なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

2010-01-01から1年間の記事一覧

無言館

数年前の夏期休暇に、信州上田から一時間ほど松本方面に入ったところにある鹿教湯温泉の小さな宿で三泊四日を一人で過ごしました。一人でゆっくり考えたかったからです。ただ一つだけ行きたい所がありました。戦没画学生の絵が展示されている無言館です。 無…

食べて、寝て、遊ぶ

もう大分以前になりますが、滝沢克己さんの本を読んでいたときに、人間の幸福とは何かということで滝沢克己さんが「食べて、寝て、遊ぶ」ことだというようなことを書いていたのに、いたく感動したことを思い出します。 最近読んだ本の中に取り上げられていた…

現在の危機

日本の現在を「とうとうどん底まできた」というように捉えている人がいます。たとえばテレビを見ていても、いまテレビで一番多い番組は食べ物の話とお笑いです。「芸にもなっていない若い芸能人が出てきて、何か食っては『うめぇ』とかいっている。そうじゃ…

普通の人間になる

佐藤研さんに『禅キリスト教の誕生』という本があります。この本は既成のキリスト教に対する大変刺激的な問題提起に満ちた本です。目次を見ますと二つの大きなテーマが掲げられています。「キリスト教の再定義」と「〈禅キリスト教〉の誕生へ」です。本の表…

小さな共同体

先日ある集会での参加者の一つの発言が私の心を捕らえました。その発言とは、 「教会では生活過程を共有しているわけではない」というものです。言われて見れば、全くその通りです。事実私たちは、日曜礼拝を共にするだけで、家族とか家族のようなお付き合…

神の国の社会

神の国の社会がもし本当にあるとしたら、この世の現実社会とどこが根本的に違うのでしょうか。 以前に教区の社会福祉小委員会主催で開かれました「障がい者と教会の集い」に出席して、その集いで発題された心苦しむ方々の発言をお聞きしながら、私は改めて神…

しかし、今や

「しかし今や」(口語訳、新共同訳では「ところが今や」)、これはローマの信徒への手紙3章21節の冒頭の言葉です。 ルカによる福音書のイエスは「時の中心」(コンツエルマン)と言われますが、パウロがローマの信徒の手紙で描くキリスト(イエス)も時の…

自分を取り戻す

忙しいという字は心が亡ぶと書きます。これをはじめて聞いたのは、たしか神学生の時だったと思いますが、北森嘉蔵さんの授業の中でした。もう40年以上前のことです。北森さんの授業は、言葉遊びというか、事柄そのものへの肉薄という感じはなく、奇をてらっ…

組織の落とし穴

2002年10月に開催されました第33回合同後18回教団総会に、私は何十年ぶりに議員として出席しました。その総会で沖縄教区提案の「名所変更議案」など「合同のとらえなおし」関連議案がすべて審議未了廃案となり、その後沖縄教区は教団との間に距離を置いて現…

教会の伝道について

教会の伝道について、ある意味で対照的な考え方の現われを感じる出来事を二つ経験しました。ひとつは、以前私が神学校を出て最初に働いた教会の牧師の連れ合いのお別れ会での出来事です。故人のお別れ会で、牧師たちの席に同席していたのですが、私の数年先…

ある障がい者の思い出

私の所属する教会は日本基督教団神奈川教区には社会福祉小委員会があり、毎年夏「障がい者と教会の集い」が都筑区にあります、障がい者研修保養センターあゆみ荘で行われています。私は何か特別な用事が入らなければ、大体毎回参加しています。 名古屋の教会…

悪人の滅び

詩編92編には悪(人)について書かれています。例えば、「主よ、あなたに敵対する者は、必ず/あなたに敵対する者は、必ず滅び/悪を行う者は皆、散らされて行きます」(10節)。「神に逆らう者が野の草のように茂り/悪を行う者が皆、花を咲かせるように見…

沖縄の心

6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。沖縄戦は、先の大戦において日本国内で住民を巻き込んだ唯一の地上戦であり、大本営にとっては当初から本土防衛の準備が完了するまでの時間かせぎに過ぎない捨て石作戦でありました。6月23日は、あの悲惨極まりない沖縄…

基地撤去

このところ何度か、横須賀に足を運んでいます。主に京浜急行汐入駅近辺ですが、私が事務局長をしている連絡会の全国総会が横須賀で開かれるからです。まず4月の中旬に2日ほど横須賀の街を巡りました。そして全国集会の場所と宿泊するホテルを探しました。最…

