5月24日(日)聖霊降臨節礼拝
注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
③ 18(「心を高くあげよ!」)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-018.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編112編1-9節(讃美歌交読文125頁)
⑥ 聖 書 使徒言行録2章1-21節(新約214頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-346.htm
今日はペンテコステの礼拝です。使徒言行録2章1節から13節に記されています最初のペンテコステの出来事を、まず想い起こしてみたいと思います。
使徒言行録2章は五旬節(新共同訳聖書では「五旬祭」)に起こった出来事を記しています。五旬節とは、過越の祭の直後の日曜日(この日イエスは甦られた)から数えて50日目の日曜日のことです。
五旬節は七週の祭りとも呼ばれていました(出エジプト34:22)。元来は小麦の収穫を祝う祝日であったらしく、「刈入れの祭」とも呼ばれていました(出エジプト23:16)。
そしてこの祭りはあまり重要な祝日ではなかったようですが、この日がシナイ山における律法授与の祝日と見なされるようになって以来、ユダヤの人々の間では重要な祝日になりました。モーセが神から十戒を与えられたその記念日に、新しい神の恵みがイエスを信じる人々の上に臨んだという含みが、この記事の言わんとするところです。
この日に「一同が一つとなって集まって」いたと言われています。原文では「一緒に」という言葉と、「同じ所に」という二つの副詞が、たたみかけるように重ねて出てきます。ひと所に一緒に集まっているということが、強調されているのです。
「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2節)と言われています。これは神の霊が身体(からだ)ではっきりと感じ取れる激しい現象を伴って、イエスを信じる人々の上に臨んだというのす。また、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)とも記されています。
使徒言行録の著者ルカは、現実に天から到来した聖霊の臨在が、いかなる新しい事態を人々の中に生み出したかということを、以下で語ろうとしているのであります。
ところで聖霊に満たされた人々は「ほかの国の言葉で話しだした」とされていますが、これは直訳しますと「異なる言葉で話しだした」です。「異なる言葉で」は新共同訳聖書のように「ほかの国々の言葉で」とも解することができますが、「異言で話しだした」とも読むことができます。
新共同訳では、5節から11節の記事は、使徒たちは多くの外国語で語り始めたとしていますが、それに続く13節と15節(「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲り)は、思いもかけぬ異言に接した人々の、驚きと嘲笑を語る趣旨と考えられます。
「異言」とは、第一コリ13章、14章によれば、人間の語る普通の言葉ではなく、「御使たちの言葉」(第一コリ13:1)、「神に向かって語る言葉」(第一コリ14:2)と説明されていることからも推察されるように、霊的恍惚状態に陥った人の口にする言葉です。普通の人が聞いてもその内容を理解することはできません。しかし霊的能力を与えられている人は、これを解くことができたようです(第一コリ14:13,27)。
使徒言行録の2章の記事は、ここでイエスを信じる者たちが語り始めたのは外国語だったのか、それとも本来は異言であったが、それを外国語のように聞こえたというのか、はっきりしません。ただこの記事でルカが示そうとしている事態の意味は、はっきりと理解することが出来ます。
復活者イエスは弟子たちに向かって、「聖霊があなたがたに降るとき、あなたがたは力を受けるであろう」と言われましたが(1:8)、その力とは、病を癒し、悪霊を追い出すといったような、奇跡をなしとげる力であるよりも、むしろ言葉における能力に焦点をあてて、記述がすすめられています。
イエスを失ったあと、次の一歩をどう踏み出すべきか、いわば途方にくれていた弟子たちの群れに、上から霊的能力が賦与されたとき、彼ら・彼女らは新しい言葉を与えられて、言語と民族の境を越え、全地の民に向かって喜びの音ずれを宣べ伝えるために、派遣されてゆくのです。
これが「イエスの証人となる」(1:8)ということの具体的内容であります。そして2章の記事は、あのイエスの約束が実現への一歩を踏み出した、という次第を語るものであることは、疑問の余地がありません。
9節から11節に挙げられている地に住むディアスポラのユダヤ人たちは、さげすまれ、虐げられ、歴史の中に消えていこうとしている人々だということが出来ます。聖霊降臨によって、使徒たちが最初に語りかけた相手がこういう人々であったということの中に、福音の本質が如実に現れていることを、ルカは示そうとしているのでしょう。
1章6節で、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と弟子たちが尋ねたとき、彼らは恐らく、エルサレムを中心とするイスラエルの復興を、待ち望んでいたと思われます。ところがここでは、むしろ死の陰に座する民のもとへ行け、という指示を受けたのです。
しかしながら、使徒たちの語りかけは、その相手から、真心こもる愛の呼びかけとして、正しく受けとめられたわけではありませんでした。むしろすべての人々が「驚き、とまどい、」「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言ったというのです。
そればかりではなく、13節には「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者もいたと言うのです。霊に満たされている姿を、酒による泥酔と見誤ったのです。これに対する弁明として、外部の人々に対するペトロの最初の演説が、14節以下に続くのです。
さて、このルカが記す聖霊降臨によって誕生した最初の教会の物語から、イエスにおいて起こった「神の偉大な業」が語られると、人々はみな驚き、とまどい、中には嘲る者もいたということに注目したいと思います。
2章14節から42節までは、新共同訳の表題では「ペトロの説教」となっています。14節では、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」と記されています。
