なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「世を愛する神の愛」 ヨハネによる福音書3章16-21節

 本日は東京足立区にある足立梅田教会の70周年記念礼拝の説教を頼まれてしてきました。私は足立梅田教会の牧師として神学校を出てすぐの1969年4月から1974年3月までの5年間働かせていただきました。それからちょうど50年が経っているのですが、今回足立梅田教会70周年記念礼拝説教に私が呼ばれたという次第です。

 それで本日足立梅田教会に伺ったわけですが、今日の70周年記念礼拝には私が牧師だった足立梅田教会時代に教会に来ていた当時20代後半から40歳くらいだった信徒の方は数名でしたが、当時10代後半から20代前半の青年だった人が十数名、それに当時子どもだった人も数名出席してくれていました。50年タイムスリップしたような感覚で、礼拝後は楽しいひと時を持つことができました。

 下記の説教は本日の足立梅田教会70周年記念礼拝での説教です。船越教会でしているヨハネによる福音書による説教の当該箇所のものと重なるところがありますが、ご了解ください。

 

「世を愛する神の愛」 ヨハネによる福音書3章16-21節

          2024年9月8日(日)足立梅田教会創立70周年記念礼拝

 

  • 今日は足立梅田教会の創立70周年の記念礼拝の説教を頼まれまして、私はここに立っています。私は現在82歳なので、足立梅田教会で私が説教するのは、おそらくこれが最後ではないかと思います。そこで、今日は私が、これが聖書の使信(メッセージ)の神髄ではないかと思わされていることを、この説教でみなさんにお話しさせてもらいたいと思います。
  • 先程司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書の3章16節は、神の愛を語っている新約聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。このヨハネ福音書3章16節は、古くから「小福音」と呼ばれてきました。この3章16節一節の言葉の中に、イエスさまがもたらされた喜ばしき音ずれである「福音」が見事に言い表されているという意味で、この言葉を「小福音」と呼んで来たのです。
  • ここに語られています「世を愛する神の愛」は、ヨハネ福音書ヨハネの手紙全体を貫いている根本的なテーマの一つですが、そのことがこの個所ほど明確に出ているところはほかにはありません。
  • このヨハネによる福音書3章16節は、その前に記されていますイエスとニコデモとの対話(3:1-15)を受けて、記されています。イエスとニコデモとの対話で中心になる言葉は、3節のイエスの言葉です。<イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」>という言葉です。その後、ニコデモはイエスに、<「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」>(4節)と頓珍漢な質問をします。すると、ニコデモにイエスは答えて、このようにおっしゃいます。<「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれた者は霊である。『あなたがたは新しく生まれなければならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」>(5-8節)。
  • このニコデモとイエスの対話を受けて、ヨハネによる福音書の記者は16節で、田川訳で読みますと、「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、永遠の生命を持つためである。」と語られているのであります。
  • 16節に続く17節では「世」(コスモス)という言葉が3回も出てきます。これも田川訳で読みますが、「というのも、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼によって救われるためである」。ここに「世」が彼(イエス)によって救われるためである」と言われています。
  • ヨハネ福音書の「世」は、神に反するものを意味する場合と、単に「現実に存在しているこの世界」というだけの意味に用いることも多いと言われています。そしてこの3章16節、17節の「世」は、「現実に存在しているこの世界」を意味していると言えます。「現実に存在しているこの世界」、現在の世界の現実を皆さんはどう思っているでしょうか。
  • 今年の7月、8月は日本では大変暑い日が続きました。7月、8月の気温としては今年が最高を記録したと言われます。気候温暖化による気候危機が叫ばれるようになって大分経ちますが、CO2削減も進まず、このままですと海の水位が上がって、水没する国や都市が出るに違いありません。神が人類に、それを守るべく与えて下さった地球環境を、人類は守るどころか、自らの欲求の充足を求めるあまり、破壊してしまっています。また世界の国々は、20世紀に二つの世界大戦を経験しながら、21世紀になっても戦争はなくならず、この数年はロシアによるウクライナへの軍事侵攻とイスラエルによるガザへの軍事攻撃をはじめ、世界の各地で軍事衝突が起きています。日本の国も、かつてアジアへの侵略戦争と太平洋戦争によって、アジアの国々をはじめ諸外国の約2000万人の人々の命を奪い、その戦争と戦災によって約300万人の日本人の命を失った戦争犯罪を犯しました。戦後その反省に立って、日本の国は二度と再び戦争はしないとの決意を日本国憲法第9条に込めたはずにも拘わらず、台湾有事を理由に、現在の日本政府はアメリカと一体となって日米軍事同盟を強化し、防衛費予算を倍増して軍備増強を進めています。また、新自由主義的な資本主義が覇権主義的な力を発揮し、国家を越えて資本が世界を支配しています。そのためにグローバルサウスの人々は、今も貧困によって苦しんでいます。グローバルサウスの人々だけでなく先進国と言われる国々でも経済格差が広がり、生活困窮者が増えています。様々な差別もあり、一人一人の人間の尊厳が踏みにじられています。
  • これが現在の世界の現実の一面です。そして私たちはこの現実の世界をその一員として日々生きているわけです。しかもこの世界の現実は命に溢れているというよりは、滅びと死に向かって動いているように思われます。ヨハネによる福音書が記す「世」も、現代の世界の現実と変わらないと思われます。「神の愛」はそのような「世」を、その独り子を与えるほどに神は愛されたと言うのです。そして、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われているのです。これが、ヨハネによる福音書が語っている「世を愛する神の愛」です。
  • 愛とは、愛する対象のために最も価値あるものを惜しまずに与える行為です。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3:16)と第一ヨハネの手紙の著者が書いている通りです。愛についての解説やことばの説明ではなく、イエスの生涯そのものが、愛を定義しているのです。なくてもよいものをあたえるのは愛ではありません。残り物や余分なものを捨てるのは、慈善であっても本当の愛からは遠いことです。自分にとって最も価値あるもの、捨て難いものを、相手のためにあえて捨てるところに愛があります。愛とは文字通り身を切ることです。奇跡とは、病人をいやしたり、人間の願望を何でもなかえて上げたりすることではなく、身を切るほどまでに、相手のために自分をさし出すことであり、そのような愛がイエスにおいて示されたということが、もっとも大きな奇跡なのだ、とヨハネは私たちにむかって語り、証ししているのではないでしょうか。
  • では、「神は御子イエスを世に遣わされることによって、御子イエスによって世が救われる」と言われていますが、それはどのようにしてなのでしょうか。
  • 神から遣わされた御子イエスは、「すべての人を照らすまことの光」(1:9)と、ヨハネ福音書の記者は語っています。この光は、人間の過去と現在のすべてを明るみに出すのです。このような光がこの世に来たということは、私たちにとっては、今や出会いと決断の時である、とうことを意味しています。この光である御子イエスを信じないということは、神の恵みの光に対して、心を閉ざして拒否することです。ヨハネにとっては、裁きは信じないことの結果もたらされることではなく、信じないということがすでに裁きなのです(18節)。裁きは将来にあるのではなく、神の御子、すべての人を照らすまことの光に対して心を閉ざして受け入れないという現在の姿そのものの中にあるのです。この光である御子イエスを信じることの中にすでに救いがあるのであり、したがって「信じる者はさばかれない」(18節)と言われているのです。
  • 光にうつし出された人間の姿は、すべて例外なく闇の中にあります。そこには、救われる者と滅びる者との二分法はありません。すべての人間は、闇を愛し、滅びに向かって走っています。そして光が強ければ強いほど、闇も深くなって行きます。「信じる」とは、闇そのものでしかない自分の姿をうつし出されて、光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することであり、この決断の中に救いがあるのだと、ヨハネはここで言っているのです。
  • 先程イエスとニコデモの対話の記事の中で、「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われていました。信じるということは、霊によって新しく生まれることなのです。洗礼(バプテスマ)がそのことを象徴的に意味しています。光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することなのです。
  • 20節、21節で、<悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために>言われています。「真理を行なっている者は光に来る」(21節)のです。
  • 「すべての人を照らすまことの光」(1:9)である御子イエスを父なる神がこの世に派遣して下さったことによって、その御子イエスから新しい人類の歴史が始まるのです。その御子イエスによる新しい人類の歴史とは、愛である神の御心が支配する神の国の歴史です。
  • ものすごい悪が存在していると同時に、まことの光に向かって自分自身を転換し、キリストにあって生きている互いに愛し合う人たちが多く存在しているということもまた事実なのです。闇が深くなればなるほど、光の明るさはよりいっそうの輝きを増すのです。
  • 闇が深まるほどに、まことの光としてのイエスの到来は、その喜ばしさを増すのです。救いと滅び、光と闇とを、固定的、平面的に二分するのではなく、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)とパウロが言っているように、です。
  • この世を愛する神の愛は、御子イエスを光としてこの世に遣わしてくださり、聖霊の息吹を受けて、その光である御子イエスを信じ、闇の中に生きていた己を方向転換して、光に向かって歩むイエスの兄弟姉妹団である教会をこの世に誕生させてくださったのです。そのことによって神はこの世を救おうとしておられるのです。
  • ヨハネによる福音書の13章の34節、35節で、イエスは弟子たちにこのように語っています。<わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう>と。
  • 教会はイエスを主と信じる者達の群れです。イエスの兄弟姉妹団です。御子イエスによってこの世を救おうとしておられる神の愛を証言する群れです。光である御子イエスを信じて、方向転換して、悔改め(メタノイア)て、互いに愛し合うことによって生きる群れです。「世を愛する神の愛」の確かさを信じて、神の御心が支配する神の国の民として喜びと希望を持ってこの世に対峙して生きる者たちの群れです。
  • 本田哲郎さんは、御自身の聖書翻訳で、信仰を「信じて歩みを起こす」に、「愛」は「大切」、「愛する」は「大切にする」と訳しています。「互いに愛し合う」は「互いに大切にし合う」です。人間の尊厳を互いに大切にし合うということです。「イエスを信じる」ということは、イエスが人間の尊厳を大切にされたように、私たちも互いの尊厳を大切にし合って、イエスを信じて歩みを起こすということなのです。聖書の教えやキリスト教の教義を学ぶことも、礼拝に出席することも大切ですが、それらはイエスを信じて歩みを起こすために必要なものであって、それが自己目的化されるのはおかしいと思います。
  • 今日は足立梅田教会のみなさんと、そのことを確認したいと思いました。

