なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(3)

6月13日(日)聖霊降臨節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    6(つくりぬしを賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編67編2-6節(讃美歌交読詩編70頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙1章5-7節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  288(恵みにかがやき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-288.htm

説教      挨拶―その3「ローマの人たち一同へ」    北村慈郎牧師

 

  • ロマ書はパウロがローマの教会の人たちに宛てて書いた手紙です。手紙には当然書き手と受け手との間に何らかの関係があります。ロマ書の場合は、パウロが未知の教会であるローマの教会の人たちに書いた手紙ですから、この手紙を書く前に、パウロとローマの教会の人たちとの間に、直接的に出会うということはありませんでした。しかし、ローマの教会の人たちは、パウロの名前をこの手紙を受け取る前にも聞いていた可能性は否定できません。私たちが想像する以上にローマ時代の交易による人の行き来は頻繁に行われていたからです。

 

  • 実際に会ったこともない人たちに手紙を書くのですから、宛名を書くつもりで、自分の名を書きはじめたパウロは、自分がどういう人間であるかを未知の教会の人たちに知ってもらいたいと思い、特にイエス・キリストとの関係において自分がどういう人間であるのかを書こうとしたのではないかと思います。そこで先ずロマ書1章1節で、≪パウロ、キリスト・イエスの僕、召された使徒。神の福音のために選び分かたれた者。≫(田川訳)と自分自身を言い表したわけです。

 

  • そのように書いて、パウロは「神の福音」とは何かについて、説明を加える必要を感じ、「この福音は、・・・わたしたちの主イエス・キリストです」と書き加えました。それが2-4節です。この個所については、前回の説教で取り上げました。

 

  • ロマ書は手紙ですから宛先である相手があります。その相手に対して、この自分が何を語ろうというのか、何をしようというのか、どういう関係に立っているのであろうか。それをパウロが語るには、相手と自分を繋ぐキリストとの関係から語るしかありませんでした。そこで、パウロは、「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」(5節、新共同訳)と言ったわけです。この新共同訳の「御名を広めて」は意訳し過ぎという批判があります。原文では「彼の名のために」です。「わたしたち」は執筆者を指す複数の類いで、1人称複数形ですが、パウロ自身を指していると解し得るであろうと言われています。

 

  • 自分が使徒であるということは、既に1節でパウロは語っています。ここでもう一度自らを使徒と言うのは、ローマの教会の人たちに自分はあなた方もその中に含まれる「すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされ」遣わされた者であると言うためです。パウロの意識からしますと、パウロとローマの教会の人たちとの関係は、使徒と信仰の従順に導かれる人ということになります。

 

  • ご存じのように、パウロが神に召されて使徒となったと自覚したのは、ダマスコ途上における回心の時でした。そのことを自ら振り返って、ガラテヤの信徒への手紙1章13節以下にパウロはこのように記しています。少し長くなりますが、引用します。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分かち、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示し、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしよりも先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラ1:13-17)。

 

  • この回心についてのパウロの述懐の記事を読みますと、彼に御子(イエス・キリスト)が啓示されたことと、異邦人の使徒となることとは同時であり同一であったと言えます。そのことを言い表しているのが、5節の「恵みと使徒職を受けた」(新共同訳は「恵みを受けて使徒とされた」)です。この「恵みと使徒職」というように、恵みと使徒職という二つを同時に言わなければ、恵みだけ、使徒職だけでは、パウロは自分に与えられたものを十分に言う表すことが出来ないと考えていたのではないかと思われます。この言い方は、ここだけではなく、いろいろな機会に形を変えて、パウロの手紙の中に出てきます。復活について語られています、コリントの信徒への手紙一、15章の10節もその一つです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と。

 

  • 神の恵みを受けて、自分は生命に入れられた、そのことが、彼に使徒としての生涯の使命を与えてくれた。彼にとっては、この二つは、どうしても切り離して考えることはできなかったのです。

 

  • バルトは、この「恵みと使徒職を受けた」というパウロにおいて生起している信仰の出来事について、「パウロと他のキリスト者との相違は、程度の差しかない」と言っています。つまり、パウロが回心を通してキリストから受けた恵みと使徒職は、程度の違いはあっても、私たちキリスト者すべてに当てはまると言うのです。私たちはこのことを見失ってはなりません。

 

  • キリスト者とは、イエスの出来事(生涯と十字架死と復活)を通して私たちに与えられた神の恵みによって生きる者のことです。この神の恵みは、私たちのそれまでの生が罪と死の支配の中にあったことに気づかせてくれました。私たちは回心して、本当の命であるキリストの復活の命の中に入れられたのです。その時から私たちはその神の真実に、自分の真実をもって応えて生きる者に変えられたのではないでしょうか。それがパウロにとっては使徒職でしたが、私たちの中にもそれぞれに程度の差はあっても神の真実に自分の真実をもって応えて生きる務めが与えられているのではないでしょうか。

 

  • バルトは続けて、「キリストの恵みのあるところでは人間はどれほどためらいと懐疑をもっていたとしても、あらゆる時代の事物の転回点の、すなわち復活の宣教に参与する。かれにとって、世界の存在は、かれがそれととりくまなければならない問題となり、神の存在は、かれがそのためにたたかわねばならない希望となる」と言うのです。

 

  • イエス・キリストと出会って信仰に導かれた者はすべて、「復活の宣教に参与する」ことになるのだと言うのです。そして「復活の宣教に参与する」者にとっては、「世界の存在は、かれがそれととりくまなければならない問題となり」また、「神の存在は、かれがそのためにたたかわなければならぬ希望となる」と言うのです。神の恵みによって生きるキリスト者とはそういう者なのだと言うのです。

 

  • このようなキリスト者としての実存に、私たちは信仰者としてどこまで深く目覚めて、世界の存在、この破れに満ちた世界の現実を、私たち信仰者がとりくまなければならない問題として、神の存在をそのためにたたかわなければならぬ希望として、日々生きているでしょうか。

 

  • バルトは更に続けてこのように語っているのです。「かれ(パウロであり、他のキリスト者でもある)の確信をつらぬき、ひろめることが問題なのではなく、かれがキリストにおいて出会った神の真実、かれがその真実を知ったことにより、応答真実をささげる責任を負ったその神の真実を証言することが問題なのである。このような人間の応答真実、すなわち恵みをうけとめる信仰は、当然従順への要求でもあり、その要求はまた他の人間にも向けられるものである。この要求は、呼びかけ、照明をあたえ、ゆり起こす。このような要求こそが宣教であって、それ以外に別の宣教が存在するわけではない」と。

 

  • 今日もまた、バルトの引用が長くなってしまいました。今日のロマ書のテキストを繰り返し、繰り返し読んで、ここで何か私たちに語られているのだろうかと耳を傾けていると、バルトの言葉に心動かされてしまうのです。ですから、みなさんと共有したいと思ってしまうのです。お許しください。

 

  • さてパウロはこのようにロマ書の手紙の挨拶の部分(1:1-7)を語って来て、やっと宛先のローマの教会の人たちのことを書いています。「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(6節、7節a)。

 

  • パウロはローマの人たちのことを、「イエス・キリストのものとなるように召された」、また「神に愛され、召されて聖なる者となった」と言っているのです。自分を使徒に召した同じ神が、ローマの人たちをも召しているのだと、パウロは言っているのです。そこに自分とローマの人たちを一つにするものがあると言うのです。

 

  • 昨日私の支援会でZOOM懇談会を行いました。参加者は全国から40人ほどでしたが、そこで関田先生が挨拶してくださいました。先生はその挨拶の中で、私を戒規にかけた教団中枢の人たちは私を排除しようとして無理やり規則を変えてまで私を免職にしたことは許しがたいが、そういう人たちも同じ教団に属することにおいては、キリストによって一つにされているのだから忍耐強く取り組んでいきたいという主旨のことを仰いました。

 

  • パウロとローマの人たちとの関係と、私と私を免職にした人たちとの関係は全く異なりますが、その両者に働きかけてくださる方によって、両者が良好な関係にあろうが、敵対的な関係にあろうが、一つにされていることには変わらない。そいうことではないでしょうか。

 

  • パウロを異邦人たちの使徒たらしめたその同じ神は(1:1)は、ローマの教会の人たちをも、「イエス・キリストのものとなるように召され」また「神に愛され、召されて聖なる者となった」のだと言うのです。だから、「かれらはもはやかれら自身のものでも、古い過ぎ行く世界のものでもなく、かれらを召した方のものである。かれらのためにもまた、人の子は復活の力により神の子と定められたのである。かれらもまた今ここにおいて偉大な危急と希望の認識の中にとらえられている。かれらもまたかれらの仕方で、神のために選びわかたれ単独者となったのである。かれらの新しい前提もまた、「われらの父なる神および主イエス・キリストからの恵みと平安」である。この前提がいつも新しい出来事として生起するように! かれらの平安がかれらの不安となり、かれらの不安がかれらの平安となるように! それがロマ書のはじめであり、おわりであり、内容である」。

