人の十字架に引きわたすことによって、異邦人への扉を開き、イスラエルと異邦世界の間の連帯性を、しかしまた恵みの連帯性をも樹立したのである。それはちょうど、パウロ自身も会堂から追い出されることにより、はっきりと異邦人に導かれたごとくである。かくして、これら不従順な者たちの非救済史は、実に異邦人にとって決定的な方法で救済史のうちに属するものとなる。しかし、この不従順な者自体に関しては何が起こるのか。パウロは答える。彼らはまさに救いが異邦人に及ぶことにより、嫉みにかりたてられるはずである。すなわち、彼らは、神がまさに外側の無知な者、失われた者に示されたあわれみにおいて、そもそも彼ら自身の神とは誰であり、神は実に彼らにとっても、否、第一に彼らにとってこそ何であるかを認識するようになるはずである。かくして神は、彼らをかたくなにすることにより、究極的には実に彼らを目ざしていたのであった!>(バルト)。

 

  • このようにパウロは、神は、かたくななユダヤ人、イエス・キリストの福音に不従順なユダヤ人が、「倒れる」ことを望んではいない。むしろ 彼らの不従順によって異邦人が救われるのを見て、彼らに妬みを起こさせて、彼らが神のもとに立ち帰ってくることを切望しているのだ、と言っているのであります。

 

  • ですから、12節で、パウロはこのように語るのであります。<しかしもし彼らの過ちが世界の富となり、彼らの欠けたことが異邦人の富となったのであるとすれば、ましてや彼らの満ちることが!>(田川訳)と。

 

  • ある人は、私たちの信仰生活について、このように述べています。<信仰の生活は、この世において夢を見ることではありません。それが、神の民の失敗であれ、何であれ、それをいい加減にしておくことは許されていないのであります。失敗は失敗でないように言ってみても、それでどうなるものではないからであります。信仰生活は、この暗い現実の中で、ありもしないばら色の夢をみることではありません。そういうことであれば、それは、むしろ、つぶしてしまった方がいいのかも知れません。なぜなら、それは、現実をほんとうに見ようとはしないからであります。しかし、現実を見るというのは、ただ、いたずらに暗い生活を見つめるということにはならないのであります。真実のことを見るとは、自分の罪を言いあらわし、神の救いを受けるということしかないのであります>(竹森)。

 

  • そして、神による救いは、人間に思いもかけない神のみ業を見せてくれるものであるが、この12節のパウロの言葉も、そのような思いもかけない神の御業への詩的な讃美であると言うのです。

 

  • 原文で見ますと、この12節は、「過ち」(新共同訳「罪」)(パラプトーマ)、「欠けたこと」(新共同訳「失敗」)(ヘーッテーマ)、「満ちること」(新共同訳「救われるということ」)(プレーローマ)となっていて、三つとも語尾が「マ」で、韻を踏んでいるのです。そして、それを「世界の富」と「異邦人の富」という二つの富という字で結んでいるのです。

 

  • ですから、12節は詩的な文章で、パウロが感動をもって記していることが分かるのです。「自分の同胞のユダヤ人の過ちが、異邦人の救いとなって世界の富となり、ユダヤ人の欠けたことが異邦人の富となったとすれば、ましてや彼らユダヤ人の満ちることが!(どんなにすばらしいことか)」と。このパウロの言葉は、神の恵みの優位性を感動をもって、大胆に語ったものと言えるでしょう。<イエス・キリストにおける神の恵みは、人間が背く時にも、人間が従順な時にも、同じように働き、どちらの場合にも、ユダヤ人も異邦人も、すなわち、あらゆる人を救って下さる>というのであります。そのことを、感動を持って語っているのが、12節のパウロの言葉なのです。

 

  • パウロは、この神の恵みの優位性への信仰・信頼において、おそらく私たちが思う以上に困難で、厳しかった彼の異邦人伝道に取り組んでいったに違いありません。

 

  • たまたま昨日5月21日のボンフェッファーの『主のよき力に守られて、一日一章』は「おぼれる者」という表題で、詩編42編7節<あなたの注ぐ激流のとどろきに、淵は淵に呼ばわり、あなたの波、あなたの大波は、ことごとくわたしの上を越えていった>の注釈でした。今日の説教と関わるところがあると思いましたので、最後にそれを紹介して終わりたいと思います。

 

  • 「激流、淵、波、大波。――この世という海が敬虔な信仰者の上に襲いかかっているのが、聞こえるであろうか。この海は敬虔な信仰者を飲み込もうとしている。波は、自分を支えるものを何も見いだせないまま、力が尽きて、おぼれてしまう者のようである。このように、この世はわれわれの上に力を奮うのである。だが、われわれは、このことと同時に、風も海も従わせることのできる方(マタイ8:23-27)、時がくれば立ち上がって海を叱り、海を完全に静める方を、知っているのであろうか。/主イエス・キリストよ。沈みそうな私を助けてください。あなたの力強いみ言葉を語って、私を救ってください。それができるのはあなただけです。アーメン。//わたしに最後の危機がおとずれようとも、/わたしを沈むにまかせないでください。/波、大波がわたしを襲い、/苦い死がおとすれようとも、/わたしを愛に燃え立たせてください。/主よ、信仰の守り手なる主よ、/救い主なるキリストよ、/海に漂うわたしたちのところへ来てください。」  

 

  • このように神への不信仰・不服従という人間の罪による圧倒的なこの世の闇の中で、自分自身の信仰もおぼつかない信仰者が、この世の闇の勝利者で、私たちすべての者に救いをもたらしてくださる救い主なるイエスよ、来てください、と祈ることができるのも、終末のキリストの王国=神の国の完成を信じる神の恵みの優位性への信頼があるからではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 人間の高ぶりが、技術や制度を媒介として巨大化している現代世界において、戦争や抑圧によって、たくさんの人の命や生活が奪われている現実が、世界の各地で起こっています。そのようなあなたに逆らう人間のために、あなたはイエスを遣わし、そのような人間にイエスを引き渡し、十字架と復活を通して人間の高ぶりを裁き、私たちに救いの道を開いてくださいました。そのあなたの恵みはすべての人に注がれていることを信じます。
  • 私たちに、その信仰をもって、今この時代の世界の中で生きていく命の力を与えてください。また、どうか自分中心の人間の高ぶりに支配されている人びとにも、そのあなたの命の力の存在に気づかせてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     412(昔主イエスの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-412.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(515)