 

お祈りいたします。

  • 神さま、今日は足立梅田教会の皆さんと礼拝を共にすることが出来感謝いたします。
  • 神さま、70年の歴史をこの地にあって刻んできているこの足立梅田教会が、イエスを主と信じる群れとして、この地にあってイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことができますようにお導き下さい。
  • 新しく牧師として赴任されたS先生と教会の皆さんの上にあなたの祝福が豊かにありますように!
  • この一言の祈りを、イエスさまのお名前を通してお捧げします。  アーメン。

船越通信(631)

船越通信、№631  2024年9月1日(日)  北村慈郎

  • 8月25日(日)は礼拝後、コロナに感染し、回復されたお二人が出席されましたので、しばらく懇談してから散会しました。私も午後1時すぎのバスで追浜に出て、鶴巻に帰りました。
  • この週も29日(木)に国会前の座り込みに出かける予定でしたが、この日は午前中から鶴巻は雨が降っていましたので、都心も雨ではないかと思い、座り込みには行きませんでした。ですから、この週は何処にも出かけずに一週間鶴巻での生活でした。
  • 週の前半では、10月末に開催する教団総会に向けて、支援会として準備することがいくつかあり、その作業をしました。一つは、6月末に開催した神奈川教区総会で可決された私の免職問題の議案、免職撤回ではなく、審議のやり直しを求める議案について教区総会で出た諸意見をまとめて、その議案と共に支援会通信第34号に掲載することになっていましたので、その作業をしました。その他に通信第34号には4人の方からの原稿を掲載することになっていますが、それも集まっていますので、後は「事務局報告」をまとめれば、名古屋のSさんに送って編集をしてもらい、プリントパックに印刷をしてもらうようにするだけです。ただ今回は通信第34号と共に、9月1日(日)の紅葉坂教会役員会で了解を得た上で、『日本キリスト教団紅葉坂教会130年史(2013年4月~2023年3月の記録)』にあります「『北村慈郎牧師免職問題』~問題を風化させないために~」を支援会として冊子にさせてもらい、その冊子も支援者だけでなく、教団の全教会・伝道所に発送することになっています。私の免職問題は、私の免職から14年も経っていますので、みなさんに理解してもらうためにはこの冊子がわかり易いのではと、支援会世話人・事務局会で判断したわけです。9月1日(日)の週に通信第34号と冊子の原稿をSさんに送り、編集の上印刷に回してもらうようにしたいと思っています。また、10月末の教団総会前にキリスト新聞に意見広告を出すことにしていますので、キリスト新聞と打ち合わせをして10月11日付け発行のキリスト新聞に意見広告を出すことにしました。私の免償問題は10月末の教団総会が大きな山になるのではないかと思いますので、出来る限りの準備をして教団総会に臨みたいと思っています。
  • さて、この週は特にこの船越通信で他に書くこともありませんので、関田先生が帰天されてから、大網の先生のお宅に先生の蔵書のことで伺ったときに、1冊だけ記念としていただいた本のことを書きます。それは福島揚著『カール・バルト破局の中の希望』です。この本には関田先生がボールペンで線を引いていない箇所のない頁がないくらい、毎頁に線を引いている個所があります。そして時々、その線を引いてある箇所の上に✓や〇や◎のしるしがついています。その箇所が重要であるというしるしではないかと思います。私はこの本をいただいて、もう大分前に読了していますが、最近ももう一度読み返してみたいと思っています。それは、今年は毎朝バルトの『一日一章』を読んでいて、バルトの緻密な論旨による福音理解の深さに日々感動させられていて、改めてバルトのすごさを思わされていますので、もう一度福島さんの本を読み返してみようと思うようになったからです。そこで、その福島さんのこの本の「はじめに」を抜き書き紹介させてもらいたと思います。
  • 「『死から生へ』(Ⅰヨハネ3:14)という言葉によって表される運動、バルトの思想全体を本書はそう捉える。それは、死と罪悪と災禍によって限界づけられた生命が、その彼岸から開示される『永遠の生命』という、人為が実現不可能な極点へと方向づけられ導かれる終わることのない運動である。「『死から生へ』という運動は、新約聖書における十字架の死から復活の生命へと転じたイエス・キリストにおいて表象される。それは同時に、罪と罪悪と災禍に支配された現実が、生命と公正と平和に満ちた未来へと向かう運動の、原像であり源泉だということである」。
  • 「震災と原発事故をきっかけとして、多くの価値や権力が、自明性と信頼を失った。本書は期せずして、そのような震災と原発事故の時代にバルトを読み直す営みとなった。それは同じく危機の時代を生きた全盛期のバルトへの問いかけともなった。さらにそれは、危機の時代を約二千年前に生きたイエスへの問いかけにほかならなかった。/筆者はバルトに問いかけると同時に、バルト自身の探求対象であるイエスに次のように問いかけ続けた。「あなたがたであれば、この未曾有の危機の時代にどう対峙するのか」と。「あなた方の体現する死と生は、現代を脅かす虚無の力、人災と天災の破壊力にどう対峙するのか」と。この疑問に答えられない限り、バルトであれイエスであれ、発せられる一切の言論や思想に意味を見出すことができなくなった」。
  • 「しかし危機への対処法を求める問いかけは逆転して、問う主体自身に還ってくる。バルト自身が1920年に、次のように述べている。『聖書は世界事象の解釈のために、認識において私たちに何を提供し得るのか、と私たちは問う。しかしこの問いは直ちに転回し、私たち自身へと差し向けられる。すなわちこの問いかけは、私たちはいったい聖書において提供されている認識を自分のものにすることが可能なのかどうか、またどの程度可能なのか、と問いかける』。
  • 「時代への処方箋を求めて聖書を援用しようと企む者が、ある瞬間、逆に聖書から告発され、問いを突きつけられる者となる。このような主客逆転、あるいは主体の一種の『死と再生』こそがバルトの思想的真髄であり、同時に福音主義キリスト教の真髄でもある。この『福音』とよばれるものをいかに捉えるかという一点を外して、いかなるバルト理解もキリスト教理解もあり得ない。そして、ドイツ国社会主義が台頭する危機の中で『あたかも何ごとも起きなかったかのように』福音への聴従としての神学に没頭したバルトは、同時にその没頭そのものを通して、政治社会の激変に対して、最高度に鋭敏に応答し、闘争する人物であった。しかもその闘争は、憤怒や欠乏を原動力とする闘争ではなく、喜びと希望を原動力とする闘争であった」。