 

  • 当時のギリシャ人やローマ人は「喜び」や「繁栄」を願ったと言われます。手紙の挨拶にそれを書いたかどうかは分かりませんが、それに対して、パウロは「恵み」と「平安」を願うのです。「これらの言葉は、教会を教会たらしめ、キリスト者キリスト者たらしめるもの――人間に対する神の助けと、この助けに基づく人間生活の秩序――を、いわば上から、また下から指し示している。イエス・キリストにおいてこのふたつのことが出来事になっている。しかし、それはまた常に新しく期待され、従って両者の源泉である方に願い求められるべきものでもある。すなわち、われらの主イエス・キリストによって父として認識される、われらの父なる神に――またそのような方として、われらの父なる神への道である、主イエス・キリストに願い求められるべきものである。これらの形式の二つの面を分離することが少なければ少ないほど、一方が他方によって解明されうることがいっそうはっきりわかるようになり、かくして両者をいっそう正しく理解するようになる」。

 

  • 「恵みと平安」。これは「人間に対する神の助けと、この助けに基づく人間生活の秩序」であると言われます。私たちも、現実がどんなに厳しくとも、「恵みと平安」の日々へと招かれていることを覚えたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、パウロは、イエス・キリストの福音という出来事によって、あなたが私たち人間にあなたの恵みを与えてくださっているということから、すべてを見ているように思われます。自分もローマの教会の人たちも、そしてすべての人を、です。
  • 神さま、今日のロマ書の個所から、私たちがあなたの真実に自らの真実をもって応えて生きていくことこそが、キリスト者の生きざまであることを教えられました。ありがとうございます。私たちが日々新たに聖書を通してあなたの真実に触れることができますように、お導きください。そのあなたの命によって、私たちが、日々新たに私たちの真実をもって応えて生きていけますように、お導きください。
  • 神さま、この1年数か月に及ぶ新たなウイルスの脅威の中で、改めて国家をはじめ権力者の頼りなさを痛感させられています。誰かに委ねて政治を行うシステムでは、一人一人の命と生活が守られないことがはっきりしたように思われます。神さま、私たちの中に共助の精神と行動をもって、新たな社会をつくり出す動きを起こしてください。すでにいろいろな所でそのような試みが始まっていると思われます。どうぞその試みが実りあるものとなっていきますようにお導きください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   481(救いの主イエスの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-481.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

ローマの信徒への手紙による説教(2)

以下は、6日の日曜日早朝、この日の礼拝式と説教原稿を教会員他に配信するメールに書いたものです。

 

皆さまへ

 

おはようございます。

最近は説教づくりで徹夜になることはほとんどありませんが、

今日は徹夜になってしまいました。

しかも引用が多くなってしまいました。

ロマ書はなかなか難しそうです。まだ2回目ですが、

途中で断念しないように、

何とか最後までたどり着ければと思っています。

今回引用が多くなりましたが、お許しください。

これから少し寝ます。

新しい週の皆さまお一人お一人の健康と歩みの上に主の支えをお祈りいたします。

                   北村 慈郎

 

6月6日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    4(世にるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編25編1-11節(讃美歌交読詩編26頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙1章2-4節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  290(おどり出る姿で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-290.htm

 

説教     挨拶―その2「この福音は」     北村慈郎牧師

 

  • パウロは手紙の発信人である自らを、「キリスト・イエスの奴隷、使徒として召された(者)、神の福音のために選び出された者」(1節)であると言い表しました。

 

  • 通常の手紙の書き出しの挨拶では、すぐに7節の≪神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ≫と、宛先である受信人が記されます。そして≪わたしたちの主イエス・キリストと父なる神から、恵みと平安があなたがたにあるように≫という祈願の言葉で、挨拶が終わります。これが当時の手紙の挨拶の一般的な三要素(発信人・受信人・祈願)になります。

 

  • ところが、ロマ書では発信人である自らを紹介する言葉(「神の福音のために選び出された者」)の中にある≪神の福音(「神の救いの音ずれ」)≫を受けて、≪これ(神の福音)は、・・・≫と、挨拶としては異例でありますが、福音の内容を説明する言葉が付け加えられているのであります。それが2-4節になります。

 

  • ロマ書は、パウロが未知なる教会であるローマの教会に宛てて書いた手紙です。その手紙を書いた目的は、ローマの教会の人たちと神の福音を共有するとともに、ローマの教会の支援を得て、未開の地イスパニア(スペイン)に神の福音を宣べ伝えるためでした。
  • 神の福音を全世界の人に宣べ伝えることを、パウロ使徒として召された自分の果たすべき責任であると信じていたからです。ロマ書をパウロが書いたときには、パウロは、地中海世界の中でイスパニアにはまだ福音が宣べ伝えられていないと思っていたようです。自分がイスパニアに行って、神の福音を宣べ伝えるのだという熱い思いをもって、未知の教会であるローマの教会の人たちに、このロマ書を書いたのです。

 

  • パウロは挨拶で、自分が選び出された(別たれた)のは福音のためであると言って、福音という言葉が出て来ると、たとえ簡単でも、その内容にふれないではおられなかったのでしょう。なぜなら、一口に福音と言っても、人によってその思い描く福音の内容が異なることがあるからです。パウロは、特にガラテヤの諸教会をはじめ多くのところで、異なる福音との闘いというまことに苦い経験をしているのです。ですから、余計慎重にならざるを得なかったのでしょう。殊に、ローマの教会は、彼がまだ訪ねたことのない教会です。先方も、パウロはどういう人物であろうかと心配しているでしょうし、こちらも誤解されたくないからです。

 

  • さて、福音についての説明はまず、≪この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので≫(2節)あったということであります。これによりパウロは、福音の使信は真に信頼できるということを強調するのであります。福音は僥倖、偶然に生まれた幸運ではありません。聖書(旧約聖書)の中で預言者によって約束されていたものの成就であります。旧約聖書全体がキリストを指し示しているとパウロは理解しているのです。

 

  • 神があらかじめはっきりと定め、一つの目的をもって貫かれたものであるということです。福音は、何よりも動かない確かさを持っているのであります。なぜならば、それは、神の長い計画によるものだからであります。それが成就されたものが、福音であるからであります。
  • 3節aでは、2節を超えて、1節の「神の福音」が「御子に関するものです」と言われています。≪この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです≫。「福音は、聖書にあらかじめ語られている、その聖書の内容は、理論や説明や教理ではなくて、一つの事実」であるイエス・キリストという人物のこと、その十字架の死と復活という事実のことであります。それゆえ、福音について語ると言うことは、御子について語ることになるのです。ですから福音を知りたいと思えば、この人物を知らなければなりません。一人の人物を知るということは、その人を愛すること、あるいはその人に愛されることであります。

 

  • 事実、パウロは、キリストに愛せられキリストを愛し、目に見えない主をいっそう愛する生活をしている、と確信していたのであります。『生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしが今肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである』(ガラテヤ2;20)と言うはずであります。パウロは、フィリピの信徒へ手紙に、自分の本当の願いを言えというなら、『この世を去ってキリストと共にいること』であって、『実は、その方がはるかに望ましい』(1:23)と言っています。これは神の御子に対する愛がなみなみならぬことを、示しています。言い換えれば、彼が、どんなに強烈に、御子をこそ、自分の真の福音であると思っているか、ということが分かるのであります。

 

  • この「御子」は、4節末尾で「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と言い表されます。

 

  • 「わたしたちの主イエス・キリスト」。バルトは、「それが救いの音ずれである。それが歴史の意味である。この名において二つの世界が出会い、わかれる。既知と未知の二つの平面が交わる。既知の平面とは、神によってつくられたが、その根源的な神との一致から脱落し、そのために救いを必要とする『肉』の世界、人間と時間と事物の世界、つまりわれわれの世界である。この既知の世界が、もう一つ別な未知の平面によって、父の世界、すなわち根源的な創造と究極的な救いの世界によって切断されているのである。しかし、われわれと神との、この世界と神の世界とのこの関係は認識されることを求める。両者の切断線を見ることは、自明のことではない。・・・見られるはずの、また現に見られる切断線上の一点が、イエスである。ナザレのイエス、「歴史的」イエス、『肉に依ればダビデの子孫から生まれた』イエスである。歴史的規定としての『イエス』とは、われわれにとって既知の世界と未知の世界との間にある断絶点を意味する・・・」と、『ローマ書講解』の中で記しています。

 