船越通信、№515 2022年5月15日(日)北村慈郎

 

  • 本日は沖縄の日本復帰の日で、ちょうど50年になります。
  • 8日(日)は礼拝後、何もありませんでしたが、大分ゆっくりと対面で話す人もあり、皆さんが帰ったのは、12時40分を過ぎていました。その後牧師館で後片付けをして、私も13時8分の追浜行きのバスにバス停の梅田から乗って鶴巻に帰りました。このところ日曜日は、鶴巻に帰ると、ボーとして食卓の椅子に座り、テレビを観る習慣がついてしまいました。土曜日夜はどうしてもいつもの日より睡眠時間が少ないので、日曜日は鶴巻に帰るとどっと疲れが出てしまうのです。そのためか、このところ日曜日の夕飯は、早めに娘が作ってくれて、早夕食を二人で済ませた後、娘は月曜日からの仕事のために横浜に帰っていくようになっています。その後鶴巻では、金曜日の夜か土曜日に一週の仕事を終えた娘が鶴巻に来てくれるまで、私独りの生活が続きます。連れ合いが2年前の3が3日に帰天しましたが、今年も3月から4月にかけて、新型コロナウイルス感染第6波の最後のころだったということもありましたが、何となく重い気分の日が続きました。4月後半から5月に入ると、少し元気が出て来たようで、連れ合いの遺志を継いで、毎週木曜日には国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに出かけるようになっています。
  • 10日(火)午後6時から蒔田教会礼拝堂にて、対面による常置委員会がありました。私も要請陪席者の一人として出席しました。今回は4名の准允・按手志願者の面接(その内1名はリモートで)と、前回欠席した新任教師1人の面接がありました。今回面接した方は、違いを認め合い、他を切り捨てないで一つをめざして共に歩むという神奈川教区形成基本方針についての感想は、形式的なもので、多様性を内に抱えた合同教会としての教団の教師になるという自覚が総じて薄いように思われました。中には新任教師の人でしたが、新しく遣わされた教会で、教会員同士の分裂を起こさないために主イエスのことだけを語るという主旨のことをおっしゃっていました。主イエスの福音をそのようにとらえていることに、私自身はびっくりしてしまいましたが、まじめにそのような発言をする牧師がいるというのも教団の現実なのかもしれません。今回の常置委員会では、他に二つの特記すべきことがありました。一つは、今度の6月教区総会に常置委員会提案で、教団常議員選挙を、ここ12年ほど教団総会では全数連記で行われ、その結果一部の立場の人しか常議員に選ばれなかったのを是正して、多様な立場の人が常議員に選ばれる少数連記にするという教団総会議案を出すということが諮られ、常置委員11名の賛成で可決しました。この議案は他教区からも秋の教団総会議案として出てくると思われます。以前常置委員会で教団の機構改定の話し合いが行われたときに、機構改定の前に、教団は常議員の全数連記の是正と私の免職撤回をすべきであるという意見を、多くの人が発言していました。私はその二つに、沖縄(教区)の切り捨てを教団は反省し、沖縄(教区)の問いかけを受け止めて、共に歩むようにならなければならないと思っています。そういう違った考えや立場の者を切り捨てないで、違いを認め合いながら一つをめざす教団であってはじめて機構改定が問題になるのではないかと思うからです。もう一つは、社会委員会が作った「ウクライナへのロシアによる軍事侵攻」につての声明を、常置委員会提案として6月教区総会に出すということが話し合われました。私はその社会委員会作成の声明原案を読み、またその審議の中で、声明原案にあった「抗議」という言葉を削除するという意見もあり、この声明を誰に向かって教区という主体が出すのか、曖昧に感じられたこと。また、この声明に感じられる、戦争をしかけているロシアも防衛のための戦争をしているウクライナも両成敗のような立ち位置が、果たして適切なのか、声明をさっと読んで感じたので、発言を求め、次回常置委員会までに声明の文案を、文案を作った社会委員会と教区四役で整えてもらって、6月常置委員会に再提出するようにという意見を言いました。すると横須賀の某教会牧師のTさんが発言して、北村さんとはいつもは意見を異にしているが、この件では北村さんの意見に賛成すると発言し、常置委員会はこの声明は6月常置委員会に再提出するということになりました。
  • 11(水)には関西の事務局の方が、一人で編集、印刷の手配、会員への発送作業を担ってくださり、「沖縄から米軍撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」(”もとすす”)の通信第27号が送られてきました。この通信の巻頭言は世話人代表の私が書いています。以前船越通信にその内容を要約して書いておきました。また、この日4月2日に紅葉坂教会で開催した私の支援会第9回総会での関田先生から送られてきた書き換え原稿をワープロに打ち、印刷したものを、関田先生に必要な所に手を入れていただくために、返信用の封筒と共に、6月5日の船越教会礼拝説教の予告をしるすハガキも入れて郵送しました。
  • 12(木)は午後1時から4時まで、小雨がぱらつくこともありましたが、国会参議院会館前での辺野古新基地建設反対座り込みに、私も参加しました。私は何枚かの「NO 辺野古基地」と書いたプラカードを参議院会館前の道路の石壁に透明梱包用テープで貼り付けました。何時も座り込みに来ている3人の方は石壁にある窪みを利用して横断幕やプラカードの端をその窪みに適当な大きさの発泡スチロールを射し込んで止めるようにしているのです。参議院会館のガードマンが私の所に来てプラカードを石壁に貼ってはいけないと注意しに来ました。そのガードマンと少しやり取りをしましたが、プラカードを張ったテープをはがし、プラカードは石壁を背に並べて地面に置きました。次回からは3人の座り込みの先輩のやり方に倣うことにしようと思っています。この日は午後4時に座り込みを終えて、地下鉄で代々木上原に出て、小田急で鶴巻に午後5時半過ぎに帰ってきました。
  • この日の夜午後7時半から支援会の世話人・事務局会がZoomでありました。秋の教団総会に向けての支援会の取り組みを話し合いました。4月2日の支援会総会報告を中心とした通信第28号の発行(6月10日前後の発送予定)、キリスト新聞意見広告(7月末ごろ)、7月9日(土)のZoom懇談会開催などを、話し合って決めました。