ヨハネによる福音書による説教(73)「聖霊の導き」ヨハネ16:12-15

9月1(日)聖霊降臨節第16主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌  152(みめぐみふかき主に)

https://www.youtube.com/watch?v=vRux1C6f7kA

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編65編4-14節(讃美歌交読文68頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書16章12-15節(新約200頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     561(平和を求めて)

https://www.youtube.com/watch?v=qv_YsBjoTi4

⑨ 説  教    「聖霊の導き」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

台風10号の影響で私が住んでいます鶴巻温泉では、30日の金曜日に豪雨があり、私が住んでいますマンションの前の道路も一時冠水しました。金曜日の夜に、小田急東海大学前と秦野間の線路の盛土が流出したために、秦野と伊勢原間は運転見合わせにしているという情報が入りました。金曜日夜寝る時に、31日土曜日も小田急が秦野と伊勢原間の運転を見合わせたら、伊勢原まで鶴巻温泉からバスで行かなければなりません。

 

台風10号の影響で私が住んでいます鶴巻温泉では、30日の金曜日に豪雨があり、私が住んでいますマンションの前の道路も一時冠水しました。金曜日の夜に、小田急東海大学前と秦野間の線路の盛土が流出したために、秦野と伊勢原間は運転見合わせにしているという情報が入りました。金曜日夜寝る時に、31日土曜日も小田急が秦野と伊勢原間の運転を見合わせたら、伊勢原まで鶴巻温泉からバスで行かなければなりません。

 

31日の土曜日朝起きて、とにかく今日中に船越教会に行かなければと思い、午後に出かけた方がよいか、午前中早めに出かけた方がよいか迷いました。部屋の片づけをして、顔を洗い、シャワーをして一段落した時に、まだ午前8時過ぎでしたが、持ち物を確認してとにかく出かけていくことにしました。鶴巻温泉駅に行って、駅員に状況を確かめましたら、秦野・伊勢原間は終日運転見合わせで、伊勢原・相武台間は運転再開のための線路の安全確認をしているということでした。

 

そこで鶴巻温泉から伊勢原駅北口行バスに乗り、伊勢原駅に9時20分頃に着きました。駅員から9時30分の運転再開を予定していると聞きましたので、9時30分まで待ちましたが、まだ大分遅れそうでしたので、伊勢原からバスで平塚駅に出て、JRで大船経由田浦駅に行き、バスに乗って、船越教会には12時15分ごろ着きました。

 

今日は説教の初めになぜこんな話をしたのかと言いますと、電車が不通になって、どうしたら船越教会に行くことができるのかということで、私は不安になったわけですね。些細なことかも知れませんが、これからのことがはっきり分からないとなると、私たちは不安になるのではないでしょうか。

 

エスが去って行って、後に残された弟子たちは、イエスがいなくなった後どうしたらよいのか不安になったに違いありません。実際イエスが十字架刑に処せられて、葬られ、弟子たちだけになってしまった時、弟子たちは不安と恐れの中にいたことが、共観福音書にもヨハネ福音書にも記されています。ヨハネによる福音書20章19節以下の復活したイエスが弟子たちに顕われた記事には、<その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた>(20:19)と記されています。

 

ヨハネによる福音書の告別説教ではイエスは自分が去った後、そのように弟子たちが不安と恐れに支配されることを予知して、別離を弟子たちに告げた時に、同時に弁護者(=真理の霊=聖霊)の派遣を約束しているのであります。今日のヨハネ福音書16章12-15節だけでなく、その前にも告別説教の中で弁護者(=真理の霊=聖霊)の派遣についてのイエスの言葉があります(14:16-17,25,15:26)。

 

そして今日の箇所の直前にも、16章7-8節に<しかし、実をいうと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りをあきらかにする>と記されています。

 

そういう文脈で今日の箇所が続いています。今日の聖書箇所ヨハネ福音書16章12-15節では、聖霊の働きについて記されています。弁護者、真理の霊などと言われている聖霊の働きは、つまりイエスとの「別れ」以後の弟子たちを導くイエスの働きの継続として大きな力と意味を持っているのであります。またそれは必ず与えられるのだという約束が、ここでもう一度あらためて確かなこととして語られているのであります。

 

<言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる>(12節-13節前半)とイエスは弟子たちに言われます。たしかに、イエスとの地上における別れの時が迫って来た今、弟子たちにはまだいろいろ分からないことがあるのです。イエスの言葉と業は、まだ多くの謎に包まれています。それに将来への不安が結びつきます。しかし、イエスはここで約束されるのです。真理の霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理を認識することができるようにし、今分からないことも、その時には分かるようになるだろうと言うのです。

 

それを分からせるものこそ、弁護者、真理の霊である聖霊の働きであると言っています。それは、今はまだおぼろげにしか分からない真理の認識を確かなものとし、かつてイエスが語られた言葉の数々の意味を明らかに分からせ、知らせることにあります。「わたしのしていることは、今あなたには分るまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(同14:26)。ですから、弟子たちは聖霊の導きによって「今、わかりました」(同16:30)と言えるようになると言うのです。

 

このことは、イエスの語られた言葉と、為された業の正しい把握と伝達は、聖霊を受けたキリスト者を通して為されることを意味します。その聖霊は、イエスの弟子たちであるキリスト者の集まりである教会において働くからです。聖霊の働きが教会の中で働く時に、はじめてイエスの数々の教えは、弟子たちによって正しく把握されるのです。それまでは「わたし(イエス)のしていることは、今あなたがたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(13:7)と言われているように、です。

 

エス(=神の独り子)は、14節、15節で、<その方(弁護者=真理の霊=

聖霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるか

らである。父(=神)が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だ

から、わたしは、『その方(弁護者=真理の霊=聖霊)がわたしのものを受けて、

あなたがたに告げる』と言ったのである」>と言っています。

 

15節においては、聖霊とイエスご自身との関係と同じように、聖霊と父なる神との関係についての言及がなされています。聖霊は、イエスご自身がそうであられるように、究極的には、父なる神の使者であると言うのです。イエスに関わる一切の事を告知し、且つ、解き明かすことにおいて、聖霊は、人々に対し、実際には父なる神を解き明かしているのであると。ここには後の教会が三位一体の信条において示した、父・子・聖霊という三つの位格において一つである神の原型のような言い方が出ているように思われます。

 

神は、聖霊によって弟子たちであるキリストの体である教会を用いて、御子イエス・キリストにおいてなされた、この世に対するもろもろの務めを遂行されていかれる。弟子たちである教会の存在意義はこの点にあると言うのです。

 