  • 難しい言い方かも知れませんが、要するに人として生まれたイエスは、「神によってつくられたが、その根源的な神との一致から脱落し、そのために救いを必要とする『肉』の世界、人間と時間と事物の世界、つまりわれわれの世界」で、われわれと同じ人間として生きて、神の国の宣教と病者の癒しを通して、「この既知の世界が、もう一つ別な未知の平面によって、父の世界、すなわち根源的な創造と究極的な救いの世界によって切断されている」断絶点であるというのです。この断絶点であるイエスを通して、私たちは無自覚にこの現実社会を生きるのではなく、この現実社会がいかに的を外しているかにに気づき、神の救いを希求して生きる者へと導かれるのです。

 

  • 「イエスは『かれの死人からの復活により、その力をもって神の子と定められた』。かれがこのように定められたということがイエスの真の意味であるが、もちろんそれをそのまま、まったく歴史的に規定することはできない。キリストすなわちメシアとしてのイエスは、時のおわりである。・・・キリストとしてのイエスは、われわれにとって既知の平面を、上から垂直に切断するわれわれにとっての未知の平面である。・・・キリストとしてのイエスは、歴史的可視性の範囲内ではわれわれはなにも知りえず、なにかを知ることもないであろう父の世界をもたらす。・・・しかし死人からの復活は、転回点であり、上からあの一点を『定めること』であり、それと対応した下からの洞察である。復活は啓示であり、キリストとしてのイエスの発見であり、かれにおける神の出現と神の認識であり、神に栄光を帰し、イエスにおいて未知の者、見えざる者を予期する必然性の生起、イエスを時の終わりとして、逆説として、原歴史として、勝利者として承認する必然性の生起である。復活において、聖霊の新しい世界が肉の世界と接触する。しかしそれはまさに、接線が円に接するように、接触することなしに接する。まさに接触しないことによって、その限界として、新しい世界として接する。・・・むしろ、われわれに接触しないことによって、キリストであるイエスにおいてわれわれに接するのは、創造者、救済者である神の国である。この国は現実的なものとなった。この国は近づいた(3:21以下)。・・・このようなイエス・キリストが「われわれの主」である。世界とわれわれの生の中にかれが現臨することによって、われわれは人間としては廃棄され、神の中に基礎づけられ、かれを仰ぎみることによって静止しまた動かされ、待ちこがれる者である。かれがパウロとローマ人たちの上に主として立つからこそ、「神」はローマ書においては空虚な言葉ではないのである」(バルト)。

 

  • バルトの『ローマ署講解』からの引用が長くなりましたが、お許しいただきたいと思います。ロマ書1章の2-4節の個所でパウロが何を言いたかったのかを、聖書を何回も読んで自分なりに考え、またいろいろなロマ書の註解や講解を読んでみましたが、表現は少し難しいかも知れませんが、この個所のバルトの『ローマ書講解』が一番私の心に響きました。たまたま今はコロナウイルス感染防止のために、会堂での話し言葉による説教ではなく、メール配信による文字原稿による説教ですので、バルトの引用は難解かも知れませんが、何度か読み直して少しでも理解していただけたら幸いに思います。

 

  • 神の福音のよき音ずれは、「わたしたちの主イエス・キリスト」(4節)であるということを、改めて心に留めたいと思います。「主」とはギリシャ語でキュリオスです。「わたしたちの主イエス・キリスト」という告白定型句の背景には、ヘレニズム的神秘宗教における主(キュリオス)礼拝があったと言われています。原始キリスト教団はこのキュリオス礼拝を取り入れたと考えられています。具体的には礼拝において福音の告知に応えて「イエスはキュリオスである」という歓呼の叫びを挙げたというのです。この「イエスはキュリオス」の歓呼は、礼拝において現在し給う「キュリオス」を崇拝するというニュアンスが強いのです。他方それとは独立に、初代教会には最初からアラム語の「マラナ・タ」(主よ、来たり給え)という祈りがありました。これは来るべき人の子、世界の裁き主として到来する主への祈りです。パウロが「主」(キュリオス)と言うとき、この両方が含まれます。・・・この「現在」と「将来」の緊張があってこそ、パウロの言う「主」キュリオスは、単なる現在的なキリスト教的祭儀神になり終わりませんでした。むしろパウロは、キリスト教会の主を異教世界の諸々の主と対立させ、宇宙の支配者として明示しました(ケーゼマン)。第一コリントの手紙8章5-6節で、パウロは次のように言っています。

 

  • 「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。

 

  • この福音のよき音ずれを大切にして、主でないものを主とすることのないように、「わたしたちの主イエス・キリスト」を信じて生きていきたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日は、あなたから私たちすべてに与えられています、あなたのよき音ずれである福音についてのパウロの説明から、あなたの語りかけを聞きました。端的に言えば、あなたの福音は「わたしたちの主イエス・キリスト」です。
  • 私たちはこの福音について聞いていますが、もしかしたら右の耳から左の耳へ抜けていくような仕方で聞いてしまっているのかも知れません。パウロが、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」と言っていますが、それほどのイエス・キリストとの一体化が、私たちの中にあるとは思えません。
  • 神さま、どうか私たちがイエス・キリストを通して示されているあなたの真実に向かい合って生きることができますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • 長引く新型コロナウイルス感染の恐れと不安の中で、命と生活が脅かされている人々も多くなっています。どうかその一人一人が支えられますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   271(喜びはむねに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-271.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

鶴巻通信(11)

鶴巻通信(11)田植えとバラ 2021年6月4日

 

・ 昨日久しぶりに連れ合いの写真の前に飾る花を買いに、自転車で平塚のあさつゆ広 場に行きました。大分散歩を休んでいましたので、自転車で左右に田んぼが広がる道を走っていましたら、田んぼはほとんど田植えを終えていました。

 

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・ あさつゆ広場の向かいには花菜ガーデンがあります。しばらく前にバラを見に娘と行ったときに撮ったものです。

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・ この花菜ガーデンのバラは生前連れ合いとも何度か見に行きました。バラの種類が多く、見事です。

ローマの信徒への手紙による説教(1)

5月30日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    2(聖なる神は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-002.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編99編1-9節(讃美歌交読詩編108頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙1章1節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  356(インマヌエルの主イェスこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-356.htm

説教      挨拶―その1「パウロの自己規定」      北村慈郎牧師

 

  • 今日からパウロのロマ書(「ローマの信徒への手紙」をこのように呼ばせてもらいます)から語りかけを聞いていきたいと思います。

 

  • みなさんもご存じだと思いますが、ロマ書は、キリスト教の歴史の中でその転換期に宗教改革者ルターにしても現代神学の旗手カール・バルトにしても、大きな役割を演じたパウロの手紙です。ルターはパウロの信仰義認によって、功績主義的な中世カトリックの枠を打ち破って、宗教改革トップランナーになりました。また、カール・バルトは、近代の人間中心的なキリスト教に対して、「人間から神へ」ではなく「神から人間へ」という福音理解の根本的な転換をあきらかにし、それまでのプロテスタントの歴史を根本的に変革しました。どちらもその契機になったのがロマ書でした。そういう意味で、ロマ書は、キリスト教の歴史にとって、聖書の中の諸文書の中でも特に重要な文書ということになっています。

 

  • 前週の礼拝の配信のメールでも書きましたように、1970年前後から歴史的なイエスへの関心が強くなり、それに伴ってキリスト教の教義の元をその手紙で記しているパウロへの批判(パウロ批判乃至はパウロ主義批判)も強くなりました。そういう背景の中で「現実と観念の逆転」(田川建三)ということが言われるようになったのです。キリスト教信仰には、社会的な現実を観念化し、キリスト教の教義が現実だと強弁するところがあり、1970年の安保改定や大阪万博問題という社会の現実の問題にちゃんと向き合わないで逃げているという批判です。そのような教義的なキリスト教信仰の基礎を築いたのがパウロだということで、パウロへの批判が強かったのです。

 

  • 私もその影響を受けて、パウロを敬遠するようになったところがあり、船越教会でも今まではガラテヤの信徒への手紙は説教テキストに取り上げましたが、パウロの代表的な手紙であるロマ書は避けてきました。しかし、私もそう長くはないと思いますので、まだ元気なうちにみなさんと共にロマ書から、今の私たちに何が語りかけられているのかを聞いてみたいと思うようになりました。

 

  • 少し説明が長くなりましたが、これが今日から説教でロマ書を扱うことになりました、私の思いであります。メールでも書きましたように「しっちゃかめっちゃか」になるかも知れませんが、ご了解いただきたいと思います。

 