ローマの信徒への手紙による説教(46)

5月15(日)復活節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編95編1-11節(讃美歌交読詩編105頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙11章1-10節(新約289頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    430(とびらの外に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-430.htm

⑨ 説  教    「恵みによる残り者」      北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 今日は、はじめにもう一度、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)全体でパウロが何を語ろうとしているのかを思い起しておきたいと思います。ローマ書は大きく分けますと三つの部分からなっています。一つは、1-8章までですが、パウロは、ここで、イエス・キリストの福音について語るべきことをすべて語っています。それは、イエス・キリストによって神が私たちに与えて下さった救い(解放)についてですが、<信仰によって義とされた者に、福音において約束される生命>についてです。

 

  • バルトは、その福音を、「神による人間の断罪としての福音、信ずる者に対する神の義の宣告としての福音、人間の、神との和解としての福音、彼の聖化と解放としての福音、神の律法の樹立としての福音」と言っています。つまり、イエス・キリストの福音によって、私たちは自らの罪を認識し、悔い改めて信仰によって義とされ、神と和解し、福音を生きるに相応し者とされ、神がかく生きよと示された律法を成就する者として生きることが許されているということです。

 

  • そのようなイエス・キリストの福音に従順であるということが、どういうことなのか、それが、12-15章の部分で記されているのであります。反対に、イエス・キリストの福音に不従順であるということは、どういうことなのかが、イスラエルの不従順として9-11章で記されているのであります。

 

  • 9-11章では、イスラエルの不従順について、9:6-29と9:30-10:21、11:1-36の三つの段落に分けて語られています。

 

  • 9:6-29の第一段階は、9:6節の「神の言葉は無効になったわけではない」と、この言葉の背後に聞こえる「神の恵みによって選ばれたイスラエルが不従順であるのは、神の言葉が無効になったのだろうか」というつぶやきの声に応えているのです。9:30-10:21の第二段階は、9:14の「神の側に不正があるのか(新共同訳:神に不義があるのか)という不平に対して、「断じてそうではない」(口語訳)と言って答えているのです。そして最後の11:1-36の第三段階は、11:1の「「神はその民を退けたのではないでしょうか」(田川訳)という、パウロにとってはイスラエルを捨てたということは、このわたしを捨てたということでもありますから、これは悲痛な叫びであります。その叫びに、「まさか、そんなことはありえません」(田川訳)と応えているのであります。

 

  • 今日は第三段落の最初のところ、11章1-10節から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

  • ある人は、9章から11章の今上げました三つの問いというか、叫びは、信仰がなければできないものではないかと言っています。つまり、イエス・キリストによって私たち人間を救おうとされている神への人間の不従順ということは、神への信仰があって、はじめて言えることなのだと言うのです。確かに神を信じていない人は、自分を不従順な者だとは思わないでしょう。ですから、最初期教会のユダヤキリスト者や異邦人キリスト者の中には、神の恵みの選びによって選ばれたイスラエルが、なぜ神が私たちの救いのために遣わしてくださったイエス・キリストを信じず、不従順なのだろうかと、疑問を持つ者が少なくなかったのではないでしょうか。そのつぶやきは、神への不信仰からくるもので、パウロはその不信仰な人びとに代わってこの疑問を出しながら、パウロ自身は、神がイスラエルを捨てるなどということは絶対にあり得ないと確信していましたので、その確信を語ろうとしているのであります。

 

  • 先ず、パウロは、自分自身のことを語っています。「なぜなら、私もまたイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である」(1節前半、田川訳)と。<――従ってそれはエレミヤが、士師記20-21章にあるごとく、かつてほとんど壊滅に瀕しながら、しかもなおそれから守られたベニヤミン族の者であったと同様である。そしてそれはまた、神によって捨てられた王、サウルの支族でもある—―。実に彼(パウロ)こそ、教会の迫害者としてキリストを十字架につけることに、後からではあるが、意識的に、また自自身の人格において、共通の咎を持つ者である、実に彼こそ10章で書かれた、イスラエルの不従順に完全にあずかった者である。まさにその彼が、甦えり給うたイエス・キリスト自身によって召され、以上のことにもかかわらず、選ばれた者として、すなわち使徒職の担い手に、異邦人使徒に選ばれた者として、自己を示すのである。どうして彼に、神がその民イスラエルを捨てたということが容認できるはずがあろうか。彼こそこの民に対する神のあわれみの真実に対する生ける反証、証明ではないか。彼こそ自ら、詩編94:14の「神はその民を見捨てなかった」という言葉の成就ではないか。どうして、このような彼が、この民のほかの不従順な者を見たにしても、この言葉の成就を心から期待しないはずがあろうか。あるいはまた、このような一個人の存在が、この民全体の召命にならないはずがあろうか>(バルト)。

 

  • パウロは、自分自身について語った後、それに続いて、いつものように、旧約聖書からの引用を書き記しています。彼はここに、代表的な預言者であるエリヤの話を持ち出しています。エリヤが神のために戦った時、自分では全く敗北したとしか感じられませんでした。その時、神は、大風の中にも、地震の中にも、火の中にも、いませんでしたが、火の後に聞こえて来た静かな細い声の中で、エリヤに、ここで何をしているのか、と呼びかけられました。それに対してエリヤは、自分は、主なる神のために非常に熱心に働いたつもりであったが、と言って、次のように訴えたのであります。

