なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

待降節第3主日礼拝説教「先駆者」マタイによる福音書11:2-19

12月15(日)待降節第3主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」         (イザヤ書40:4-5)

③ 讃 美 歌   231(久しく待ちにし)

https://www.youtube.com/watch?v=WeOiqshSynM

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編113編1-9節(讃美歌交読文126頁)

⑥ 聖  書  マタイによる福音書11章-2―19節(新約19頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    470(やさしい目が)

https://www.youtube.com/watch?v=I0PQZ8eNk28

 

  •  説  教   「先駆者」       北村慈郎牧師

 

今日は待降節の第3主日です。続けてすぐ降誕節がやってきます。来週はイエスの誕生を祝うクリスマス礼拝です。待降節を代表するバプテスマのヨハネ降誕節のイエスという二人の人物の関係が、私たちにもたらしたものは何かを、この二人のやりとりを記すマタイによる福音書の11章2節から19節の箇所から、今日は聞きたいと思います。

 

バプテスマのヨハネの逮捕がイエスの活動のきっかけとなったことが、マタイによる福音書4章12節以下に語られていますが、その記事の中に「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と言われていて、イザヤ書の引用があります。その引用のイザヤ書の預言の中に「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という言葉があります。そしてそのイザヤ書の引用の後に、「そのときから、イエスは、『悔改めよ、天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始めた」(17節)記されているのであります。

 

私たち人間がつくり出しているこの社会の暗闇と死の支配する現実の世界の中に、光と命が支配する「天の国が突入して来た(「近づいた」とは「到来した」である)」と、イエスは宣べ伝えて、その活動を始めたと言うのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのは、天の国、つまり神の支配する国が来たから、今までとは180度方向転換して、神の御心にふさわしく歩みましょうということです。

 

それはちょうど夜から朝に変わることによって、世界が新しくなるのと同じです。人間がではなく、神が支配する新しい世界、新しい時代がイエスとともに私たちのところにやってきたというのです。実際イエスによって、病気を癒された人たちやその家族、悪霊を追い出してもらった人たちやその家族、人々から嫌われて人間扱いされず差別されていたのに、かけがえのない一人の人間としてイエスに受け入れられた人たち、また強い人たちが自分勝手に振舞い、弱い人たちが犠牲になって苦しんでいる社会に疑問を感じていた人たちには、イエスは皆が対等に同じ神の子どもである神の支配する国を本当に実現する救い主に思えたことでしょう。

 

バプテスマのヨハネは牢屋の中にいました。それこそ権力者であるヘロデ・アンティパスの不正な離婚を非難したためにつかまって牢屋にいれられていたヨハネですが、ヨハネは天の国(神の国)が来ることを待ち望んでいました。そして天の国(神の国)はメシヤ(救い主)という一人の人物を通してやってくると信じていました。ですから、牢屋にいて自分の弟子たちからイエスの噂を聞いたのでしょう。イエスがメシヤ(救い主)かもしれないと思って、弟子たちをイエスのところに送って質問させたのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ11:3)と。

 

するとイエスは答えて言いました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は幸いである」(マタイ11:4-6)と。

 

今も私たちの周りには、苦しんでいる人、悲しんでいる人、泣き叫んでいる人が沢山います。日本だけではなく、世界中にそのような人たちが沢山います。自分だけ幸せなら、人のことはどうでもいいという人もいます。そういう人が沢山いる社会では、苦しみ悲しむ人たちは、自分たちだけが何故こんなに苦しまなければならないのかと、つらい思いをかかえて、ひそかに生きていかなければなりません。

 

エスの時代のユダヤの国と同じです。ユダヤの国でも目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、貧しい人は、そういうつらい思いをかかえて、ひそかに生きていかなければなりませんでした。ところが、イエスは、そのような人々に神の不思議な命を分かち与え、喜びと希望をもたらしました。打ちひしがれていた人たちが、元気になって、自分の足で立って歩きだしたのです。イエスによって、暗い夜の闇のような世界から、太陽の光がさんさんと輝く真昼の世界に人々は導かれて、元気を取り戻し、神を讃美して生きていくことができたのです。

 

獄中にあるバプテスマのヨハネから遣わされたヨハネの弟子の問い、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」に答えて語られたイエスの言葉をもう一度思い起こしたいと思います。≪「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」≫。

 

暗闇が支配する死の世界の中に光である命が突入してくるという出来事こそ、イエスの福音です。

 

モルトマンは『希望の神学』の中でこのように述べています。「われわれには永遠の生命が約束されている。・・・しかしわれわれ死人に対してである。われわれには祝福された復活が宣べ伝えられている。・・・それでもわれわれは腐朽に取り巻かれている。われわれは言い表せない至福について聞いている。・・・しかしなおわれわれは、ここにおいては無限の悲惨に圧迫されている。われわれには、飢えと渇きだけが満ちている。もしわれわれが希望に支えられていなかったならば、そしてわれわれの心が、神の言葉と霊によって照らされた道にそって暗黒を突き破り、この世界をこえて急ぎゆくのでなければ、われわれは一体どうなるのであろうか!」(ヘブル11:1講解)。

 

私たちは、ますます暗黒の闇が深まっているかに思えるこの社会の現実に生きている者ですが、イエスによってこの暗闇の世界の中にも差し込んでいる光を見失わずに、光をめざして歩み続けたいと思います。過去は変えられないが、将来は過去から現在とは違った形に、私たちがどう生きるかによって変えることができるのです。