  • 新共同訳聖書のロマ書1章1節は、≪キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから≫です。新約聖書ギリシャ語で書かれていますから、ギリシャ語のロマ書1章1節を新共同訳聖書の訳者が、このように訳したわけです。ギリシャ語本文と新共同訳聖書の訳文では、「パウロ」が置かれている語順が違います。新共同訳では1章1節の最後にパウロが来ています。≪キリスト・イエスの僕、・・・・パウロから≫というようにです。ところが、ギリシャ語本文では、パウロは語順の最初に出てきます。≪パウロス・ドゥーロス・クリストゥー・イエスー≫(パウロ・奴隷・キリスト・イエスの)、すなわち≪パウロ、キリスト・イエスの奴隷≫です。

 

  • 新共同訳では「僕」と訳されていますドゥーロスは、文字通り「奴隷」です。奴隷というと、私たちはアメリカの黒人の歴史を想い起すのではないでしょうか。アフリカから奴隷商人によってアメリカに売られて、アメリカで奴隷扱いされた人たちです。人権が認められず、所有者の所有物として、所有者の思いのままに家畜のように扱われたのです。1863年にリンカーンによる奴隷解放宣言があり、1960年代にはマルチン・ルーサー・キングの公民権運動が起こり、現在では黒人の人権が認められるようにはなっていますが、今でもアメリカでは、黒人であるがゆえに警察官の暴行によって殺されるような黒人差別事件が起きています。そういうアメリカの黒人の奴隷制を思いますと、「奴隷」という言葉に積極的な意味を見いだすのは、私たちにはなかなかできないのではないでしょうか。

 

  • けれども、パウロは、自らを「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と言い表すことによって、「キリスト・イエス」という一人の人格によって決定的に自分の心が動かされていることを証言しているのです。「それは彼自身の人格でもなければ、この手紙の一人一人の読者、または聞き手の人格でもなく、彼の人格や、ローマの教会に結合されている人格を超えた、イエス・キリストの人格のことである。パウロは彼の僕、文字通りには奴隷である。すなわち、パウロは彼に所属するものである。そして、彼は自分自身の人格においてではなく、また自分自身の権利にもとづいてでもなく、ただキリストに所属するものとして語ろうとする」のです。

 

  • 私たちは自分自身を「キリスト者」と言うことがあると思います。「キリスト者」とは、どういう者のことでしょうか。キリスト者とは「キリストの者」「キリストに属する者」を意味する言葉です。その意味では、パウロの「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と変わらないのではないでしょうか。「自分自身の人格においてではなく、また自分自身の権利にもとづいてでもなく、ただキリストに所属する者」として語り、生きようとする者、それが「キリスト・イエスの奴隷」であり、また「キリスト者」ではないでしょうか。

 

  • 私は、今回改めて自分がキリスト者であることがどういうことなのかを考えさせられました。本当に自分は「キリストの者」であるのか、「キリストに属する者」なのか。改めて問われた気がしました。日課として私は、ボンフェッファーの『主のよき力に守られて~ボンフェッファーの一日一章~』を読んで、祈る時を持っています。忘れてしまうこともあるのですが。つい最近読んだ5月27日は「われわれのうちに住む神とキリスト」という表題で、ヨハネ福音書14章23-24節に基づいて書かれたものです。そのヨハネ福音書の言葉は≪イエスは彼に答えて言われた、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、父とわたしは、その人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。・・・・」≫です。ボンフェッファーは、【「イエスを愛する」とはどういうことであろうか。それは、<われわれに言葉を与え、われわれを守る方に所属する>ということ、<イエスとの交わりを他の何ものにもまさって追い求める>ということ、<イエスが今、ここにいてくれることを熱望する>ということである。このようにイエスを愛する者は、自分の愛する者の言葉を固く守り、これに固着し、それを離さない。そしてその言葉どおりに生きることが可能な場合には、そのとおりに生きようとする。イエスへのこのような愛は、やがて完全に成就を経験することになるであろう。すなわち、神とイエス・キリストが、「その人のところへ行って、その人と一緒に住む」ことになるであろう。・・・・神とキリストがわれわれのうちに住む時には、われわれの心のさまざまな部分を占めている別の「主」は、すべて退かなければならない。キリストご自身が、われわれのうちに生き、今、われわれを支配するのである。しかしすべてが明らかにそのようになるのは、われわれが主キリストを愛し、その言葉を守る時だけである。みずからの完全な救いをキリストのうちに求め、われわれのうちには求めなくなるその度合いに応じて、すなわちわれわれがキリストを自分の上に立つ主とする度合いに応じて、キリストはわれわれのうちにいまし、ついには完全にわれわれを占有することになるであろう。しかしキリストを愛そうとはせず、自分のみを愛する者、あるいは、喜んでキリストを受け入れようとはするけれども、決して仕えようとはせず、服従しようとはしない者は、キリストの言葉を決して守ろうとはしない。それゆえ、そのような人には、何も起こりはしないだろう】。このボンヘッファーの言葉は、パウロの「キリスト・イエスの奴隷」、また私たちの「キリストの者」が、どのような人間なのかを、よく語っているように思います。

 

  • そのようにパウロは、自分は「キリスト・イエスの僕(奴隷)」だと、このロマ書の冒頭の挨拶でローマの教会の人々に自己紹介をしているのです。パウロの自己紹介はこれだけではなく、自分は「召された使徒」、「神の福音のために選び分かたれた者」でもあると続きます。

 

  • パウロは、自分は教会の迫害をしたのだから、使徒たちの中で最も小さい者でありまったく使徒としての値打ちのない者であることを、自ら認めています(Ⅰコリ15:9)。また、パウロ自身は、イエスの宣教活動や教えの内容を他の使徒たちから聞いてはいたでしょうが、直接触れたことはなかったと思われます。つまり生前のイエスには出会っていなかったのではないでしょうか。

 

  • パウロが「キリスト・イエスの僕(奴隷)」として、(十字架にかけられて殺されたイエスが高く挙げられキリストである)「主に属するものになったのは、主によって召され、これまでの環境から、しかしまた、これまでの彼自身の内面的・外面的生活状態から呼び出され、その意味では、選び別たれて、使徒となったことによるのである。彼はこの主から使徒のつとめという恵み(5節)、すなわち主によって全権を与えられて遣わされたもののつとめという恵みを受けた。このつとめが、彼に福音・よき音信の宣教を委任するのである。/かくてパウロはこの世にあるいっさいのものから分たれ、ひとすら福音に結びつけられ、福音のために選び分かたれた」のです。

 

  • パウロ、キリスト・イエスの僕、召された使徒。神の福音のために選び分かたれた者。≫(田川訳)。これがロマ書1章1節です。キリストは旧約の民が待ち望んだメシア(油注がれた者)=救い主であり、そのキリストこそがイエスであること。パウロは、自分はそのキリスト・イエスの僕=奴隷であり、神に召されて使徒となり、神の福音を宣べ伝えるために神によって選び分かたれた者なのだと、このロマ書1章1節で自らを手紙の宛先であるローマの教会の人々に紹介しているのであります。

 

  • このことによって、パウロは復活の主イエスとの出会いによって自分は生まれ変わり、自分自身の中心に、富でも名誉でも自分自身でもなく、キリスト・イエスを迎え入れ、神に召されて使徒となり、神の福音のために神に選び出された者として、この手紙を書いているのだと言っているのです。

 

  • この自分自身は何者であるのかというパウロの自己規定は、何らかの意味でキリスト者である私たち一人ひとりにも当てはまるものではないでしょうか。否、当てはまらなければならないのではないでしょうか。そうでなければ、私たちがキリスト者であるとは言えないのではないでしょうか。イエスは、神と富という二人の主人に同時に仕えることはできないと言われました。しかし、どちらも捨てがたいと、あいまいにして、二人の主人を同時に求めているところが、私たちの中にはないでしょうか。

 

  • パウロ、キリスト・イエスの僕、召された使徒。神の福音のために選び分かたれた者。≫(田川訳)というパウロの自己規定は、牧師と信徒ではその働きの違いはあったとしても、私たちキリスト者すべての自己規定でもあるのではないでしょうか。

 

  • このロマ書1章1節から、そのようなことを思わされました。キリスト者として自分がこの世の中でどう生きるかということは、もちろん大切な課題です。しかし、同時に、キリスト者とはどんな人間なのかを、神とイエス・キリストと自分との関係において吟味検討し、その豊かな関係において自分自身が何者であるのかを深く理解することも大切なことではないかと思うのです。パウロの信仰者としての自己紹介に表わされているパウロの自己規定を通して、キリスト者である私たち一人ひとりが、神とイエス・キリストとの関係において自分は何者なのかを、もう一度深くとらえなおすことができれば幸いに思います。

 

