なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

怒りの向けどころ

このところ1年間の自死者(自殺者)は30000人強ということです。30000人を越えたのが1998年ということですから、この10年間に30数万人の人が自死していることになります。その一人一人の死がどのようにしてそうならざるを得なかったのか、具体的には分かりませんが、想像する限り、病気や経済問題、仕事上のトラブルやストレス、家庭問題や人間関係、社会的引きこもりなどが原因となっているのではないでしょうか。そしてその多くの方々は、その生きづらさを自分を責める方向に向けてしまった結果、自死を選ばざるを得なくなっていったのではないでしょうか。雨宮処凛小森陽一と対談している本の中で、雨宮処凛がかつて浅間山荘事件を起こした連合赤軍について書いたことを紹介しています。そのところを引用してみますと、以下のようになります。
 
「もしあの事件によって、政治や権力に抗議する言葉が奪われていったというか、権力に対して怒るということが「若者に禁止」されていったのであれば、その後、社会的背景をもった問題に生きづらさを感じるようになる人々は、『自分がダメだからこんなに生きづらいんだ』と、自分を責める回路しかなく、権力に対して怒れないままに、リストカットなどの自傷に走ったり、あるいは自ら死を選んだりしてしまう、そういう方向にしむけられてしまっているわけです。そんな犠牲者は、もう膨大な数に上るので、実は『連赤』が殺したのは、あの事件で死んだ16人どころじゃないんじゃないか、みたいな内容の文章だったんですが」。
 
雨宮処凛リストカットをくりかえしていたそうですが、ある時から自分を責める回路から社会の問題として社会を問う方向に目が開かれることによって、生きづらさは変わらなくでも、楽に生きられるようになったという趣旨のことを書いています。怒りをどこに向けるかということではないでしょうか。社会に向けるべき怒りを、自分の方に向けざるを得ないとすれば、自分を傷つけたり、自分の命を自ら奪うようにならざるを得ないのかも知れません。
 
私は、湯浅誠さんが派遣村で話題になった頃、貧困や格差の問題について書かれた本を数冊読んで、国家と企業が一体となって棄民政策を進めているということを知りました。私の子供たちを見ていて、雇用の問題の厳しさは感じていましたが、社会の構造的な問題としてははっきり認識できていませんでした。1995年頃から日本の社会ははっきりと企業による労働者の雇用形態が変わったのです。正規雇用は一握りの幹部候補生とし、その他は派遣などの非正規雇用にし、昇給無し、退職金も年金も無しにすることによって、企業は人件費を減らしてきたのです。
 
正規雇用の拡大が、年収100万円台のように収入が極端に低く、将来ずっとそれが変わる見通しをもてない人々(ワーキングプア)を生み出してきました。現在労働者の三分の一、若い労働者なら半数が非正規雇用になっていると言われます。こういう状況の中で、物質的・精神的に追い詰められ精神を病んだり、自死(自殺)する人が増え、1998年から年間3万人を越え続けるという異常事態になっているわけです。
 
このような現在の日本は、憲法9条と共に憲法25条で定められた生存権、人間が人間らしく生きていく権利がふみにじられているのではないではないかと思います。こういう深刻な問題に私たちはどのように応えていったらよいのでしょうか。このような問題も視野に置きながら、私は教会の宣教活動に取り組んでいきたいと思って、今までもやってきましたし、これからも働くことができる限りやっていきたいと思っています。