それゆえ、今日のキリスト教会を構成する者の務めは、イエスがその公生涯を通して証言されたように、イエス・キリストにおいて啓示された神の御旨と、啓示そのものであるイエス・キリストの福音を宣べ伝えることである、と言えるでしょう。

 

今日におけるキリスト教会における礼拝をはじめ教会の活動は、イエス・キリストの福音の宣べ伝えであることは言うまでもありません。さらに、主イエスは、神の僕として、人々に仕えたその生涯を通して、人々がひとりの人間の尊厳を相互に承認し合うことの大切さを徹底して示されました。私たちキリスト者は、「仕えられるためにはなく、仕えるために来た」というイエスの生きざまをも受け継ぐものとして召されていることを思います。イエスが、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない」(13:15-16)と言われているように、です。

 

森野善右衛門さんはこのように述べています。「(イエスの)十字架の不可解さの意味は、復活―聖霊の降臨-教会の成立という一連の出来事によって答えられたのだと言えましょう。そこにおいて神・聖霊の働きが継続していることを、弟子たちは分かることが出来たのでした。イエスが世の憎しみをまともに受けて苦しまれたということは、そこで闇と罪の世と戦う神の力が働いていたということを示しているのではないかと思います。このイエスの働きを、弟子たちは受け継ぐのです。教会はこの意味で、この世に究極的な出来事が、神の愛の出来事が起こったことを証しする終末論的集団であります。そしてそこに私たちは、聖霊が確かに働いていることを認めることができるのです」と。終末論的な集団とは、主イエスによる神の御業を信じる集団という意味です。

 

教会を構成するひとりびとりは、そのような意味において、キリストの「共同の相続人」(ローマ8:17,他にエペソ3:6,ヘブル11:9,Ⅰペテロ3:7の四箇所に見出せる語)であります。相続人は、すでにある者の相続権を所有していますが、所有者の所有するもののすべてを完全にはまだ所有していません。相続してしまったものは、相続人ではなく所有者であるからです。特にヨハネ福音書記者は、ヨハネの共同体の時、すなわち教会の時における「今」において、教会を構成する者は、キリストの相続人、すなわち、神の国の相続人として、光栄ある召しにあずかっているとの確信に生きていることを告げているのであります。キリストの真実を求める者は、その召しに応えるか否かが問われているのであり、また、すでにキリスト者として召された者は、このような光栄ある「相続人」としての自覚を新たにすることが求められていると言うのです」(土戸清)

 

たまたま今日の週報の船越通信でバルトのことについて書いています。「ドイツ国社会主義が台頭する危機の中で『あたかも何ごとも起きなかったかのように』福音への聴従としての神学に没頭したバルトは、同時にその没頭そのものを通して、政治社会の激変に対して、最高度に鋭敏に応答し、闘争する人物であった。しかもその闘争は、憤怒や欠乏を原動力とする闘争ではなく、喜びと希望を原動力とする闘争であった」と。

 

バルトのようにはとてもなれませんが、でもどんなに貧しくとも、私たちも聖霊の導きによってイエス・キリストの福音に聞き従って生きていきたいと思います。そのことによって、現在の政治社会の激変に対して、「憤怒や欠乏を原動力とする闘争ではなく、喜びと希望を原動力とする闘争」を、私たちなりにしていきたいと思います。

 

主が聖霊において私たち一人ひとりをそのように導いてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちは様様な問題にみちた現代社会に生きていますが、あなたが聖霊において私たちを導き、イエスの出来事を引きついでいくようにと招き、召し出してくださっていることを信じます。どうかこの問題に満ちた社会にあって、イエスの福音を生きることによって、この社会の現実と向かい合っていくことができますようにお導きください。
  • 神さま、どうか軍事力や暴力によって他者を支配しようとする人間の企てを打ち砕いてください。
  • 戦争や他者からの暴力や自然災害によって苦しんでいる人々、また、差別や貧困で苦しむ人々を支え、助けてください。そのために私たちが、他者の尊厳を大切にし、互いに助け合い、支え合う社会を築くために働くことができますように、お導きください。
  • 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌     514(美しい天と地の造り主)

 https://www.youtube.com/watch?v=aueaSMfnUYY

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

 

船越通信(630)

船越通信、№630  2024年8月25日(日)  北村慈郎

  • 18日(日)は礼拝後8月の役員会がありました。この月は役員の方と私の都合で第1,第2日曜日礼拝後には役員会が開催できませんでしたので、第3週の18日に役員会をすることにしていたからです。役員会は開きましたが、会計役員のHさんがコロナに罹りこの日は欠席でしたので、役員3人と私とで役員会を行ないました。12時半ごろ役員会を終えて、散会しましたので、私も午後1時8分のバスで追浜に出て、鶴巻に帰りました。8月18日は帰天された関田寛雄先生の誕生日です。関田先生のことを想い出すと共に、数日前の16日に荒井献さんが帰天されたという連絡を受けていましたので、お世話になった先生方が地上から天に場所を移して、一人二人といなくなっていく淋しさを感じていました。荒井献さんには、1980年代に私が名古屋の教会の牧師だった時に、教会にも講演にきていただきましたが、当時名古屋のカトリック南山大学の神言神学院に新約学の三好迪さんがいて、南山の神言神学院の特講に一週間くらい荒井献さんが来ることがありました。私は三好さんのルカ福音書の誕生物語の講義を聴講させてもらっていました。荒井さんの特講は一週間連続でしたので教会の仕事があり聴講できませんでしたが、荒井さんが特講で南山に来ていた時に、当時の堀川伝道所の牧師だったSさんと3人で食事をしました。その時、荒井さんから南山神言神学院の寮に泊まっていると、夜寝る時枕元に日本酒の一升瓶が置かれているという話を聞いて、それが今でも印象に残っています。1995年に名古屋の教会を辞し、私が紅葉坂教会の牧師になってからも、聖餐のことで荒井さんを紅葉坂教会に呼んだことがあります。聖餐についての3年近い学びの最後の頃だったと思います。その時も私が紅葉坂教会で洗礼を受けていない人でも希望すれば聖餐に与ることが出来る、いわゆる「開かれた聖餐」の学びを3年近く続けていると、荒井さんに言いましたら、荒井さんは「北村さんは慎重だから、…」とおっしゃっていました。この時の荒井さんの聖餐についての講演が紅葉坂教会のメンバーにもインパクトを与えたようで、その後しばらくして信徒の中からそろそろ結論を出してもらいたいという要望が出て、「“聖餐は洗礼を受けた者が与る”という紅葉坂教会規則第8条の削除をもって、紅葉坂教会は『開かれた聖餐』を執行する。式文は牧師に一任する」という教会総会議案に役員会がまとめて、1999年3月の紅葉坂教会総会で諮り、可決されて、その年のイースターから「開かれた聖餐」を行なうようになりました。それがたまたま私が2004年の教団総会で常議員に選出され、教団の常議員会に出るようになり、2006年の教団総会の礼拝で行なわれた聖餐式の陪餐に、私は沖縄教区から議員が出て来ない状況では与れないと思い与りませんでした。そのことが常議員会で問題にされて、自由な懇談で記録も取らないからと言って、私に紅葉坂教会の聖餐について話をさせ、その私の話を根拠にして、当時の山北宣久教団議長から私は教師退任勧告を受けたのです。そこから始まって2010年9月26日に最終的に私の日本基督教団における教師免職処分が決定したのです。荒井さんはこの私の免職処分のことを気にかけてくれていて、聖餐に関する荒井さんの論文を送ってくれたこともありました。そういう意味では荒井さんも関田先生同様に教団における私の免職撤回を応援して下さっていました。荒井さんは1930年生まれで、今年94歳で、ちょう関田先生と同じ年で帰天されたことになります。天上でお二人が語り合っていることを想像して、慰められます。
  • 19日(月)は、この一か月程右足に姿勢によって痛みあり、重い荷物を運んだ時に少し腰を痛めた時からのものなので、久しぶりに千駄木カイロプラクティックスに行って、治療を受けて来ました。
  • 21日(水)は午後7時からZoomで支援会の世話人・事務局会がありました。現在支援会では私の支援コンサートを続けています。本年2月に第1回を荻窪教会で開催し、その後4月に紅葉坂教会で第2回、そして7月に千葉の市川三本松教会で第3回を行なっています。10月には第4回を軽井沢の軽井沢追分教会で行なうことになっています。また、今年は10月末に教団総会がありますので、そのための準備もして行かなければなりません。教団総会の中日の夜にはまた教団総会が開かあれる池袋の貸しホールを全国交流会のために既に借りています。この日の世話人・事務局会では現状報告の後、先ず第4回コンサートの打ち合わせをしました。今回は遠方になるので、演奏者への対応をはじめ、事務局からも誰が行けるか、前日か当日かなど細かな確認もしました。6月末に開催された神奈川教区総会で私の免職問題の教団総会議案が可決されましたので、その教団総会議案「日本基督教団第36総会期教師委員会により戒規免職処分にされた北村慈郎教師の戒規申立と審判委員の選任に公正・中立性について疑いがあるので、本総会期常議員会で新たな審判委員を選び、再審理を求める件」とこの議案を巡る教区総会での議論をまとめ、それに幾つかの文章を加えて、通信第34号を編集し、教団総会前に発行することにしました。またその通信第34号と共に紅葉坂教会130年史(2013年4月~2023年3月の記録)から「北村慈郎牧師免職問題~問題を風化させないために~」の部分を紅葉坂教会役員会の了承を得た上で、通信第34号と共に教団総会二日目の夜に開催する「全国交流集会」の案内を入れて、9月中には支援者及び教団の全教会・伝道所への発送をすることにしました。そのためにこれから少し忙しくなります。
  • 22日(木)は国会前の座り込みに出かけたのですが、鶴巻温泉駅から小田急に乗ってしばらくして、座り込みの常連の方から電話があり、東京都心は豪雨なので、この日は座り込みを中止したという連絡がありましたので、海老名から引き返しました。