祈祷

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、私たちは己自身を自分の中心に据えて生きているように思われます。かつて私たちは聖書の告げるイエスに出会い、「わたしに従いなさい」というイエスの招きに応えて、キリスト者として生きるようなった者たちです。その私たち自身のアイデンティティティーを、今日はロマ書の1章1節のパウロの自己紹介の言葉を通して、改めて問われた思いがします。
  • 神さま、どうか私たちに、私たち自身がキリストの者であることをより明確に自覚できるようにさせてください。そのことによって、ただ社会の現実を嘆くだけではなく、互いに助け合い、支え合う、あなたの望みたもう社会の構成員の一人として生きることができるように、私たちを導いて下さい。
  • 神さま、新型コロナウイルス感染がなかなか収まりません。そのために苦しむ人を支えてください。また、このウイルスと私たちは今後長く共存しながら生きていかなければならないと思われます。その道を切り開くことができるようにお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   418(キリストのしもべたちよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-418.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

創世記1章から11章による説教(8)

23日の日曜日の礼拝式と説教原稿を会堂での礼拝に出席される方や教会員の方に送る時に、今回は下記のような書簡を添えました。

 

皆さま

おはようございます。

マタイ福音書による説教を終えて、創世記1-11章の聖書の問題提起の箇所を扱いました。今日でそれも終わります。この創世記1-11章については、ほとんど秋田稔さんの『聖書の思想』の当該箇所を参考にさせてもらいました。来週からは「ローマの信徒への手紙」から説教をしたいと思っています。

私は若い時に田川建三さんによる「現実と観念の逆転」(信仰には歴史的現実が観念となり、

キリスト教教義を現実とする逆転がある、その張本人がパウロだと、田川さんは言うのです。)

に影響されたのか、パウロを敬遠してきたところがあります。でもパウロとも真剣に向かい合わなければならないと思ってきました。そこでマタイ福音書が終わった時に、次はローマの信徒への手紙にしようと思いました。心の準備のために、創世記1-11章を間に入れさせてもらいました。ということで、今まで以上にしっちゃかめっちゃかになってしまうかも知れませんが、来週からはローマの信徒への手紙を説教のテキストにさせていただきます。

本日の礼拝式と説教原稿及び週報を添付します。

新しい一週の皆様一人一人の歩みの上に主の支えをお祈りいたします。

                      北村 慈郎

 

5月23日(日)ペンテコステ礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    355(主をほめよ、わが心)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-355.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編51編12-19節(讃美歌交読詩編56頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   創世記11章1-9節(旧約13頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  342(神の霊よ、今くだり)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-342.htm

説教      「バベルの塔」     北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 今日はペンテコステの礼拝です。本来ならペンテコステにふさわしいテキストで説教をすべきですが、今日はお許しをいただいて、創世記1章から11章の始原史の最後であるバベルの塔物語から語りかけを聞きたいと思います。

 

  • ノアの洪水によってノアとその家族以外の人間はすべて死に絶えてしまいました。10年前に起きた東日本大震災の時、海から押し寄せる津波の破壊力の凄さを、テレビの放映で、私たちは目の当たりに見せつけられました。あっという間に家が破壊され、人も自動車も町ものみ込まれてしまうのです。

 

  • この東日本大震災の大津波の恐ろしさを思うと、津波ではありませんが、同じ水による災害である洪水の恐ろしさも想像できます。ノアの洪水の場合は、40日40夜雨が降り続いて、山の頂も水没してしまうほどなのですから、ノアとその家族のように箱舟にいて、その難を逃れる以外に生き延びることはできません。ですから、ノアとその家族以外のすべての人がこのノアの洪水によって死に絶えてしまったのです。これは、人間の悪と腐敗の広がりを見て、神が人間を造ったことを後悔し、人間の罪への裁きとしてくだされ神の審判です。

 

  • 「裁くということは、裁くに価するものとして責任を負わせることです。神は人を生かすも殺すもこちらの勝手というような、道具のようなものとしてではなく、責任を負うべき人格としてつくったのです。人は責任を負うべき存在であり、だからこそ、神は人の責任を追及するのです。責任を負わせることの中には、実は責任を負うものとして目覚めさせようとする心があります」(秋田稔)。ノアの洪水を敢行した神の裁きには、このような神の心が秘められていたのです。

 

  • 神は洪水に際して、ノアに恩恵を与え、ノアを通して、もう一度責任を負う人格としての人間への道を備えようとされました。ノアは、神への従順、真実なるものへの服従において、責任を負い抜く新しい人間をさししめしたのです。けれども、「こと罪とか罰に関する限り、人間は歴史とか先例からなかなか学びません。その結果、前車の轍を踏むことになります。アダムの罪をその子孫は繰り返し、罪の子であることを知らされます。ノアの子らも例外ではありませんでした。ここから創世記11章のバベルの塔物語が展開するのです」(同上)。

 

  • ノアの子孫は移って、シンアルの地(メソポタミア)に平野を見つけ、そこに定住しました(11:2)。ここで文化の華が開きます。偉大なメソポタミア文明の展開がこの物語の背景にはあると思われます。社会機構も整備し、複雑となります。この文化と社会の発展の中で、人は何を思い、何を試みたのでしょうか。

 

  • 11章4節にこのように記されています。≪さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と。これは、人間社会の発達を描きつつ、その背後に専制王国の首都建設を想像させるような叙述です。首都の中央に、どこからでも見える巨塔を立てようというのです。そこには権力の集中と、それによる社会の統制がもくろまれているように思われます。権勢をもってまさに神と拮抗しようとする権力者の姿です。文化は飛躍的に発達し、王の支配下にあった人心も、何でもできるかかのように驕り、高ぶるようになります。巨大な王国、栄華を誇る文化。しかし、その奥には、権勢欲と不敵な自信と傲慢があります。バベルの塔物語の記者は、さらに問題を掘り下げて、文化、社会の発達そのものの中に、手放しで喜ぶことのできないどす黒いものがあることを決して見逃しませんでした。

 

≪主は降って来て、人の子らが建てた、塔のある町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、    

皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」。/主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからです≫(11:5-9)。

 

  • ここでは、権力組織、文化の底に潜む人間の罪が指摘されています。それと共に、言葉を異にする民族の成立が人間の罪と無関係ではないことが主張されていま。華やかな文化に心奪われて、無批判にこれに追従し、謳歌しているのではありません。また、民族と民族との間の解きがたい問題性を見逃さなかった聖書の民は、ある意味でおどろく程現代的でもあります。現代ほど、文化の発達がそのひずみを露呈し、民族、人種問題が複雑深刻になっている時代は、かつてなかったからです。

 

  • 日本でも在日コリアンに対する差別であるヘイトクライム(憎悪による犯罪)が問題になっています。川崎のふれあい館に送られてきた年賀状には、「謹賀新年 在日韓国朝鮮人をこの世から抹殺しよう。生き残りがいたら、残酷に殺して行こう」と書かれていたと言うのです。アメリカでも、現在黒人差別だけでなく、アジア人へのヘイトクライムが問題になっています。しかもアジア人へのヘイトクライムには白人だけでなく黒人も加わっている例があると言われます。
  • 中国のウイグル人チベット人、そして香港人への人権侵害が、西側の国から指摘されています。イスラエルパレスチナ人の間の問題も含めて、民族、人種問題は、現代の世界が抱えている大変厳しい問題です。

 

  • この聖書の箇所は、そういう民族、人種の問題だけでなく、もっと一般的にみても、人間の高慢、神から離れ、自らが神のようになろうとする心が、お互いを結び合わせるどころか、人間相互の無理解を生み、かえって人と人とを離してゆくという現実を鋭く見抜いています。そこには深い人間洞察が見られます。

 

  • この創世記11章のバベルの塔物語は、メソポタミア文明、特にマルドゥクの神殿と塔をもってメソポタミアに君臨していた神の都バベルをその背景として想定させると言われます。そのバベルを聖書の民はバラル(乱す)と関係づけました。バベルとは、バビロニア語では「神の門」の意であると言われます。この塔はジックラトゥと言われ、その遺跡が残っています。底辺が約90メートル四方、高さも約90メートルの台形の建造物で、3層ほど積み重ねられていて、バビロニアの神々を崇拝する礼拝場所であったと考えられています。

 

  • イスラエルの先祖が最初に住みついた地、そして最初に接した文化も、メソポタミアとその文明でした。また南王国ユダが滅ぼされ、イスラエルの民の捕囚の地になったのもメソポタミアでした。大国に支配され、弱小民族であるイスラエルが、支配民族に吸収されることなく、逆に自分たちを支配しているバビロン王国がはらむ問題を、人間の問題性の次元にまで深めて大胆正確に把握し、批判したことは、驚異であるというほかはありません。イスラエルの民の神(ヤㇵウェ)信仰が、この世の権力に屈せず、おそれず、また自己正当化をも拒否して、このような自己をも含めての人間の真相、その問題性指摘を可能ならしめたのです。