 

  • 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を引き倒し、私だけ一人残ったのですが、彼らは私の命をもねらっています」(11:3、田川訳)

 

  • これは列王記上19章の10節、14節に繰り返し出てくる言葉です。エリヤにしてみれば、自分はこんなに熱心に戦ったのに、自分の望みは全く断たれてしまい、今は、この自分さえ殺されようとしていると言って、神に、その民に対する約束を全くかえりみられないのですか、と訴えたのであります。それに対して神は、「バアルに膝をかがめなかった者を、我がために七千人残した」(列王記上19:18、ローマ書11:4、田川訳)。と答えられたのです。

 

  • エリヤに対する答えとなった神の語りかけは、預言者の嘆きと訴えを十分に受け止めつつ、今なお七千人の膝をかがめない者があることを彼に注目させているのであります。<この七千人は取るに足りない少数者ではなく、当時のイスラエルの多数者とは対照的に、神の目には全イスラエルイスラエルそのものであり、一般的な堕落の真唯中で、神によってご自分のために守られたイスラエルそのものでありました>。

 

  • イスラエルは神に背いて、エリヤただひとり、これと戦っているつもりでいたのですが、神は、そのイスラエルの中から、真のイスラエルを残しておかれ、この者たちが、エリヤと一緒に偶像を拝まない、正しい信仰生活をしているであります。そうすると、それは、エリヤにとっては、ただ孤独ではないというだけではなくて、自分は神の民のひとりということになって、その戦いの意味が全くちがってくるのであります。

 

  • 神に残された人びとは、どういう人のことでしょうか。その人に何か特別な力があったのでしょか。エリヤでさえも、自分一人になってしまったと、神に向かって不平がましいことを言っています。彼自身も、ようやく信仰を保っているだけで、自分に大した力があったとは思わなかったでしょう。むしろ自分の信仰の力の弱さを自覚していたと思われます。そのことは、神に残された者である七千人の場合も同じではないでしょうか。彼らが残されたのは、彼らの力によるのではありません。残してくださった神の恵みによるのです。そこに残された者の真の力があることを、忘れてはなりません。「だからそのように、今の時においても、恵みの選びに応じて残された者たちがいるのだ」(11:5、田川訳)と言われているように、私たちの信仰生活においても、全く同じことが言えるのではないでしょうか。今日、私たちキリスト者一人一人に、またその群れである教会に力があるとすれば、それは、取り立てて数え上げられるような良い物、良い性質があるということではなくて、私たちが、そして教会が、神の恵みによって選ばれていることを確信していることにあるのではないでしょうか。

 

  • そのことは、私たちの信仰そのものが、神の恵みによっているということを意味しています。私たちは、自分が行いによって救われたのではなく、ただ神の恵みによって救われたことを知っています。自分が罪がなくなったとか、自分が強くなったとかいうことによって救われたのではないのです。ただ、キリストの贖いによる神の恵みによって救われたのであります。「そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるから」(11:6)であります。そのように、私たちの信仰そのものが、神の恵みの確かさによっているのであります。恵みの強さも、そのことで十分よく分かるのです。そこから、この民が、キリストの教会が恵みによって選ばれているということの意味も知ることができるのであります。

 

  • <したがって、この民の闘い、この民の強さは、神の恵みによって生きている者らしく生きることにあります。恵みを頼みにするのは、自分の責任を捨てることではありません。むしろ、与えられている神の恵みを無にしないような、神の恵みに対して責任を持つような生き方をするわけです。それは、感謝という生活になるでしょう。神の恵みに感謝し得る生活ほど強いものは、ほかにはあり得ないのであります>(竹森)。

 

  • こうして「イスラエルは自分が求めたものを得なかったが、選びの者たちは得ることができた」(11:7、田川訳)のであります。神の恵みは、このように、人間の目には理解できないようなことをするのであります。そこから、私たちは、恵みによって選ばれた者たちだけでなく、選ばれなかった者のことをも、正しく理解することができるのです。ある人びとが選ばれたことが神の恵みの計画によったものであるとすれば、ほかの人たちが選ばれなかったこともまた、同じように、神の恵みのご計画によったのであることは、確かなことであります。私たちには、その人びとがなぜ選ばれなかったのかという理由は分かりません。しかし、私たちが選ばれたことも、神の恵みによるという以外には、理由は分かりません。私たち自身には、神の恵みを与えられる根拠は全くないからです。ですから、彼らがかたくなになったために選ばれなかったとしても、それは彼らがかたくなであったことがその理由であるとしても、そのようになったために選ばれなかったことについては、神の恵みによるご計画というほかには、どんな説明もあり得ないのであります。パウロはそれを証しするために、申命記29章4節と詩編69編22,23せつを引用します(11:8-10)。そのいずれも、神が彼らをかたくなにし、彼らの目をくらくし、その背を曲がらせるようにされた、という言葉になっています。これらのことは、それだけを読んでみれば、かたくなになった彼らには何の責任もなく、ただ、神にのみ責任があるように見えます。しかし、彼らは神に操られていたというのでもなければ、彼らに責任がないというのでもなく、すべてのことは、選ばれた者たちが受けた神の恵みと同じ恵みによる支配の下にあるということなのであります。罪を犯した人間もまた、神の支配から離れられないばかりか、神の支配はそこにも不思議な力を及ぼしているということであります。

 

  • もしそうであるとすれば、私たちは、イエス・キリストの贖いによってすべての人を救おうとする神の恵みの支配を確信し、何の幸いかイエスを信じる恵みを与えられて、イエスの群れに加えられたことを感謝して、神の恵みにふさわしく歩み続けることではないでしょうか。どんなに状況が暗く思えても、です。

 