ヨハネによる福音書による説教(72)「見とおす」ヨハネ16:1-11,

8月25(日)聖霊降臨節第15主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌  151(主をほめたたえよ)

https://www.youtube.com/watch?v=eAWmu34gW2k

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編98編1-9節(讃美歌交読文107頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書16章1―11節(新約200頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    349(神の息よ)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-349.htm

⑨ 説  教    「見とおす」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書14章から16章のイエスの告別説教は、イエスが、自分が去って行くに当たって、弟子たちに語る言葉であると共に、ヨハネの教会の信徒たちへの言葉でもあります。ヨハネの教会の信仰者はユダヤ教からの圧迫に苦しんでいました。16章2節に<人々はあなたがたを会堂から追放するだろう>と言われていますが、これは、明らかにイエスの弟子たちの経験というよりは、ヨハネ福音書が書かれた一世紀の終わりごろに、ユダヤ人社会の中にあったヨハネの教会の信仰者を、ユダヤ教徒ユダヤ教の会堂から追放するという意味です。

 

一世紀も終わりに近づいたころユダヤ教当局がキリスト教徒に対して「会堂から追放する」という措置をとらざるを得なかったのは、キリスト教徒の中に、ユダヤ人共同体で一緒に生活し、彼らと共に会堂(シナゴグ)の礼拝に参加する者がいたからです。彼らはキリスト教徒になったとはいえ、元はユダヤ教の出身ですから、それまでの職業の関係で、あるいは生活の必要上、ユダヤ人共同体から離れることが非常に困難であったのです。同じ家族の中で一人だけキリスト教に改宗した者のような場合、特にそうであったことは想像に難くありません。さらにキリスト教徒の信ずるイエス・キリストの父なる神も、ユダヤ教徒の会堂の安息日礼拝で祈りをささげる神も同じであるということで、改宗前と同じ習慣に従いながらそれほど良心の責めを感じずに信仰を守ることができると考えていたキリスト教徒も多かったのでしょう。

 

ローマ帝国は異民族支配の政策において、ユダヤ教に対しては相当寛容であったと言われます。パレスチナ外のディアスポラユダヤ教徒は自分たちだけで集まって居住する権利とその共同体の自治権(行政と司法)を与えられ、皇帝礼拝を免除してもらう特権さえ認められていたと言われます。ですから、ディアスポラユダヤ人社会にあったと思われますヨハネの教会の信徒はほとんどユダヤ人だったと思われますので、彼らがそういうユダヤ教に与えられていた特権を振り切り、ユダヤ教の枠内での生活を断ち切って、信仰を言い表すことは、私たちが想像する以上に厳しいことだったに違いありません。そこでイエス・キリストによる救いを受け入れながらも、表面上は従来と同じ生活を続けるキリスト教徒がいたわけで、そのことはユダヤ教当局にとっては見逃すことが出来ない問題であったのでしょう。

 

ヨハネ福音書12章42節にこのような言葉が出てきます。<とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れて、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった>(新共同訳)と言われています。

 

ここでの「議員」は恐らくヨハネの教会の状況からして「各シナゴーグにおける役員会の役員」を意味すると思われます。この記事は、そのような会堂を守るべき役人の中にさえひそかにイエス・キリストを信じる者が少なからずいたことを物語っています。この状況においては、ヨハネの教会とユダヤ教シナゴーグ(会堂)には、まだ往来があって、完全には分かれていません。しかし、紀元70年のローマによるエルサレム崩壊というユダヤ戦争の悲劇的結末後に、ユダヤ教ファリサイ派を中心にヤムニヤで再出発のための会議が開らかれ、その後の活動を続けていきます。その中で十八の祈願(シェモネ・エスレ)の改訂が行われ、その第十二祈願に、キリスト教と異端に対する排斥の言葉を付け加えたのです。これによって、キリスト教は正式に異端と宣告され、会堂追放の処置がとられて行きます。

 

こうしてヨハネの教会があったディアスポラユダヤ人社会にも、その通達が伝えられ、それまでユダヤ人の町に共存していたように思われますシナゴーグと教会は、対立また緊張関係の様相を示すようになりました。16章2節の<しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る>という言葉は、そのことを意味しているのです。ヨハネの教会が置かれた町では、正統的なユダヤ教を自任するファリサイ派は、キリスト教の迫害を、神への奉仕の道あると確信していたのです。16章2節に示されています会堂追放やキリスト教徒殺害というキリスト教徒にとっては殉教という具体的な迫害は、ヨハネの教会が今直面している現実であったのです。

 

こうした恐るべき錯覚が生じるのは、実は彼らユダヤ教徒が<父をもわたしをも知らないからである>(16:3)と、ヨハネ福音書のイエスは語っています。彼らが仕える「神」は、イエスの表す「父」ではありません。彼らが仕える「神」は、人間の目を閉じさせ、自らの行為について冷静に謙虚に見直すことを妨げるものでしかなく、他集団への憎しみを正当化するのであります。それに対してイエスの表す「父」なる神は、私たちに愛の尊さを教え、イエスを通してそれを実践して見せるのであります。愛は他者を殺すのではなく、他者のために自らの命を投げ出すのであり、イエスはその道を歩むことによって父なる神を表したのです。<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである>(3:16)と言われているように、です。

 

4節後半―6節までを読んでみます。<「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている>(新共同訳)。

 

エスの告別説教を聞いて、弟子たちの人間的な悲しみは、大きなものであります(6節)。イエスが地上を去るということが明らかにされたばかりでなく、自分たちも迫害にさらされることが予告されたからです。

 