 

  • ところで、創世記1章から11章までの始原史では、最後のバベルの塔物語までは、神は裁くと共に救済の手を差し伸べられていました。神の命令を破ってエデンの園を追放されたアダムとエバに対して、神は≪皮の衣を作って着せられ≫ました(3:21)。弟のアベルを殺したカインには「しるし」をつけて、カインを復讐から守りました(4:15)。洪水で人類を滅ぼした時には、ノアに箱舟を造らせ、ノアとその家族を滅亡から守りました。バベルの塔物語には、神の裁きだけで救済はないのでしょうか。

 

  • 高柳富夫さんは、バベルの塔物語も、神の裁きだけでなく、神の救済が語られていると言います。少し長くなりますが、高柳さんが言っていることを紹介します。<神はたしかに裁きを行いました。けれどもそのときの言葉は、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」という言葉でした。一つであること、違いを認めないこと、それはだめだと言ったのです。だから違いをつくり出し、全地に散らしたのです。つまり、互いに言葉が通じなくなること、お互いに散っていくことは、表面上はたしかに裁きですが、同時にこれは、人間にとって実は大切なことなのではないでしょうか。むしろ、同じだから神の意志に適わなかったのであって、神は違うことを祝福し、良しとしたことを示しているのではないでしょうか。違うことが大事なのだ、それが人間の救いなのだ、と。/どういう救いかといえば、違いがあってよいという救いであり、違うことが祝福されるということでしょう。一つであることのほうがむしろ問題だ、と言っているのです。ですから、人間というものは、いろいろ異なる言語があってよいし、いろいろ異なる民族がいてもよいし、いろいろ異なる文化があってよいということです。そういうお互いにの違いを大切にしていくことこそが、人間にふさわしいということです。多様性を認め合って、お互いが相対的であることを認め合って、そして共存していくことが、神の意志に適うことであり、神はそれを祝福されるということなのです。/その意味で、原初史は神の恵みなしに終わっているのではありません。“多様性”の祝福という神の恵みが、裁きを通して与えられているのです。ですから、バベルの塔物語も、これまで原初史を構成してきた主要な物語と同様に、同じテーマで貫かれていたということになります>と。

 

  • 高柳さんも言っていますように、多様性を認め合い、お互いの違いを認め合って共存していていけるかというは、21世紀の人類の最大のテーマの一つであります。私たち船越教会の平和センター宣言も、そのことを語っています。「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します」。

 

  • 創世記1―11章は、今まで見てきましたように、人間についての全人類的な問題把握であり、問題提起でもあると言えます。そのことを踏まえ受け止めて、創世記12章1節からは、アブラハム物語の形で一民族イスラエルが登場してきます。この民の歴史は、全人類的な問題のただ中に、自らもその問題性を背負いつつ、それをうけとめ、世界の歴史の一員としてはじまるというのです。弱小民族とはいえ、人間、社会、歴史をめぐる問題性の中にただ無意識、無反省に埋没するのではなく、それよりの脱出をめぐり、その責任と役割の自覚においてこの民は歴史の中に登場するのです。楽園喪失にはじまるような悲惨、その奥にある人格的な罪の問題を自らに背負い、真実に生きる道を、神への信仰において貫こうとする民としてわれわれは出発したのだという、このような民族的発足の自覚の仕方をした民族が他にあるでしょうか。それは、人間の歴史の中を真実に生きようとする、全ての者の、決して無視することの出来ない一つの歩みの始まりでもあるのではないでしょうか(秋田稔)。

 

  • 私たちは、ひとりの人間として、原初史が物語る人間の問題性を踏まえて、このアブラハムから始まる神への信仰によってこの歴史の中を真実に生きようとする歩みに参与するようにと招かれているのではないでしょうか。私たち船越教会の平和センター宣言は、私たちなりの神の招きへの応答ではないでしょうか。もう一度平和センター宣言を想い起して終わりたいと思います。

 

  • 「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します」

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日は創世記11章のバベルの塔物語からあなたの語りかけを聞きました。バベルの塔を築いた古代メソポタミアの王は、それによって自らの力を示し、人々を自分に従わせようとしました。上に立とうという私たち人間の権力欲の現れです。神はそのバベルの塔を崩壊させ、人を多様性の中で、あなたの下に互いを認め合って生きるようにされました。その実験は、神がイエス・キリストを私たちのところにつかわしてくださることによって、今も続いています。しかし、人間の現実は、今もバベルの塔を築く罪の試みが絶えません。どうか私たちを、人間である己に絶望することなく、あなたを信じ、イエス・キルストを信じ、互いの違いを認め合って、共に生きることができるようにお導き下さい。
  • 差別と偏見を持って他者に暴力で迫る人の心を変えてください。またその暴力で苦しむ人々を助けてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌        58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

創世記1章から11章による説教(7)

5月16日(日)復活節第7主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

    (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    500(神よ、みまえに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-500.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編93編1-5節(讃美歌交読詩編103頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   聖書 創世記6章5-22節(旧約8頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  226(輝く日を仰ぐとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-226.htm

説教      「ノアの洪水物語」(その1)     北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 創世記の原初史によれば、最初の人間アダムとエバの責任転嫁、その子供であるカインとアベルの兄弟殺しという的を外してしまった人間の悪は、地上に人が増えることによって増し加わっていきました。
  • 復讐から守られる「しるし」を神から与えられたカインは、ノド(さすらい)の地に住み、町を建て、結婚し、子どもを与えられて、その子孫が増えていきます。
  • 一方アダムとエバには、カインに殺されたアベルに代わって新しい子が与えられ、その子はセトと名付けられます。≪セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである≫(4:26)と言われています。
  • 創世記5章にはアダムの系図が記されています。セムからノアまでの系図で、その最後に≪ノアは五百歳になったとき、セム。ハム。ヤフェトをもうけた≫(5:32)で終わっています。

 

  • カインの末裔とセツ→エノシュの末裔によって地上に人が増えていきます。すると人が増えるに従って、人の悪も増していったというのです。それを見て、人を造った神は「後悔し、心を痛められた」と6章6節に言われています。≪主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する・・・」≫(6:5-7)と。

 

  • 私は、聖書を読むようになって、この個所を初めて読んだときの衝撃を今でも忘れることができません。

 

  • 創世記1章の神による人間の創造の記事では、神は創造された人間を祝福したと言われています。≪神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。・・・」≫(1:27,28))と。
  • 神は人間を創造し、祝福されました。その神が人間の悪がはびこるのを見て、人間を創造されたことを「後悔し、心を痛められた」というのです。<人間の悪は、神ヤㇵウェに創造主としての業を「悔い、その心を痛ませる」程に、否、神の創造の業さえも変更させてしまう程に、重いということ」(月本)です。

 

  • ≪わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する。しかし、ノアは主の好意を得た≫(6:7,8)。

 

  • ここでノアの物語を思い起こして見ましょう。

 