  • そのことを、今日の個所から、私たちへのメッセージとして受け取りたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、今日は1972年に沖縄が日本に復帰した日であります。沖縄は平和憲法の下にある日本に復帰しましが、この50年間日本政府は、日本復帰における沖縄の期待を裏切り続けています。沖縄の民意による危険な普天間米軍基地即時返還、辺野古新基地建設反対、地位協定の改定を訴えながら、日本政府はそのすべてを無視し、最近は中国の脅威を理由にして、日米軍事同盟を強化し、沖縄をはじめ南西諸島を軍事要塞化しようとしています。
  • 神さま、私たちは、軍事力によらない、憲法第9条に基づく、話し合いによる世界平和を求め続けていきたいと願います。この国の政府をそのように導いてください。
  • ウクライナにおけるロシアによる軍事侵攻が長引いています。どうぞ速やかにロシア軍がウクライナから撤退し、この悲惨な戦争が終結しますように、お導きください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     527(み神のみわざは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-527.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信、№514 2022年5月日(日) 北村慈郎

  • 1日(日)は礼拝後2022年度の最初の役員会がありました。4月の礼拝出席や会計報告を承認し、既に4月17日(日)の2022年度の船越教会定期教会総会後に、新しく選出された4人の役員の分担を確認していましたが、役員会の議事として記録に残しておかなければなりませんので、この日の役員会の協議の最初にその確認をしました。書記はIさん、会計はNさん、教区総会議員はWさん、地区総会議員はHさんが今年度の担当になります。次に17日の教会総会の議事録の確認をしました。毎年新年度の第1回役員会では、総会で議決された新年度の事業計画について話し合っていますが、今年もまだ新型コロナウイルス感染が収まるとは思えませんので、平和と人権を考えるDVD鑑賞会も、出来る状況になってから考えることにし、今年も去年と同じように、礼拝を中心にしていくことを確認しました。4月10日の日曜日に礼拝後皆で京急田浦駅前まで行き、船越教会として第一回の「ウクライナに平和を!」のスタンディングを行ないました。新しい役員会では、5月以降も原則として第3日曜日の礼拝後に(雨天の場合は第4日曜日に)、30分から40分ということで、月一回スタンディングを続けて行くことにしました。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が何時終わるか分かりませんが、少なくともそれが続く限りスタンディングもしていこうということになりました。みなさんのご協力をお願いしたいと思います。今回の役員会では船越教会の礼拝説教に関田寛雄牧師を6月5日(ペンテコステ)が12日(日)にお願いすることにしました。私が関田先生に連絡し、6月5日(ペンテコステ)に決まりました。その他教会員名簿や緊急連絡網の確認をしました。また、教会だより「船越の丘から」と教会の掲示板の礼拝説教予告はNさんにお願いしました。何れみなさんには、役員の確認を取った書記による役員会議事録がメールで送られると思いますが、今回は事情があって、少し遅れると思いますので、6月の役割分担も下記に記しておきます。この役割分担は一人一人の確認をとっていませんので、これを見て都合の悪い方は、どなたかに代わってもらって、私の方にご連絡いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
  • 6月の役割分担(省略)
  • この週は、新型コロナウイルス感染についても何の規制もない、3年ぶりのゴールンウイークということもあって、行楽地や都心のイベント会場には人が溢れていました。3日から5日までは神奈川教区主催委の福島の方々の保養プログラム、“リフレッシュ@かながわ“が桜木町東横インで行われました。これも3年ぶりではないかと思います。今年は交流会もありませんので、こちら側は教区の委員だけで対応し、ボランティアの募集はありませんでした。以前は帰天した連れ合いが実行委員の一人でしたし、今年は中止した保養に来た家族との交流会を紅葉坂教会で行っていましたので、私も交流集会に準備から関わっていましたし、保養家族が宿泊するホテルの受付や医師を招いた被爆の学習会(今年も開催したようですが、部屋が10人位しか入れないところなので、医師と教区の核問題小委員会の方と福井島の家族だけということで行ったようです)にも参加していました。聞くところによると、今年は8家族30人弱の方々がこの保養プログラムに参加したということです。3日から5日は天気も良かったので、みなとみらいをはじめ、どこにでかけても人は多かったと思いますが、放射線量を気にせずに、のびのびと過ごしてもらえたのではないかと、開催出来てよかったと思いました。
  • わたし自身は、5日の朝8時に娘が車で平塚にある花菜ガーデン(神奈川県立花と緑のふれあいセンター)に連れて行ってくれました。ゴールデンウイーク中は朝の8時半に開門し、レストランでもモーニングサーヴィスもあるというので出かけました。このガーデンのバラ園は結構充実していて、この日も様々なバラの花とその香りを楽しむことができました。また、水連の池では花が咲いていて、モネの絵を思い浮かべながら、その風景を楽しむことが出来ました。

さて、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻があってから、朝のモーニングショーでコメンテイターの玉川徹さんは、ある時<「戦争が続くと民間人の死者が桁違いに増えていく。戦力は圧倒的にロシアが上」とウクライナ不利の戦況について懸念し、「勇敢に戦っているけれども、どこかでウクライナが退く以外には市民の死者が増えていくのを止められない。死者が増えないようにすることも指導者の大きな責任」と持論を述べた。さらに「日本人として言えることは、戦争が長引かせることになれば、それだけ犠牲者も増える」と切り出し、「太平洋戦争も今振り返ってみれば、もっと早く降伏すれば沖縄戦とか広島、長崎の犠牲もなかったんじゃないか」と指摘。「この後プーチンが大規模な無差別爆撃を始める可能性があるとしたら、いったん止めることも指導者にとって必要」「命を守る以上に大事なことは果たしてあるんだろうか」と訴えた>のです。私もこのテレビを観ていました。その後この玉川さんの発言にはバッシングがあったと聞いています。沖縄の石原艶子さんの「月桃通綸№30」を読んでいましたが、このように記されていました。「何故ロシアとウクライナの戦争は止められないのでしょうか」と言い「‥‥ゼレンスキー大統領が命を差し出す覚悟でプーチンの要求を聴き話し合い、戦争だけはしないという道を必死に捜すべきだったと私は思います。…プーチン統治の時は長くないでしょう。時を待ちつつ戦争をしない道を選び待つこと、プーチンの要求を受け入れ、NATOに属さない中立国、武器を持たない非武装国家として西と東をつなぐ緩衝国となる道を選んだならウクライナの人々の命もロシア兵の命も失われなかったでしょう。命どぅ宝は一体どこにいってしまったのでしょう」と。石原さんは凄いことを言う人です。