2050年ごろの世界

私は橋爪大三郎が書いたものを好んで読んでいます。最近90年代半ばに単行本として出版された『橋爪大三郎の社会学講義』が出版社の倒産で絶版となっていたのが、ちくま学芸文庫に形を変えて入っていることを知って、買い求めて読んでみました。橋爪のキリス…

怒りの向けどころ

このところ1年間の自死者(自殺者)は30000人強ということです。30000人を越えたのが1998年ということですから、この10年間に30数万人の人が自死していることになります。その一人一人の死がどのようにしてそうならざるを得なかったのか、具体的には分かりま…

趣味としての囲碁

6月12日の土曜日には結婚式がありました。最近の私が所属する教会では、結婚式は1年間に1回か2回あるかないかです。けれども葬式は年少なくとも5回はあります。多い年には10回くらいになることもあります。このことは、教会のメンバーが日本の社会より先行…

世の光、世の塩

先日テレビを観ていましたら、ハイチで30年以上医療活動をしている日本人で84歳の女医さんのことが放映されていました。この方はカトリックの信仰者のようですが、結核の専門医で40代後半になってハイチでの活動を始めたということです。ハイチのマザーテレ…

出発点としての言葉

私は『谷川俊太郎の問う言葉、答える言葉』を愛読書の一つにしています。時々答えのなかなか見出すことのできない問いにぶつかり、立ち止まってしまうときなど、この本を読み返してみます。目次よりも前にあるこの本の最初の言葉は、「世界が問いである時/…

赦しの厳しさ

暫く前に教会の方を訪問し、その帰りに本屋に寄り、書棚にあった『生かされて』という本が目に入り、その本を衝動買いしました。実は既に相当数読みたいと思って買い込んでいる本があったのですが、この本を読み始めましたら、止まらずに一気に読んでしまい…

解放としての老い

私は最近2人の90代前半の方をお訪ねしました。それぞれ年を重ねることの厳しさを訴えられていました。しかし、それぞれの個性は違いますが、一日一日の生きることに対する姿勢には共通するものを感じました。それは、厳しくはあるでしょうが、前向きに与えら…

小さな声

私たちが属する日本基督教団というところでは、昨年「日本伝道150年」ということで、イベントが行われました。日本基督教団の創立記念日に当たる6月24日に記念の集会が行われ、11月23日に記念式典が行われました。しかし、この記念イベントについては、企画…

イエスと繋がる

ちょうど今から50年前に、私は高校生でしたが、今牧師をしている教会の礼拝にはじめて出席しました。11月の最初の日曜日でした。その頃教会には高校青年会、通称KKSという高校生の会がありました。KKSのリーダーは、当時東京神学大学の学生であったTさんでし…

ピースおばあさん

私は国会前の辺野古新基地建設反対座り込みに時々参加していますが、その座り込みに何時も参加している80歳過ぎのSさんという方がいらっしゃいます。この方は、着ている上着にも、帽子にも、荷物入れにも「ピース」という文字を書いて、それを着てどこでも行…

躓きを超えて

教会の暦からすると、ちょっと季節外れのメーセージかも知れませんが。 聖書によりますと、イエスが生まれたのは、ローマ皇帝アウグストによる人口調査が行われ、ユダヤの国の人々がみな生まれ故郷の町や村に帰って登録しなければならなかったときです。その…

人にレッテルをはらないで

「イデオロギー」という言葉の定義はなかなか難しいのですが、私は橋爪大三郎が環境問題について書いている『「炭素会計」入門』の中でイデオロギーについてしている定義が、自分としては納得できるものだと思っています。橋爪はこう言っています。「イデオ…

接着剤イエス

パウロが書いたローマの信徒への手紙14章7~8節のところにはこう記されています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きている人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主…

6月に想う

6月には沖縄慰霊の日(6月23日)があり、日本基督教団の創立記念日(6月24日)があります。そのことを覚えて、以下の文章をこのブログに掲載します。この文章は数年前に教会で話したものです。 ルカによる福音書4章16節以下の安息日におけるナザレの会堂…

ある兵士の遺言

過日2・11思想・信教の自由を守る日の集会に参加したとき、講師から「靖国神社と天皇陛下様 遺言」という、戦犯で死刑執行されたある日本兵の文章を紹介されました。この遺言という文章は以前に8月15日の靖国神社前で配られたチラシに書かれていたものだ…

非日常を大切に

私たち人間にはいろいろな世界が与えられているように思われます。社会の中での私、自然の中での私、そして神の中での私です。私という人間は独りですから、社会・自然・神の世界の中で生きる私は、その時々によってどの世界との繋がりが強いかが異なるよう…