  • 「ここに、主が愛されたひとりの男がいました。その人は正直な働き者で、名前をノアといいました。神は彼とその妻、セム、ハム、ヤフェトの3人の息子とそれぞれの妻を救うことにされました。」
  • 「神はノアに言われました。『世の中はすっかり悪くなってしまった。そこでわたしは、わたしがつくったすべての生きものを滅ぼすことにした。しかしノア、あなたとあなたの家族は救うことにする』」。
  • 「わたしは地をおおう洪水を起こす。あなたはゴフェルの木で箱舟をつくり、アシで屋根を張り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。箱舟の長さは300アンマ(135メートル)、幅は50アンマ(22・5メートル)、高さは30アンマ(13・5メートル)にし、横に戸口と窓のある3階建てにしなさい。中にはあなたと家族のための部屋をつくりなさい。そしてすべての生きもの、獣、地にはうもの、鳥をそれぞれ雄と雌のひとつがいずつ入れなさい。さらにその生きものたちとあなたがたに十分な食糧を用意しなさい。雨は40日40夜降り続け、地上の生命はすべて跡形もなくなってしまうのだから。」
  • 「ノアはすべて神がいわれたようにしました。彼は息子たちとともに舟をつくり、水がしみ込まないようにし、人間にも獣にも十分な食糧をいろいろと積み込みました。用意を何もかも整え、すべての動物を箱舟に入れ、その後で自分たちも中に入りました。そして入口の扉をしっかりと閉めました。」
  • すると「空は暗くなり、雨が降りはじめました。そして40日40夜、雨は降り続きました。水かさは増し、箱舟は浮かび上がり、山ほどの高さまで押し上げられました。山並みも水におおわれ、生きものすべて息絶えてしまい、地上には生きものが何ひとついなくなりました。」
  • 「しかし神は、ノアと、彼とともに箱舟にいるものたちのことをお忘れにはなりませんでした。しばらくして雨はやみました。何日かたつと激しい風が吹き、その風も収まると、水がゆっくり引きはじめました。そして箱舟はアララト山の頂上に止まりました。」
  • 「時がたち、ノアは外の水が引いたかどうかを確かめようと思いました。窓を開けて一羽のカラスを放ち、鳥が降り立つ場所を見つけられるかどうかようすを見ました。カラスはあちらこちら飛び回ったが、水のほかには何もみつけられませんでした。」
  • 「次にノアはハトを放ちましたが、地はまだ水におおわれていて、カラスと同じようにどこにも降り立つ場所を見つけることはできませんでした。箱舟に戻ってきたハトをノアは優しく迎え入れました。7日後、ノアは再びハトを放してみました。すると今度は、夕方になってくちばしにオリーブの葉をくわえて戻ってきました。ノアは水が引いたことを知り、さらに7日待って、もう一度ハトを放しました。今度はハトは戻ってきませんでした。ノアは箱舟の窓を開けて外を見ると、地面は乾いていました。」
  • 「神はノアにいわれました。『さあ、あなたもあなたの妻も、息子もその連れ合いも、いっしょに入っていた生きものすべて、箱舟から出なさい。これからは、あなたやあなたの子ども達が世を治め、地の獣や空の鳥、海の魚があなたがたの食糧となるだろう』。」
  • ノアは感謝のしるしに祭壇を設け、神にささげものをしました。神はささげられたいけにえを喜ばれ、ノアとその家族を祝福され、彼らの子孫が地上にあふれるであろうといわれました。神がこの祝福のことばを発せられたとき、空に虹が現れました。」
  • 「神はいわれました。『この虹は、この世が二度と洪水で滅ぼされることがないというしるしである。わたしが空に雨雲を広げたあと虹が出るのを見れば、わたしがあなたがたやこの世のすべての生きものと交わした約束を思い起こすであろう』。」

 

  • これがノアの物語です。

 

  • このノアの物語を最後にまとめたのは、紀元前の6世紀ごろ戦いに破れて、国もエルサレム神殿も破壊されて、外国であるバビロニアに奴隷として連れていかれたイスラエルの民の指導者であった祭司たちです。

 

  • バビロニアの王様は自分の国に連れてきたイスラエルの人々に強制労働をさせましたが、イスラエルの人々が一緒に生活し、イスラエルの人々が神を礼拝することは認めました。このノアの箱舟を最後にまとめたこの捕囚の民の指導者である祭司たちは、なぜ神様は自分たちをバビロニアの脅威(侵略)から救ってくれなかったのかと考えました。自分たちは神にも見捨てられてしまったのだろうかと。

 

  • この聖書の記者である捕囚の民の指導者である祭司たちの問いは、今の私たちならば、なぜ神はこの世界の苦しみから私たちを救ってくれないのだろうかという問いと同じです。神は救いの神ではなにのだろうかと。

 

  • この聖書の記者である捕囚の民の指導者である祭司たちは、こう考えたのです。神は救い神であると共に、創造の神であると。イスラエルの王国時代に至るところにはびこった暴力と腐敗に、神はイスラエルの民をつくりかえようとお考えなのではないか。そのために自分たちイスラエルの民をバビロニアに引き渡したのではないか。
  • アダムの子孫に変わって、一度洪水ですべての生きるものを滅ぼし、ノアからはじまる新しい人類と生きものの歴史をやりなおしたように。

 

  • ノアの物語は再創造の物語です。一度神はアダムを造り、アダムから全世界に人間が広がっていったという最初の創造に関与しました。しかし、アダムとアダムの子孫は、神に背き、この世に悪がはびこりました。暴力と腐敗が蔓延し、神は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ、人を地上からぬぐい去ることにしました。しかし、「ノアは主の好意を得た」のです。そしてノアから始まる新しい歴史を神は再創造されたのです。

 

  • 神は人間の自由意志を大切にされます。ご自分のお考えを、自由意志ではなく、機械仕掛けの人形のように守るように人間をお造りになりませんでした。強制的にではなく、自分の自由から喜んで神のみ心を自分の心として歩む人間を、神は求めているのです。

 

  • この地上にひろがる暴力と腐敗を、神はどんなに悲しみ、御自身のからだに受けてどんなに深い痛みを感じておられることでしょうか。ノアから始まる人類の歴史もアダムの子孫と同じでした。しかし、神は二度と再び人間と生きものを全部滅ぼすことはしないとノアに誓いました(8:20以下)。

 

  • 神はイエスを遣わし、人となることによって、私たちに対する全く新しい介入をされたのです。イエスからはじまる新しい人間の誕生に希望をかけました。

 

  • 以前私は紅葉坂教会の牧師時代に、日曜学校のスタッフと共に「わたしたちの告白」という信仰告白をつくりました。その中では、「神さまはわたしたちを招いてくださいます。イエスさまとともに生きる群れとなるために 神さまがともにいてくださることを喜び、祝うために かけがえのないいのちを大切に生きるために 他者を愛し、平和を実現するために」と告白しています。イエスと共に新しい人間として私たちが生きるようにと、神が招いてくださっているという告白です。

 

  • ノアは、暴力と腐敗がはびこり、神に逆らい欲望の奴隷になっている人々の中で、人々から馬鹿にされながら、黙々と箱舟を造って、神に命じられたように人間とすべての生きものの絶滅を救うために働きました。そのノアの生き様は、イエスに従う者の生き様を告知しているのではないでしょうか。

 

  • 私たちに与えられた箱舟を黙々と造っていきたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、今日はノアの洪水物語を通して、私たち人間の悪と腐敗をあなたは嘆き、人間をつくったことを後悔し、心を痛めて、箱舟に残されたノアの家族と生き物以外のすべての人間と生き物を洪水によって滅ぼされたことを、改めて考えさせられました。今の世界の状況も、人間同士による、また国家間による奪い合いと殺し合いの現実は、ノアの洪水前の人間の悪と腐敗に満ちた状況と変わらないように思われます。けれども、あなたは二度と人間と生き物を滅ぼすことはしないと誓われ、あなたの私たちに対する最後的な介入をイエスを通してなさっておられます。
  • 私たちは、そのあなたの招きに応えてイエスを信じ、あなたの新しい創造の業に参与している者たちです。どうか人間のおごりと高ぶりから来る悪と腐敗に巻き込まれることなく、あなたを信じ、ノアのように現代において箱舟を造る業に参与することができますように、私たちをお導きください。
  • 新型コロナウイルス感染拡大の中、命と生活が脅かされている人が多くなっています。どうぞその一人一人の命と生活が守られますように。
  • この状況の中で、競争社会のほころびがさまざまなところで現れてきています。パンデミックの中でも、私たちが共に支え合って生きていくことのできる社会をつくることができますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     18(「心を高くあげよ!」)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

創世記1章から11章による説教(6)

5月9日(日)復活節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

    (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    432(重荷を負う者)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-432.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編95編1-11節(讃美歌交読詩編105頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   創世記4章1-16節(旧約5頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  361(この世はみな)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-361.htm

説教      「カインとアベル」     北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 最初の人間アダムとエバは、創世記3章で蛇の誘惑に負けて、神の命令を破って食べてはならない「善悪を知る木」から果実を食べてしまいました。「神のように」なろうとしたのです。二人は、その行為を神から問われると、二人とも責任転嫁の言い訳をしてしまいます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)。「蛇がだましたので、食べてしまいました」(3:13)。

 

  • 自分がしたことで自分の責任が問われると、私たちもなかなか素直に謝ることができないものです。何かを理由にして責任逃れをしたり、他の誰かに責任を転嫁したりすることがあります。ですから、アダムとエバの責任転嫁は、私たちの歪んだ人間の現実を見事に明らかにしているように思われます。

 

  • 過ちを犯した二人は、エデンの園から追放されてしまいます。創世記3章22節以下にこのように言われています。≪主なる神は言われた。人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた≫(22-24節)。

 

  • この地上における人間の歴史はこのようにして始まったと言うのです。エデンの園にアダムとエバが永遠に住むことができたとすれば、この地上における人間の歴史はなかったに違いありません。楽園追放によってこの地上における人間の歴史が始まったのです。

 

  • 創世記1章から11章の原初史は、この地上の歴史を生きる私たち人間にとって、根本的な問題と課題は何なのか、そのことについて記しているのです。その意味で、この原初史は、歴史を生きる私たち人間に対する問題提起の書と言えます。私たち人間は、具体的には民族の一員としてこの地上の歴史を生きています。そういう意味では、創世記12章からのアブラハム物語から具体的な人間の歴史が始まります。聖書ではアブラハム物語の前にある創世記1章から11章は、歴史的人間の前史というかたちにおいて、人間の原初史を神話的に描くことによって、人間の問題と課題は何かという問題提起をしているのです。