船越通信(513)

船越通信、№513  2022年5月1日(日)  北村慈郎

  • 24日(日)は出席者5人のいつもより少人数による礼拝でした。この日は礼拝後何もありませんでしたで、一言二言言葉を交わして散会しました。私もいつもより早めに船越教会を出て、鶴巻のマンションに午後2時半ごろには帰ってきました。この週は、私にとっては結構忙しい週でした。
  • 先ず私が代表世話人をしている“もとすす”(沖縄から米軍基地撤去を求め、教団「合同のとらえなおし」をすすめる連絡会)で出すことにしている通信の巻頭言を26日(火)中に書かなければなりませんでした。また私の原稿と共に各地の活動報告として、鎌倉恩寵教会で行われている「沖縄を学ぶ会」、国会前の辺野古新基地建設反対座り込み、相模原の座間米軍基地前で行われている「バスストップの会」の報告も私が依頼し、原稿を集めて関西にある事務局に送ることになっていたからです。そのうちの二つの原稿はすでに私の手元に来ており、そのうちの一つは関西の事務局にもすでに送ってありましたが、何とかすべて26日中には送りたいと思っていました。25日(月)には国会前の座り込みの報告もメールで届きましたので、私も25日(月)に何とかの巻頭言の原稿を書き上げ、その日の夜にすべての原稿を関西の事務局に送ることができました。
  • 今年は沖縄の日本への復帰から50年目の節目の年です。また、沖縄教区が教団から距離を置くようになって20年目の節目の年でもあります。そこで私は”もとすす”の通信の巻頭言は、「沖縄の日本復帰50年、沖縄教区が教団から距離を置いて20年」という題で書くことにしました。先ずロシアによるウクライナへの軍事侵攻によるウクライナの悲惨な状況について書き、「今ウクライナで起こっていることから沖縄戦を想像してみると、圧倒的な戦力による米軍の破壊は、ロシア軍の比ではなかったと思われる」と沖縄戦に触れ、「ウクライナ軍は少なくともウクライナ人を守っていると思われるが、日本軍は沖縄の人々を守るどころが、初めから見捨てていたのである。また、そのような沖縄戦を経験し、戦後マッカーサーの沖縄の分離軍事支配・米軍の戦略拠点化に従い、沖縄に関する天皇メッセージもあり、沖縄は米軍統治下に置かれて来た。その沖縄が1972年に平和憲法をもつ日本に復帰した。しかし、その日本復帰が幻想に過ぎなかったことが、沖縄の日本復帰より3年前(1969年)の沖縄キリスト教団と日本基督教団との合同と共にすぐに明らかになった。大が小をのみ込んだに過ぎなかったのである。そのことに気づいた沖縄キリスト教団と合同した日本基督教団の教会は、その後合同のとらえなおしを試みた。けれども、そのとらえなおしは途中で挫折し、2002年に合同の一方の当事者である沖縄の教会(沖縄教区)は日本基督教団から距離を置くようになり、現在に至っている」と書きました。その上で、“もとすす”の課題は、「「沖縄の教会はこの沖縄で教会であることを未だ歩めていない。それはヤマトの教団も同じだと思う。だとすれば、この時点で共に歩むことは側に置いて、沖縄で教会であるとはどういうことか、ヤマトの教会として歩むとはどういうことか、それぞれがその置かれた地で考え、確かめていくことではないかと思う。その姿が見えたときに、共に歩むことをも模索しても遅くはないのではないか」という先年帰天された沖縄の大城実牧師がおっしゃるように、「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻後に、日本でも日米軍事同盟と抑止力としての軍事力の更なる強化の声が強くなっている現在において、『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする』(イザヤ書2;4)平和を造り出す働きを担う教会として歩むとはどういうことなのかを、私たちは考えていかなければならないと思う。沖縄の教会は沖縄の地においてそれをしていると思われるが、私たちはヤマトの教会としてそれをしていかなければならないのではないだろうか。“もとすす”の課題はそれに尽きると思う」と結びました。
  • 27日(水)午後7時からZoomで”もとすす”の事務局会が行われ、私も参加しました。上記の通信の打ち合わせと、リモートによる講演会ができないか、その内容と誰に講師をお願いするかについて話し合いました。いろいろと意見交換している内に2時間があっという間に過ぎていました。一応講師の候補者には私の方からお願いすることにし、この日の事務局会を終えました。
  • 28日(木)は前週に引き続いて国会前の坐り込みに参加しました。この日は早めに座り込みの場所に着き、まだ誰も来ていなかったので、衆議院議員会館前で行なわれていた「憲法審査会」への抗議行動で、主催者の報告と各団体からのアッピールが行なわれていたのを、端の方で聞いていました。その内に国会前の座り込みに何時も横断幕などを持って来てくれる方が見えたので、私も一緒に道路の壁にいろいろの種類の横断幕を貼るのを手伝いました。そうしている間に座り込みの道具類を持って来てくれる他の二人も到着し、午後1時過ぎにはすべての準備が整って、私も持ってきた椅子に坐り、自分の近くの足元に「辺野古新基地 NO」と書かれた不屈館の手持ちプラカードを2枚並べて、風に飛ばされないようにビニールテープで石壁に留めて置き、船越教会の「ウクライナに平和を!」のスタンディングで掲げた自家製の手持ちプラカード「ウクライナに平和を! ロシア軍は撤退せよ! 日本は軍事力による安全保障よりも、憲法第9条に基づく世界平和構築に力を注ごう!」を石壁に貼り、手には「辺野古埋立てNO 土地と海を奪うな」を持って、時々「We shall overcome」