エスは自分が去って行くことを語ったために不安に沈む弟子たちに対して、彼の別離とパラクレートス(弁護者)の到来を告げます。この二つはいわば表裏をなしているのであって、一方がなければ他方も存在しません。イエスの苦難と栄光(十字架を経て父のもとへ上る)が救済の必然であれば、イエスが去ったのち弟子たちのところへ弁護者(助け主)がつかわされて来るのも必然なのであります。

 

7節で、イエスは、御自分が神のもとに去っていくことは、弟子たちの益となるということを語っています。パラクレートス(弁護者)が、イエスが地上を去ると共に、到来するからです。ここでも父ではなく、イエスがパラクレートス(弁護者)の派遣の主体であります。しかし、なぜパラクレートス(弁護者)の到来が弟子たちのためになるのでしょうか。このイエスの言明については、ヨハネ福音書記者の終末論の光から見ていかなければならないでしょう。すなわち、福音書記者は、パラクレートス(弁護者)=聖霊において、イエスの再来を把握しているのであり、8節以下の言葉は、待望される終末の裁きが、黙示文学的終末論とは異なって、パラクレートス(弁護者)=聖霊によって実現されることを語っているが、そのことも、そのへんの消息を明らかにするものであります

 

ラクレートス(弁護者)は、<罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする>(8節、新共同訳)と言われています。ここで、パラクレートス(弁護者)は、本来的な法廷用語との関連を示しています。しかし、それは、人間の法廷ではなく、神の法廷です。そこで、パラクレートス(弁護者)は、何が罪であり、義であり、裁きであるのかをはっきりさせるのです。この言葉は、ヨハネの教会が置かれた状況に即して解釈するのがよいでしょう。ヨハネの共同体に属する者を迫害し、殺害まで行なうユダヤ教当局(=世)は、自分なりの罪と義と裁きの観念を持って、それを行うのです。そして、ヨハネの教会の中にも、未熟な信仰の者は、その観念に引きずられてしまうということが起こっているのです。しかし、パラクレートス(弁護者)が共同体内にとどまることによって、真理が明らかにされ、すべてが逆転し、終末の裁きが行なわれることとなると言うのです。

 

9節以下では、パラクレートス(弁護者)の<世の誤りを明らかにする>働きが、個別に取り上げられていきます。罪とは、天から派遣されたイエスを信じないことです(9節)。それは、地上のイエスに対する不信仰というよりも(歴史的には、弟子たちでさえ、完全な意味で、イエスを信じることはできなかった)、ヨハネの教会の宣教の言葉によって証しされたイエスに対する不信仰が言われています。

 

さらに、義とは、イエスが父のもとに帰り、弟子たちがイエスを見なくなることです(10節)。イエスは、父への帰還によって、地上の弟子たちの目に見えなくなりますが、パラクレートス(弁護者)によって、その栄光が啓示されます。弟子たちは、父と子の栄光の相互付与に連なります。この世(ユダヤ人)は、十字架につけられたイエスを神に呪われた者と考え、またヨハネの共同体を異端とみなします。しかし、イエスと弟子たちの側に義があることを、パラクレートス(弁護者)は明らかにするのであります。

 

また、裁きとは、<この世の支配者が断罪されることである>(11節)と言われます。ここでも<この世の支配者>とは、サタンの歴史化された姿であるユダヤ教当局者を指しているものと考えられます。実際には、イエスは、十字架において、彼らに裁かれました。しかし、パラクレートス(弁護者)は、裁かれた者が裁く者であったことを、明らかにします。イエスの天への帰還による栄光の啓示は、この世の策謀を打ち砕くものなのです。また、ヨハネの教会があった町においても、ヤニムア派は、様々な処置を打ち出して裁いています。しかし、彼らは、そのことによって、神に従わないことを示しているのであり、裁きが彼らの上に下るのであります。このように、パラクレートス(弁護者)は、ヨハネの共同体において、敵対するユダヤ教シナゴーグの罪と義と裁きの観念を覆して、勝利は、イエスの陣営にあることをはっきりさせます。神の法廷において、イエスとイエスに属する者が勝訴するのです。

 

私たちにとってイエスに敵対するサタンが歴史化された「この世の支配者」とは、誰をまたは何を指しているのでしょうか。

 

ヨハネ福音書の場合ユダヤ教の当局者であり、彼らがヨハネの教会の信徒を迫害し、場合によっては殺害したのです。私たちは現在「この世の支配者」から憎まれ、迫害されたり、殺害されたりすることは、ほとんどありません。イエスを十字架に架けて殺害した当時の「この世の権力者」であったローマ総督やユダヤの大祭司らは、明らかにイエスの生涯において語られたイエスの言葉と業によって、その罪が明らかにされて、イエスによって逆に裁かれたのです。

 

現代のこの世の権力者はイエスの裁きを免れていると言えるでしょうか。イエスが現代に生きて、活動したとするなら、多くの苦しみ、痛む人々の叫びに応えて、神の義と平和の支配の下に人々を招き、「この世の権力者」に抗ったに違いありません。

 

私たちがこの世から憎まれたり、迫害されたり、殺されたりしないでいられるのは、もしかしたら私たちの中途半端な信仰によって、私たちがこの世と妥協しているからかもしれません。

 

改めて「パラクレートス(弁護者)は、ヨハネの共同体において、敵対するユダヤ教シナゴーグの罪と義と裁きの観念を覆して、勝利は、イエスの陣営にあることをはっきりさせます。神の法廷において、イエスとイエスに属する者が勝訴するのです」という、イエスの死後弟子たちに、またヨハネの教会の信徒たちに語られた、イエスの去った後に派遣されたパラクレートス(弁護者)として生きて働きたもう再来のイエスが、今も私たちの共にいて、この世の支配ではなく、イエスとイエスに属する者の勝利を告げていてくださることを想い起したいと願います。そのパラクレートスとして再来してくださっているイエスを信じて歩みを起こす者でありたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今主イエスは私たちの中に肉体において存在しませんが、霊において再来し、今も私たちの中で活動を続けていることを信じます。そのイエスは、今も痛み苦しむ人々、悲しむ人々のために、命をかけて働いてくださっています。どうか私たちが、その霊による再来のイエスと共に生きていくことができますように、お導きください。
  • 神さま、どうか軍事力や暴力によって他者を支配しようとする人間の企てを打ち砕いてください。
  • 戦争や他者からの暴力や自然災害によって苦しんでいる人々、また、差別や貧困で苦しむ人々を支え、助けてください。そのために私たちが、他者の尊厳を大切にし、互いに助け合い、支え合う社会を築くために働くことができますように、お導きください。
  • 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌      504(主よ、み手もて)

https://www.youtube.com/watch?v=_C0TG2Yh8bc

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

 

船越通信(629)