 

  • 過ちを犯して楽園を追放されたアダムとエバに、≪主なる神は、アダムと女に衣を作って着せられた≫(2:21)と言われています。神は、二人をエデンの園から追放しますが、二人を見捨てるのではなく、なお二人を大切にし、守り、その関係を断ち切りません。

 

  • アダムとエバは、神の命令を破って、その責任を問われた時に、素直に謝れずに、他に責任を転嫁して自分の正当性を主張しました。二人は犯した過ちを認めて、謝罪して、罪赦された者として神の前に生きようとしたのでも、またお互い同士の関係をやり直そうとしたわけでもありません。罪を抱えたまままエデンの園から追放され、放浪者としてこの地上での歩みを始めたのです。

 

  • 今日の創世記4章では、そのようなアダムとエバに兄カインと弟アベルという二人の男の子が与えられ、その二人の兄弟の物語になっています。4章1節には、≪さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った≫と記されています。

 

  • この4章1節についてボンフェッファーはこのように語っています。<この節は必然的にこれまでの部分(3章のアダムとエバの物語)に属する。死に堕落したアダムとエバは、彼らの新しい交わりを、新しい仕方で始めた。彼らは、新しい生命の誇らしげな創造者となったのである。ところがこの新しい生命は、人間と人間との情欲の交わりによって、すなわち死の交わりによって創造された者であった>と。この死は、お互いに責任転嫁をしたままの関係としての死ですね。

 

  • 私たち人間が生きる世界としてのこの地球(宇宙)という神の被造物であるこの自然を、神に代わって治める(仕える)こと、神の被造物としてのお互いを、助け手として愛し合って共に生きることによって、人間の創造者である神の愛を神の被造物(者)である私たち人間が表現すること。それが、聖書の人間創造における神の目的です。エデンの園に住まわせられたアダムとエバは、善悪を知る木からだけはその果実を食べてはならないという神の命令を破って、自分が神のようにすべての中心になることを選び取ってしまいます。その結果、二人は、本来愛し合うべきお互い同士で責任転嫁し、憎しみと敵対関係に陥ってしまいます。それが関係としての死です。

 

  • アダムとエバから生まれたカインとアベルは、どうなったのでしょうか。≪アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた。主はアベルの献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた≫(4:2-5)と言われています。「土の実り」である農作物と「羊の肥えた初子」という牧畜による生産物の違いはありますが、カインもアベルも神への献げ物をします。その点では二人の行為には何の違いもありません。それなのに、神はアベルの献げ物に目を留められ、カインの献げ物には目を留められなかったというのです。なぜ神はそうしたのかという説明はこの物語の中には全くありません。神がアベルの献げ物に目を留められ、カインの献げ物には目を留められなかった背景には、農耕民族と牧羊民族の葛藤があって、イスラエルの出自は牧羊民族だからだという見方もあります。そういう背景があるとしても、自分の献げ物には全く目を留められずに、弟のアベルの献げ物には目を留められたという神のなさったことに、不条理を感じ納得できなかったカインの怒りは、私たちにもよくわかるのではないでしょうか。

 

  • 怒りは本来怒りを感じた相手にぶつけるのが筋です。カインは神に怒りを感じたわけですから、その怒りを神にぶつけるのが筋でした。それを筋違いの弟にカインは怒りをぶつけたのです。≪主はカインに言われた。「どうして怒るのか。そうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」≫(4:6,7)。

 

  • カインはその怒りを神にではなく弟のアベルにぶつけます。≪カインが弟アベルに言葉をかけ、二人は野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した≫(4:8)というのです。これは明らかにその献げ物が神の目に留められたアベルに対するカインの妬みから来る殺人です。アダムとエバの場合は、神の命令を破って神に責められた時に、ごめんなさいと言えずに、責任転嫁に走り、神との関係にしろ、お互い同士の関係にしろ、その関係の死をもたらしたことにあります。その<「関係の死」の問題が、ついにエスカレートして兄弟殺しになで至ってしまったのです>。そのように兄弟殺しをしたカインに、それでも神は声をかけます。≪主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」≫(4:9前半)と。

 

  • <神は、深刻な殺人の罪を犯したカインに対して、なおも関係の回復という救済を行おうとしています。何よりも、カインに向かって「あなたの弟アベルは何処にいるのか」と呼びかけるのです。もちろん神はすべてを知っています。しかし、なおカインに向き合い、この問いかけをしているわけです。これは、カインが自らの過ちを認め、率直に神に前に裸になって、神にまっすぐ向き合うことを期待した、ということでしょう。「関係の死」を経験した者を救済しようとする神の意志が現れています。神とは、そのような存在であるという、著者の神理解が表現されているのです>(高柳富夫『いま、聖書をよむ』より)。

 

  • ≪カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」≫(4:9後半)と。
  • <カインは率直に神に向き合うことはしません。間違いを告白してゆるしを請うこ     とをしないのです。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。これがカインの答えでした。神は、カインが神という的にきちんと焦点を合わせてくることを期待したのですが、カインはそのような神の期待に応える道を歩まなかったのです。神はカインを追放するという裁きを実行します。しかし、それでもなお神は、カインとの関係を断絶することはしないのです。アダムとエバの場合と共通することですが、カインに一つのしるしをつけたと言われています>(同上)。

 

  • ≪わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。/主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。/カインは主の前を去って、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ≫(4:13-16)。

 

  • <カインは、さすがに良心の呵責に耐えかねて、自分は地をさすらう者となるけれども、自分に出会うものは必ず自分を殺すだろうと、不安と恐れに襲われます。これは心理学的に言っても大きな問題です。人間というものは、自分自身が他者を傷つける存在であるため、他者もまた自分を傷つけるに違いないと他者を恐れて、自己防御に走るのです。軍備拡大競争の根柢には、この人間の根源的な恐れがあるのだと思います。自分が相手に対して信頼をおくことはないので、相手も自分に対して信頼を持つことはないに違いない、と恐れるのです>(同上)。

 

  • さて、ボンフェッファーは、カインによって始まる死の歴史の終わりについて、このように語っています。<カインによって始まる死の歴史は、そしてそもそも歴史そのものは、十字架上のキリスト、殺された神の子によって終わりを迎える。キリストを十字架にかけることは、楽園の門に対する最後の必死な襲撃の試みであった。そして、人類は、楽園の「まわる炎のつるぎ」に打ちたたかれて、十字架のもとで死滅することになった。しかし、キリストは生きるのである。そして十字架の柱が「生命の木」となり、世界の中央に、すなわち十字架の木の置かれた場所に、「生命の泉」がわき上がるのである。いのちに渇く者はすべてこの泉のもとに招かれ、この生命の木の実を食べた者は二度と飢え渇くことがなくなるのである。ゴルゴダの丘、この十字架、この血、この裂かれた肉は、何と驚くべき「楽園」であることか。神自身が、苦しみ死ななければならなかったこの柱は、何と驚くべき「生命の木」であることか。これこそ神によって恵みのうちに再び与えられた生命の国、復活の国である>。

 

  • 今私たちが生きているこの世界は、カインの末裔が生きる堕落しているにもかかわらず、なお神によって保持されている世界です。しかし、私たちが生きているこの世界はただ神によって保持されているだけではありません。神はイエスをこの世に遣わし、この世界に生きる私たちに、新しい命に至る道を切り拓いて下さっているのです。この私たちが生きる世界には、イエス・キリストによってその世界の中央には「生命の木」である十字架の柱が立っていて、その場所から生命の泉がわき上がっているのです。その生命の泉から命の水を飲む者は飢え渇くことがありません。私たちはそのことを信じることによって、新しい人として、神と向かい合って生き、他者である隣人とも、殺し合いではなく、愛し合って生きることができるのです。カインとアベルの物語からそのことを思い起こしたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、また教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日はカインとアベルの兄弟殺しの物語から、私たち人間の罪の現実の行きつく果てが殺し合いであることを、改めて知らされました。この世界の現実を思うと、私たちはその殺し合いから未だ解放されていないことを知らされます。けれども、あなたは私たちに殺し合いではなく、あなたとの関係においても、他者である隣人との関係においても、信頼し合い、生かし合うことのできる、イエスの十字架という生命の木をこの世界の中央に立ててくださっていることを覚え、感謝します。どうか私たち一人一人をその生命の木から生きる者としてください。私たちだけではなく、すべての人がこの生命の木から生きることができますように。
  • 神さま、今私たちの殺し合いに帰結する罪の故に苦しんでいる人々を助けてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     298(ああ主は誰がため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-298.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。