を口ずさみながら3時間座り込みました。この日はいつもの3人の他に私を含めて3人が加わり、6人で座り込みました。午後4時に座り込みを終えて、鶴巻に帰りました。

  • この日は鶴巻に帰って、午後6時半からZoomで寿地区活動委員会に参加しました。4月の委員会でしたので、教区へ出す年度報告と会計報告の確認と今年度の活動について話し合いました。
  • 29日(金)は、連れ合いの千賀が帰天してから毎年ゴールデンウイークの時期に休みをとって沖縄から大和に帰って来る沖縄で牧師をしているK・R子さんが、鶴巻の私の所にお連れ合いと共に来てくれますが、今年もこの日のお昼前に来てくれました。短い時間でしたが、旧交を温めました。

ローマの信徒への手紙による説教(45)

5月8(日)復活節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    202(よろこびとさかえに満つ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編34編2-8節(讃美歌交読詩編35頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙10章14-21節(新約288頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

⑨ 説  教   「信仰は聞くことによる」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 神は言葉をもって私たちに語りかけておられます。聖書は神の言葉であり、私たちは聖書を通して神が今私たちに語りかけている言葉を聞こうとして、聖書を読み、神の語りかけを聞こうとしているのではないでしょうか。

 

  • 私は、今まで、どちらかと言うと、聖書を読むという点に力を入れていて、神の語りかけを聞くという点を、少しおろそかにしてきたのではないかと、最近、もう80歳になっていますが、気づかされています。

 

  • そういう点では、毎日曜の礼拝での説教も、できるだけ正しい聖書解釈を、という思いで説教の準備をして、自分なりに説教をつくってきました。説教は、会衆と共に聖書から神の言葉を聞く時だと思うのですが、私の説教は、聖書の学びになってしまっているのではないか、神の語りかけにはなっていないのではないかと、反省させられるのであります。

 

  • 今日のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)のところは、パウロが聖書から神の言葉を聞いていることが、よく示されているところではないかと思います。

 

  • パウロは、ローマ書10章13節で、<すなわちユダヤ人とギリシャ人の差別はない。同じ主が万人の主であって、その豊かさは主(の名)を呼び求めるすべての者に及ぶ>(田川訳)と言いました。ここでは、神は、「万人(全ての人)の主であって、その豊かさは、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、誰であろうと、主の名を呼び求める者に及ぶ」と言われているのであります。

 

  • この言葉を受けて、パウロは14節、15節で、このように言っています。<では、自分が信じたことのない相手をどうして呼び求められようか。また、自分が聞いたことのない相手をどうして信じられようか。また、宣教する者がいなければ、どうして聞くことができるか。また、遣わされることなくして、どうして宣教するだろうか。「良いことを福音として宣べ伝える者の足は麗しきかな」と書いてあるように>(田川訳)と。

 

  • パウロは、神を呼び求める者は、神を信じ、神の言葉を聞く者であるはずだと語って来て、更に神の言葉を聞くためには、それを語ってくれる人、つまり宣教する人がいなければならないと言うのです。<また、宣教する者がいなければ、どうして聞くことができるか>と。そして更に、<遣わされることなくして、どうして宣教するだろうか。「良いことを福音として宣べ伝える者の足は麗しきかな」と書いてあるように>と言っているのであります。

 

  • そして、今やパウロ自身が、「良いことを福音として宣べ伝える者の足は麗しきかな」と言われる、イエス・キリストの福音を宣べ伝える異邦人への使徒として存在しています。ペテロをはじめイエス・キリストの福音を宣べ伝えるユダヤ人への使徒も存在し、ユダヤ人の教会も生まれているのであります。しかし、その教会を否定するユダヤ教の会堂に属するユダヤ人が圧倒的に多いという現実があり、そのようなユダヤ人を意識して、パウロはこのローマ書9-11章を書いているのであります。

 

  • ユダヤ人は、聖書を持っていることを、誇りとしていました。また、ユダヤ人は、実際によく聖書を読みました。自分の家で、会堂で、毎日のように聖書を読んだのであります。おそらく暗記するほど熱心に聖書を読んでいたと思われます。しかし、聖書を読んでも、ユダヤ人は聖書から、神の言葉、神の声を聞かなかったというのが、パウロの言い分です。

 

  • パウロは、16節、17節でこのように記しています。<しかしすべての者が福音に聞き従ったのはない。すなわちイザヤは言っている、「主よ、我々から聞いたことを誰が信じましたか」と。従って、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉を通してなのである>(田川訳)。

 

  • ここには、預言者イザヤの言葉を引用して「主よ、我々から聞いたことを誰が信じましたか」(イザヤヤ53:1)と書いてあります。これが大事な点なのであります。

  (以下はほぼ竹森満佐一『ローマ書講解説教Ⅲ』による)

  • ユダヤ人も、イザヤ書53章の苦難の僕のことだけを読むのであれば、理解できないことはではなかったでしょう。そういう痛ましい運命を辿る預言者の話であれば、彼らにもよく分かるし、その美しさに心躍らせるかも知れないのであります。しかし、それが、実際に彼らのひとりとして生まれ、彼らの中に生活し、彼らが殺した、あのナザレ出身のイエスであるとすれば、話は別になってくるのであります。苦難の僕とナザレのイエスは、容易に結びつきません。しかも、パウロは、それが結びつかないところに、彼らが、聖書を神の言葉として読み、聖書によって神の声を聞くことができなかった理由があると言っているのであります。そのことを考えます、イザヤのこの言葉は、まさにユダヤ人たちにそのまま、あてはまるのであります。いや、ユダヤ人だけでなく、すべての人間にそのままあてはまると言ってもいいかも知れません。キリストの十字架について聞いたことを、だれが信じ得たでしょうか。