イエスの死後、人目を避けて身をひそめていた彼らが、今や自らみんなの前に公然と立って、「声を張り上げ、話し始めた」というのです。その変貌は見事という他はありません。彼らはイエスの十字架に躓いて、裏切り、否認、逃亡という形で、イエスを見捨ててしまった者たちでした。
このペトロの説教では、その見捨てたイエスを「主、メシア(救い主)」として宣べ伝えているのです。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)と。
このペトロの説教は、ルカによるものだと思われますが、何らかの形でペトロも人々の前で説教に類することは話したと思われますから、このような説教はどのようなペトロの内的確信から、ペトロ自身の中で生まれたものなのでしょうか。
説教そのものは、ペトロだけのものではなく、最初期の教会の人々に共有されたものだったと思われます。ペトロは、その最初期の教会の説教をただオーム返しに語ったのではないと思います。彼自身の中に、この説教に自分の人生を賭けて、イエスの復活の証人として生きて行く決断があったと思われるからです。
使徒言行録によれば、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1:3)と記されています。このことによってペトロの内的確信が生まれ、イエスの復活の証人として生きて行く決断が出来たということでしょうか。そうなのかも知れません。
そうだとしても、ペトロにとってイエスの十字架の躓きがどのような形で乗り越えられたのでしょうか。少しその点を踏みこんで考えてみたいと思います。
パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と、コリンとの信徒への手紙一に書いています(第一コリント1:18)。この言葉によって、ペトロがイエスの十字架の躓きをどのように乗り越えることが出来たかのかを知ることができると思います。
パウロの言う「十字架の言葉」は「イエスの十字架」を意味しますから、このパウロの言葉ではイエスの十字架は神の力だということになります。おそらくペトロも、イエスの復活の顕現に出会って、イエスの十字架は神の力だという確信に導かれて行ったのではないでしょうか。
イエスの十字架はイエスの生前の活動の帰結です。イエスは生前弟子たちや彼に従ってくる人々と共に、神の国の福音を宣べ伝え、ユダヤの社会の中で周縁に追いやられ、虐げられた者の友として歩まれました。
神の国では、人は皆神の恵みによって生かされて生きている者であり、その人生を喜びと感謝をもって生きていくべき存在です。それにも拘わらず、この世では人を生かすのではなく、むしろ人を殺す神に反する悪しき力が働いていて、それによって苦しむ人びとが多く存在します。
イエスはそのようなこの世に神の国が既に到来していることを信じ、神に反する悪しき力と闘い、悪しき力に支配されている人々を神の国の住人として招かれました。その結果十字架死を享受しなければならなかったのです。神はそのイエスを甦らせて、十字架に極まるイエスの生前の歩みこそが神の国に至る命の道であることを示されました。
ペトロの内的確信とは、十字架に極まるイエスの生前の歩みこそ、神の国に至る命の道であるという信仰だったのではないでしょうか。そしてそのような生前の生きざま・死にざまによって命に至る道を示してくださったイエスが、今復活されて、今も生きていて自分たちに先だって歩んでいたもう。だからその後に従って自分たちも歩んでいくのだというのが、ペテロの内的確信だったのではないかと、私は想像いたします。
人々の前で大胆に語るペトロには、そのような内的確信に満ち溢れていたのではないでしょうか。そしてペトロがそのように導かれたのは、復活の主との出会いと共にペトロに聖霊が注がれたことによるからなのでしょう。
このようなペトロの変貌は、自分自身の中から生まれのではありません。復活の主イエスとの出会いと聖霊の注ぎという、ペトロにとっては外からの働きかけによってです。それがイエスの生涯と聖霊降臨という神からの働きかけと言えるでしょう。
この神からの働きかけは、ペトロだけではなく、他の十一弟子にも、最初に誕生した教会に集まった人々にも、そして今の私たちすべてにも、与えられているのではないでしょうか。信仰をもってこの見えない神の働きかけに身をさらす者は、イエスの復活の証人として神の国に至る命の道をその人なりに歩む人に変えられていくのではないでしょうか。その意味で、ペトロと十一弟子の変貌は特別のことではないと思います。
神との関係においては今も聖霊の時代です。聖霊の時代は教会の時代でもあります。神は今も私たちに聖霊を送り、十字架に極まるイエスの生前の歩みこそ、神の国に至る命の道であるという信仰を持って今の現実を生きていくように、私たち一人一人に促しているのではないでしょうか。
主が私たち一人一人をそのように導いて下さいますように!
祈ります。
神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
神さま、今日はペンテコステの礼拝です。イエスの十字架に躓いた弟子達は、その躓きを聖霊による神の働きかけによって克服し、改めてイエスの弟子として歩み始めました。
イエスが復活し、弟子たちに聖霊が降ることによって、その時弟子たちは本当の意味で十字架に極まるイエスの生涯の意味を知ることが出来ました。十字架に極まるイエスの生涯にこそ、あなたの御心がこの地上に実現している神の国の現れが示されていることを、です。そしてイエスの福音を地の果てまで宣べ伝えていくようになりました。
神さま、ペンテコステは教会の誕生でもあります。教会に連なる私たちにも聖霊によってイエスの主と信じ、イエスの福音を宣べ伝え、他者と共にイエスの福音を生きる者にして下さい。
私たち人間自身の思いが優っていますこの世の現実の中で、抑圧され、差別され苦しんでいる人々を、どうか助けてください。
他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-475.htm
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-081.htm
- 聖 餐 式
- 讃 美 歌 81(主の食卓を囲み、3節)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-081.htm
⑫ 頌 栄 28(み栄あれや)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。