船越通信、№629  2024年8月18日(日)  北村慈郎

  • 4日(日)は平和聖日の礼拝でしたので、少人数でしたが聖餐式を共にしました。礼拝後Hさんが用意して下さった稲荷ずしをいただき、しばらく懇談して散会しました。私はその後11日(日)の週報を作って、印刷して受付の机に置いてから、教会を出て鶴巻に帰りました。私は、11日(日)は翠ヶ丘教会の礼拝説教を頼まれていますので、船越教会の礼拝はお休みするからです。11日(日)の船越教会の礼拝は信徒講壇にしていただきました。
  • この週は8日(木)には、何時ものように国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。この日宮崎で震度6弱地震が起きました。宮崎県都城市にいるK・Eさんのことが気になりましたが、この日の夜にIさんから電話があり、K・Eさんに電話したところ、やっと繋がりK・Eさんと話すことが出来て、K・Eさんが無事でいることが確認できたと連絡してくださいました。Iさんの報告を受けて、私も安心しました。このIさんからの電話は、K・Eさんの安否の報告だけでなく、Iさん自身の最近の体調をお聞きしたりして、大部長電話になりました。電話の向こうで話しているIさんの声を聞いている限り、元気な声で、抗ガン治療で苦しんでいるとは思えませんでした。治療が良い方向に行くようにと願っています。Iさんの電話後に、この日は木曜日でしたので、教会の皆さんに11日(日)の週報原稿を添付してメールを発信しました。
  • 10日(土)は、教区の平和集会が13:30から紅葉坂教会でありましたので、私も参加しました。この日の平和集会の講師渡邊さゆりさんの話は、集会チラシの講師自身による呼び掛け文に集約されていると思われますので、その呼びかけ文を転載させてもらいます。「平和が絵に描いた餅にされている。/2021年2月1日ミャンマーで起こった軍事クーデター以降、市民は抵抗運動を続けてきた。医療従事者から始まったといわれる市民不服従運動(CDM)は、教師、鉄道員へと広がり、公務員、そして全土に広がった。エスニック・マイノリティーが住む地域では、CDMへの報復として、また、クーデター完遂のために、空爆、重火器による焼き討ち、殺戮、強姦、リンチが続いた。/軍事クーデターに対する抵抗運動へのレスポンスとして、日本のキリスト者有志で続けられている毎週金曜日の祈り会が、180回を超えた。この祈り会を発端として、平和を絵に描いた餅にせず、「食える平和」実践への覚悟が生じ、新たなアクションを生んだ経緯を共有したい。/戦後80年。象徴天皇制のもと、よりリアルな絵として描かれた餅を、拝まされている場合ではないのではないか」。集会のテーマは「食える餅としての平和~ミャンマー軍事クーデターへの抵抗運動と現状~」です。講師の渡邊さゆりさんの講演は、淡々とした語りかけではありましたが、「食える餅としての平和」形成のために具体的な運動への参与を呼びかけるもので、迫力を感じました。この日はこの講演会に出た後、午後5時半からある劇団にゅうくりあ創立40周年記念講演を観に行く予定でしたが、猛暑で疲れも出ていましたし、翌日の11日(日)には翠ヶ丘教会での説教もありましたので、平和集会を終えた後はそのまま鶴巻に帰ってきました。この劇団を主宰している人は、私が紅葉坂教会の伝道師時代(1974年~1977年)の青年の一人で、公演がある度に私に招待状を送ってくれるのです。残念ですが、今回は失礼させてもらいました。
  • 11日(日)は、招かれて翠ヶ丘教会の平和聖日礼拝の説教を担当して来ました。平和聖日は8月第一主日ですので、最初その日の説教をということで頼まれたのですが、8月第一主日の平和聖日は船越教会で聖餐式もありますので、第2主日にしていただいたのです。この日も猛暑の日でしたが、翠ヶ丘教会牧師のIさんが最寄り駅まで迎えと送りを自動車でして下さいましたので助かりました。この日の礼拝説教は私のブログに掲載してありますので、よかったらご覧ください。この日の翠ヶ丘教会の礼拝では「戦責告白」の唱和もありました。また礼拝式の中には「使徒信条」の唱和もあり、いつもの船越教会の礼拝とはずいぶん違った雰囲気を感じながら、翠ヶ丘教会の方々と共に礼拝を守りました。礼拝後、昼食会があり、昼食を共にし、20名弱の方々との懇談の時を持ちました。その参加者の中から私への質問を受け、それに答える形での懇談会でした。午後1時半ごろ終えて、I先生に相模大野まで送ってもらい、鶴巻に帰ってきました。
  • 11日(日)の週も出かけたのは、15日(木)の国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みだけでした。この日は敗戦記念日でしたので、座り込みながら、いろいろと思いめぐらしていました。人通りもいつもより少なく、家族連れが時々通るだけでしたが、中には壁に貼った横断幕などを見て、写真を撮っていく人もいました。ただこの日は敗戦記念日ということもあってか、右翼の街宣車が私たちの前の、国会の裏側の参議院議員会館と衆議院第2議員会館衆議院第1議員会館首相官邸が並ぶ道路を往き来して、アメリカに追随している岸田首相と自民党を激しく批判していました。8月15日は帰天した連れ合いの父親が戦死した日でもあり、生前連れ合いはこの日が来ると、父親のことを想ってか、沈みがちだったことを想い出していました。この日の座り込み参加者は4人でしたが、終わりごろに久しぶりに来て、私たちに声をかけてくれた人が加わって、5人でした。午後4時に終えて、散会し、鶴巻には午後5時半過ぎに帰ってきました。この日9月の自民党総裁選への不出馬を表明し退陣が決まった岸田首相が、全国戦没者追悼式で最後の式辞を読みました。その式辞の中には、各地で悲惨な争いが絶えないことを念頭に「『人間の尊厳』を中心に据えながら世界が直面する課題の解決に取り組む」という言い回しがあります。しかし、岸田首相がやってきたことは、その逆ではないでしょうか。安保関連3文書を改定し、敵基地攻撃能力の保有や防衛費の大幅増を決定。殺傷武器の輸出解禁にも道を開いたこと。今年7月、『核の傘』を含む米国の戦力で日本の安全を確保する『拡大抑止』に関する日米閣僚会合を初開催し、核抑止への依存度も高まっていることなどです。是非政治家には「人間の尊厳」を基軸に据えた政治を行なってもらいたいものです。

ヨハネによる福音書による説教(71)「世の憎しみ・迫害」ヨハネ15:18-27

8月18(日)聖霊降臨節第14主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   149(わがたまたたえよ)

https://www.youtube.com/watch?v=olWsf8Ja_-0

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編87編1-7節(讃美歌交読文95頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書15章18―27節(新約199頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    419(さあ、共に生きよう)

https://www.youtube.com/watch?v=FbbYpBKeNfo

⑨ 説  教   「世の憎しみ・迫害」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

現在私たちキリスト者が世から憎まれたり、迫害されたりするということは、日本の社会ではほとんどありません。

 

現在の日本には憲法政教分離の原則があり(憲法20条や89条)、基本的人権の一つとされている信教の自由が認められているからであります。けれども古い因習が残っている、私が1995年3月まで18年間いた名古屋の教会の地域では、もう名古屋を離れて30年になりますから、今はどうなっているか分かりませんが、私がいたころはまだ、洗礼を受けるとお嫁に行かれなくなるというので(この言い方も不適切ですが)、中高生の女子が教会に行ってもいいが、洗礼を受けるのは駄目だと、親から強く言われているということがありました。仏教の檀家制度がまだ生きていた地域でしたので、特に長男は妻と共にその家のお墓を守ることが当然の義務と考えられていたからです。ですから他教会の方ですが、洗礼を受けていた女性で、そのような家の男性と結婚した方が、その夫も洗礼を受けていたのですが、夫が亡くなって仏式の葬儀とキリスト教の葬儀を別々に執り行ったという話を聞いたことがあります。私が牧師をしていた教会でも、教会員であるそのような家に嫁いだ方が亡くなった時に、教会には連絡がないままに仏式でその方の葬儀が行われていたということはありました。そういう基本的人権の一つである信教の自由が認められないような所では、キリスト者であるために周囲から憎まれたり、迫害を受けたりすることがあり得るのかも知れません。

79年前の日本でも、特に戦時下ではキリスト教は敵性宗教だということで、宣教師や牧師がスパイ視されたり、小さな子どもでも牧師の子どもなどは、上級生や同級生からいじめられることもありました。帰天された関田寛雄先生も、子ども時代にそのような経験をして、逆に当時の天皇制絶対主義的国家の皇国少年に相応しくなろうと努力したとおっしゃっていました。

 

そういう意味でキリスト者が、国家共同体であるこの世の社会から憎まれたり、迫害されたりするということはめずらしいことではなく、キリスト教は歴史的には苦難と迫害の歴史を経て、現在に至っております。日本でもキリシタン時代の迫害はよく知られています。

 