 

  • キリストが聖書の内容であるということは、決して受け入れやすいことではありません。パウロが、イザヤ書の言葉を引用して書いているとおりであります。なぜなら、それは、十字架の福音を信じることだからです。十字架を信じるには、自分が。キリストの十字架が示すように罪人であることを認めて悔い改めることが、どうしても必要なのです。それは、聖書のうちにさえ、人間の美しさや喜びだけを見ようとするわたしたち人間にとっては、非常に難しいことなのです。神の恵みを受けることができない罪人であると自分を認めることは、愚かな誇りにおごっている人間にとっては、耐えがたいことなのであります。だから、パウロは「このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの」(Ⅰコリント1:23)と言いました。そのとおりに、ユダヤ人はつまずき、すべての人間も信じがたいこととしたのであります。しかし、神の恵みを受けようとする者は、神によって、自分を知り、十字架において、自分の真の姿を見定めなければならなりません。その上ではじめて、神がどんなにこの罪人である人間を愛しておられるかが分かるのであります。誇り高きユダヤ人には、それを知ることが、まことに困難であったのであります>。

 

  • このことについては、もうひとつ問題が残っています。それは、それなら、ユダヤ人は、なぜ聞くことができなかったのだろうか、ということです。パウロは、どこまでも聖書の言葉に頼ろうといたします。「その者たちの響きは全地へと伝わり、世界の果てにまでその者たちの言葉は及んだのだ」(田川訳)という詩編19編4節の言葉がそれであります。神のことが分からないという人に対して、もっともよい答えはこれであると信じていたのでありましょう。人間が持ち出す言訳は、いつでも、責任が神にあるということになるのです。ですから、それに答えるには、神には責任がないということであります。神のみ声は全地にひびきわたっているはずである、だから聞こえないというのは、聞こうとしない人間の責任であって、神の責任でもなければ、環境のせいでもないというのであります。

 

  • それだけではないのです。「民でない者に対してあなた方が妬むようにし、ものがわからない民に対してあなた方が怒るようにさせよう」(田川訳)(申命記32:21)という申命記の言葉が、その次に引用されています。イスラエルは、聞こえなかっただけでなく理解できなかったのはないでしょうか、というのです。民というのは、イスラエルのことであります。イスラエルが信仰を受け入れようとしないので、イスラエルでない者、つまり神については本来は無知な民であった者に恵みを与えることによって、イスラエルが、異邦人たちをねたみ、これに対して怒りをもつようにさせる、というのであります。無知な民、すなわち、信仰のことの理解できないはずの民でさえ、恵みを知ることができたのであります。イスラエルに理解できないわけはないのです。イスラエルは、これを知ったら、神の選民としてねたましく思い、憤るようなことが起こっていることに気がつかねばならないのです。それならば、イスラエルがキリストのことを聞いても分からなかった、とは言わせないということであります。

 

  • このようにして、イスラエルの不信仰なことを考えているうちに、いつの間にか、話はもうイスラエルのことを離れてしまって、神の恵みの本質を明らかにすることになってゆくのです。神の福音は、異邦人とイスラエルとを問わず、だれにでも与えられるのであります。それを、今度は、イザヤの預言で語ろうというのであります。「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、/わたしを尋ねない者に、自分を現した」(イザヤ65:1)。イスラエルとはちがって、神の民でない者、異邦人に、神はご自分を顕わし、信じさせられたのであります。このことは、イスラエルのひとりであったイザヤとしては、まことに大胆な発言であります。また、神の業としては、驚くべきことであります。

 

  • それなら、イスラエルには、もう望はないのでしょうか。そうではありません。不信仰なイスラエルにもまだ機会はいくらでもあるのです。なぜなら、神は、彼らを捨てないで待っておられるからであります。<だがイスラエルについても、「説得されず、反抗する民に、一日じゅう手をさしのべた」(イザヤ65:2)と言っている>(21節)。このみ言葉がその保証であります。神の民もそうでない者も、救いの機会がある、それがどの問題についても結論になるのであります。

 

  • <21節はこのような意味で、全体の結末をつけるものであります。教会が最後にそして究極的に固執すべき事実は、ユダヤ人の咎にみした、聞かぬこと、理解せぬこと、従って不従順ではなく、神がこのユダヤ人に対して、昔から「終日」なしてこらえたことである。すなわち、まさにkのような民にっ向かって神はその手をさし伸べてこられた。まさにこのよな民に対して、神はご自分を差し向けること、ご自身をへりくだらせること、ご自身を差し出すことに倦み給わなかった。この事実ほど明瞭に、またこの事実ほど鋭く、彼の咎を確定することはありえない。そして、この民が咎を犯した相手である方について、この民をあわれみの対象とした方――あるがままの、この民を見棄てることをしなかった方――について、これ以上明瞭に、また、これ以上慰めに満ちて、語られることはありえない。なぜなら、その方のあわれみは、この民の、そしてすべての人間の咎よりも大きいからである>(バルト)。

 

  • 人間の驕りが他者の命を奪っている人間の咎(罪)から、未だ解放されていない、今この時代の中でも、この神のあわれみを信じたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • ゴールデンウイークが終わり、明日からまた日常に戻ります。今年は規制のない3年ぶりのゴールデンウイークで、多くの人が非日常を楽しんだことと思われます。けれども、その中でも、貧しさのためにどこにも出かけられなかった人も多くいます。また、今戦火の中にあるウクライナの人々、様々な抑圧・差別の犠牲となって、世界の各地で苦しんでいる人も多くいます。神さま、今痛み、苦しんでいる人々の傍らに立ち給いまして、支え、慰め、その苦しみから解き放たれる道を切り開いてくださいますように祈ります。
  • そのような人々の苦しみの中には、直接・間接に私たちが原因の一端となっているものもあるに違いありません。もしそうであるならば、私たちの生き方を変える勇気を、神さま、私たちに与えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    405(すべての人に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-405.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。