 

エスは、洗礼者ヨハネとご自分を比べて、その違いをこのように群集に向かって語られたように思います。「洗礼者ヨハネは過去からの現在を、神を信じ最も誠実に生きている。けれども自分は、将来からの現在を神の勝利への絶対的な希望を持って生きている」と。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大な者である」(マタイ11:11)と。

 

洗礼者ヨハネは救い主メシアの到来の先駆けとなってその道を備える人でした。その意味で、洗礼者ヨハネは、イエス時代のユダヤの国の人々が待ち望んでいた、メシヤ(救い主)到来の先触れとして現れると信じていたエリヤの再来であるというのです(マタイ11:14)。

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人の子であるイエスとイエスに招かれて、将来からの現在を神の勝利への絶対的な希望を持ってイエスと共に生きる人は、既に天の国に国籍がある天の国の住人なのであると。だから、どんなに小さな人であっても、過去から現在を最も誠実に生きた洗礼者ヨハネよりも偉大なのであるというのです。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めのバプテスマ施しました。イエス聖霊と火によるバプテスマを授ける方である(マタイ3:12)と、洗礼者ヨハネ自身が証言している方です。

 

聖霊は、神の息吹であり、神の息であり風であり命です。火は罪をすべて焼き尽くします。聖霊と火によって、利己的で自分を神のように中心にして考えて生きる罪人である私たち一人一人を、神の幼児のように神を母として父として慕い、神に全幅の信頼をもって生きる者にしてくれる神の力です。

 

このように洗礼者ヨハネとイエスは違いますが、一点においてだけ共通するものがあります。それは、「天国(神の国)は近づいた」という宣べ伝えにおいてです。もちろんこの共通する「天国(神の国)は近づいた」という宣べ伝えにおいても、洗礼者ヨハネはこの宣べ伝えを待望において語り、イエスは成就において語ったという点では違いはあります。いずれにしろ洗礼者ヨハネもイエスも、過去と将来が激突している場所としての現在を、私たちがどう生きるのかを問いかけているのではないでしょうか。

 

マタイ福音書の著者は、「今の時代を何にたとえたらよいか」と言って、洗礼者ヨハネとイエスの出現を当時のユダヤの人々がどのように受け止めたのかについて、このような譬えで語っています。≪今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座っていて、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛が吹いているのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』≫(マタイ11:16,17)と。

 

『笛が吹いているのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』(17節)は、子供たちの遊びにおけるいさかいを歌った歌とされています。「これはある子供らが結婚式ごっこをやろうと言うのに、他の子供らは葬式ごっこをやろうと言って意見が合わないというのではなく、どちらの誘いをかけても傍観するのみで相手になってくれないとなじっている歌である」と言われます。

 

「この歌によって、洗礼者(ヨハネ)とイエスという二通りのタイプの異なる人物を通して語られた神の最後的な言葉を人々は冷たく無視したことを批判している」のです。「(洗礼者)ヨハネの厳しい禁欲的な悔い改めの道も、イエスの語る宗教的特権(とそれに基づく差別)を否定した自由な交わりの道にも、人々は参加しようとせず、傍観者として批評するのみである」(新共同訳注解)と。

その傍観者としての人々の二人に対する見方が18節に記されています。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(マタイ11:18、19)。人々は外見でしか二人を判断しなかったというのです。傍観者は常に人や物事を表面的にしか見ません。真剣に出会う他者や出来事として人や物事を見ません。自分を絶対に変えようとしないで、相手をただ表面的に批評するだけです。

 

私たちは何事においても傍観者的に生きてしまっていることが多いのではないでしょうか。洗礼者ヨハネとイエスを傍観者的にしか見られなかった、当時ユダヤの人々と同じように、私たちも傍観者として生きてしまうことが多いように思われます。特にある程度生活も恵まれていて、健康で家族のいさかいもなく安定して生活できる人は、その自分の生活の中に閉じこもっていれば、社会がどうでも関係なく幸せな生活を享受できると思えるからです。実際には、災害が起こり、その社会がかつての日本の戦時下のように破局的な状況になれば、自分の生活に中に閉じこもってはいられませんので、その幸福と思えた自分の生活も簡単に壊れてしますのですが。

 

私たちはイエスとイエスの出来事を知らされた者として、傍観者として生きることはできません。

神によって命を与えられた一人一人の尊厳を大切にし、互いに支え合い、助け合い、仕え合う自由な交わりの道を、それぞれに与えられ課題を担い、他者と連帯しつつ当事者性をもってかかわっていきたいと思います。

 

重荷としての過去と希望としての将来が激突する現在という場において。

 

主が共にいて私たちを支えてくださいますように!

 

祈ります。

 

神さま、この礼拝に集うことができましたことを、心から感謝します。

今日聴いた「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」というメッセージを大切に、新しい一週の私たち一人ひとりの歩みが、少しでもあなたの御心に適うものとなりますようにお導きください。

戦争や災害や、差別、貧困で苦しんている方々を、どうかあなたが支えてくださり、私たちにその救済の道を生きる力をお与えください。

他者のために働く人々を支え、力づけてください。

主の名によって祈ります。                   アーメン。

 

  •  讃 美 歌     290(おどり出る姿で)

https://www.youtube.com/watch?v=KO8rI-pUnuU

  •  献  金
  •  頌  栄  28

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

  •  黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。