先程司会者に読んでいただいたヨハネ福音書の15章18節以下には、新共同訳では「迫害の予告」という見出しがついています。ヨハネ福音書では、これまで弟子たちに対して「愛の戒め」を語ってこられたイエスは、ここで一転して、彼がいなくなった後の世に残される弟子たちに対して起こるであろう迫害について、語り出されます。

 

18節で「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(新共同訳)と、イエスは言われます。弟子たちが世から憎まれるということは、決して仮定の事ではなく、現実に起こったことであります。イエスの弟子たちは、人びとからの激しい憎しみと迫害を経験しました。そこにこの世の厳しい現実があるということを、イエスは思い起こさせようとしておられるのです。イエスと弟子たちとの愛の交わりは、親しくあたたかいものであるとしても、彼らを取り巻くこの世の現実は、まことにきびしく冷たいものであります。そのことを、イエスは弟子たちにあらかじめはっきりと語って、弟子たちの覚悟を促そうとしておられるかのようです。

 

「憎む」とは、非常に強く激しい言葉で、ヨハネ福音書には12回出て来ますが、その中10回までは、「この世」(の人たち)のイエスとその弟子たちに対する憎しみを表すわすのに用いられています。

 

エスの弟子たちは、なぜこの世から憎まれるのでしょうか。ここで弟子たちは、この世が「あなたがた(弟子たち)よりも先にわたし(イエス)を憎んだことを知っておくがよい」(18節後半)と言われたイエスの言葉を思い起こさせます。この世はイエスを憎み、激しい怒りを燃やして、イエスに重い十字架を負わせ、遂にゴルゴダの丘の十字架上にイエスをはりつけにして殺してしまったのです。弟子たちが受けるこの世からの憎しみと迫害の十字架は、すでにそれに先立って、イエスがこの世から受け、負わされたものであることが、心にとめられなければなりません。したがって、弟子たちがこの世から憎まれるということは、まさに彼らがイエスと共同の絆によって結ばれ、イエスと共にあることのしるしであり、イエスにならうことは、まさにイエスの受けた苦しみにならうことでもあるのです。

 

「(あなたがたは)世に属していない」と言われる場合、「世」(コスモス)とは一体何を意味するのでしょうか。…ローマ総督ピラトの前に立たされたイエスは、同様に「わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18:36)と明言されました。この場合の「国」とは、場所的概念というよりも、むしろ「支配」を表しています。神の国とは、神の力、意志、支配が正しく示され、貫かれているということをさして言われるのです。

 

「世に属していない」とは、究極の権威、支配、力、所属性がこの世にはないということを指して言われているので、場所的にこの世を離れ、この世の外に出ることではなく、この世の雑踏を逃れて山の中にこもることでもありません。イエスは弟子たちに、この世を捨て隠遁の生活に入ることをすすめられてはおりません。キリスト者だけで、閉鎖的な、特別な社会をつくることがよしとされているわけでもありません。むしろイエスは、この世を離れた隠者のようにではなく、町や村をめぐり歩いて、人びとの中に入り、どのような人とでもいっしょに食卓をかこみ、交わりを持たれたのです。特にイエスは、取税人、罪人、遊女、その他いわゆる「地の民」(アム・ハ・アーレツ)といわれる人々との交わりをよしとされたことは、福音書の記述を通して知られる特筆すべきことであります。

 

エスはこの世のただ中で、憎しみと敵意と差別のうずまくこの世の中で、敵に取り囲まれて生活されました。したがって、「世に属していない」とは、修道院的な隠遁生活のすすめではなく、この世を超えたものに所属する者であるゆえに、むしろこの世において自由であり、人びとの中に入って、人びとと共に、その喜びと悲しみを共に担って生きることへのすすめなのであります。イエスにならう生き方をしようとするとき、私たちもまた、イエスがそうであったように、この世の外に生きる場所を求めることはできません。そこに私たちの生きる場はないからです。そして根本的には、修道院や人里離れた山の奥すらもまた、この世の外にあるものではないのです。

 

そしてイエスは、世が弟子たちを憎むのは、彼らが世のものではなく、イエスによって世から選び出された者たちだからだと、言われます。<あなたがたが世に属しているなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである>(19節、新共同訳)と。

 

エスの弟子たちがなぜこの世から憎まれるのか。それは、イエスの弟子たちが「この世に属している」ではなく、この世から「選び出された者」であり、「イエス・キリストのもの」とされているからであるというのです。それは、弟子たちの究極的な所属性がどこにあるかということを明らかにするものです。イエスの弟子たちは、この世にありながら、しかしこの世のものではないのです。ですから、イエスとこの世との対立から、弟子たちとこの世との対立へと導かれるのは必然のなりゆきであると言うのです。

 

そして、すでに13章16節で自ら語られた「僕はその主人にまさるものではない」という言葉をもう一度語って、イエスご自身が経験された迫害は、僕である弟子たちにも同様に及ぶべきことを語られます。<『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人びとがわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう>(20節、新共同訳)と。

 

世がイエスに対して、また弟子たちに対して、そのように振舞うのは、結局彼を遣わされた父なる神を知らないからだと、イエスは言われます。<しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである>(21節、新共同訳)。

 

しかし、イエスが来られて父なる神を啓示された以上、世またユダヤ人たちのそのような所業は、言い逃れようのない罪であり、父なる神御自身への憎しみであると、イエスは言うのです。<わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行なったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らには罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる>(22-24節、新共同訳)。

 

そしてそのような事態も、実はすでに聖書に(それは恐らく詩編69:5であろうと推測されていますが)記されている言葉の成就であると、イエスは言われます(25節)。

 

それでもなお弟子たちにとっては、恐れひるむ理由は何もありません。イエスの御業は、この世の憎しみにもかかわらず拡がり、成長し、その御言葉はいつまでも破られないからです。なぜなら、やがてきたる真理の御霊が、イエスの証人として現われるからです。そしてこの世は、その証言をもみ消すことはできません。真理の霊の守りと助けの下に、今弟子たちはイエス証言の業を行なうことができるからです。ヨハネ福音書のイエスはそのように弟子たちに語っているのです。

 

ここでイエスが弟子たちに語っていることは、教会に連なる私たちに語られたことでもあります。現在私たちはこの世から憎まれるということはほとんどないかも知れません。しかし、国会前で辺野古新基地建設反対の座り込みをしていますと、必ず向かい側から警官が私たちを監視しています。私たちの座り込みは権力の側からすると快く思われていないからでしょう。また、イエスが愛された地の民といわれているような様々な差別抑圧を受けている人々が、この社会の中で正当な権利を認められるための運動も、企業社会の中で人間の尊厳を大切にすることも、必ずしもすんなり受け入れられるというわけではありません。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)と語られ、それを実践されたイエスは十字架に架けられて殺されたのです。そのイエスの証言者として生きる私たちが、その生きざまを徹底していったときに、現代でもこの世からの抵抗を受けるのを避けることは出来ないでしょう。

 

エスのように私たちが徹底して生きることはできませんが、イエスが遣わして下さった真理の霊によって、私たちなりに「互いに愛し合い」、イエスの証言者の一人として、それぞれ遣わされている日常の場で生きることができますように。主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、イエスは私たちすべてに十字架と復活の愛をもって臨んでいて下さることを信じます。そしてそのイエスは「友のために自分の命を捨てる。これ以上に大きな愛はない」と言われました。
  • 神さま、私たちもそのイエスの証言者として、私たちに互いに愛し合って生きる力を与えてください。また、イエスの十字架の愛を知らない人々に、私たちがイエスの証言者として少しでも伝えることができますように導いてください。
  • 神さま、どうか軍事力や暴力によって他者を支配しようとする人間の企てを打ち砕いてください。
  • 戦争や他者からの暴力や自然災害によって苦しんでいる人々支えてください。
  • 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌      533(どんなときでも)

https://www.youtube.com/watch?v=rQ3RDTtVv_w

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。