なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(3)「人となった神」ヨハネ1:14-18

この日の説教はほとんどシュラッターによっています。

 

1月22(日)降誕節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   151(主をほめたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編111編1-10節(讃美歌交読文125頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書1章14-18節(新約163頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   433(あるがままわれを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-433.htm

⑨ 説  教  「人となった神」(1)         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

クリスマスから既に一か月が過ぎようとしています。イエスの降誕を祝うクリスマスの時に、マタイ福音書やルカ福音書のイエス誕生物語と共に、よく読まれる聖書箇所にロゴス讃歌と言われているヨハネ福音書の最初の箇所があります。特に1章14節の言葉です。新共同訳では、「言(ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」です。

 

言(ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。原文ではこの文の頭にカイがありますので、「そして言(ロゴス)は肉となって、・・・」と、「そして」があります。この「そして」は、これから語ることを強調しているものと考えられます。既に10節で「言(ロゴス)は世にあった」と言われています。<「世」(コスモス)は被造物全般と同義語ではなく、特に人類とその領域を意味するときに用いられています>ので、言(ロゴス)は人類の一員となり、私たちと同じ本質を持つ交わりの中にはいったことが、すでに述べられているのです。

 

私たちの生の在り方を規定するしるしは、肉です。ですから、証言者ヨハネは、ここではっきりと「言(ロゴス)は肉となった」と言っているのです。一人の人間が、言(ロゴス)から成った。それは徹頭徹尾言(ロゴス)の業であり、形成物であった。彼は、真の正しい人間であった。私たちと同じように血肉をとったが、全く言(ロゴス)によって造られ、言(ロゴス)に満たされ支配されていた。したがって彼は、言(ロゴス)の啓示に奉仕する。彼は、真に全く私たちの生の在り方にあずかっていた。このような彼の人間的な在り方において、彼は神の言(ロゴス)からなったものであった。そして、神の言(ロゴス)がこの世に現臨し、働き、啓示されるその器であった。言(ロゴス)は肉体となった。それは偉大なる神の行為であった。なぜなら、それは人間の中に、神の子らが起こるために、この世にこられたからである」(シュラッター)。これが「言(ロゴス)は肉となった」ということなのです。

 

〔言(ロゴス)は〕わたしたちの間に宿られた」。「宿られた」は「住んだ」ということですが、この言葉は直訳すると「天幕を張った」になります。言(ロゴス)は私たちのところに住んだ。そして私たちの間に天幕を張ったのです。「かつて律法はイスラエルの中に神の住みたもう所として聖なる天幕〔幕屋〕を造った。今や、その代わりに、何か新しい、より崇高なことが起こった。神の現臨が、イエスにおいて与えられた。このお方において永遠の言(ロゴス)が、時間の中に、地上に現れた。イエスが弟子たちと共に生きたその時を、ヨハネは、その生の最高の、最も聖なる時と考える。当時神の聖所は、彼らの所に存在した。そして言(ロゴス)が住まわれる、生きた幕屋が、彼らに伴っていた」(同)と言うのです。

 

わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節後半、新共同訳)。イエスにおいて、神の独り子が永遠の言(ゴゴス)によってその生を受けたことが明らかとなったのです。もちろん、彼の肉は、神の言(ロス)と生命をおおっているものに過ぎません。しかし、そのような形をとったのは、隠れたままでいようとされたからではありません。かえって、言(ロゴス)が啓示されるために、言(ロゴス)はこの人間を生み、そこに満ちたのです。「それゆえ、イエスの人間としての生涯から、神の栄光が輝き出た。ヨハネは、そのことを証しして、『わたしたちはその栄光を見た』と言っているのです。「言(ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことよって、使徒ヨハネ〕は教会に向かって、キリストの栄光を見た者として語ることができるのです。それゆえ使徒は、彼の教会メンバーの前で、自分の知識と経験から福音を語ることができる者として立っているのです。

 

  言(ロゴス)によって成った人間にとって、神は父であり、彼はその子です。しかも、神の独りの子です。彼のように神とその言(ロゴス)によって生き、輝き、彼と同じ位置に置かれた、神の子はほかに存在しません。何回もではなく、ただ一回、言(ロゴス)は肉体となりました。そのように言(ロゴス)は、いかなる仲間をももっていない御子を、創造したのです。神の愛は全くその御子に所属し、その御子を神は、自らと全く一体の交わりの中に置くのです。そのような交わりを、いかなる者といえども、御子と共に分かつことはできません。このように誰も分かつことのできない、神の愛と賜物の所有から、イエスの生を貫き通す栄光が流れ出ているのです。ヨハネは言います、<私たちが彼において見たものは、御父がその独り子とどのように関わっているかという、その在り方に対応しているのである>と。

 

  イエスが御父からその栄光として与えられた良きものは、ただ単に、御父の力に、見える形であずかることのみならず、とりわけ、その内的霊的な本質の中にありました。つまり「彼は恵みと真理とに満ちていた」。福音書記者は、それによって出エジプト34:6の聖書の御言葉を取り上げているのです。神はモーセに、神の栄光の何ものかを見させようとした時、モーセの前で、「慈しみ(恵み)とまこと(真理)とにおいて大いなる〔神〕」と自らを呼んでおられます。神がモーセの前で、自らを現わしたように、神はイエスにおいて啓示されたのです。ヨハネは、イエスとの交わりを顧みて、「その御生涯において、しみも傷もなく、たえず真理と恵みとが見られた」と言っているのです。そのお方は、自らの中に偽りや冷酷や憎しみの場所を持ちませんでした。真理は明るい光の中に、彼はそのすべての思いと言葉をもって立たれました。彼のすべての意味と行為は恵みから流れ出て来たのです。恵みと真理、この二つは互いに分ち難く結びついています。恵みは、真理を私たちに役立つ、私たちのための祝福の行為とします。それは、私たちをいやしめたり、追い払ったりしないで、私たちを立ち上がらせ、生き生きとさせるのです。そしてまた、真理は恵みに真剣さと力とを与えます。したがって、そのいつくしみ(恵み)からは、決して遊び事が出てくるのではありません。それはまた、悪をはぐくみ育てたりはしません。むしろ、悪を勝利をもって克服し、そして神を啓示するのです。ちょうど、生命と光とが一つになっているように、この二つはいっしょになっています。恵みは与える、そして、死を私たちから取り去り、生命を附与します。真理は輝かす。そして恵みを見えるようにし、私たちに恵みを確信させるのです。

  

このようにヨハネは、イエスが神性の中に立っていることを、はっきりと語っています。それゆえイエスが、いかにすべてのものをはるかに高く越えてそびえておわれるか、イエスが洗礼者、使徒たち、モーセ、そのほか、すべてのものがイエスの下に置かれるこの相違において、私たちはイエスを、ただひとりの御子として、永遠なる神の言(ロゴス)として認識するのです。

 

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(15節、新共同訳)。「洗礼者は、全くはっきりと、真剣に力強く、イエスが永遠なる世界からきたお方であることを証ししました。その際福音書記者は、二つのことに強調点を置いています。一つは、ヨハネがキリストのことを、どのように述べたかというその仕方です。その次は、ヨハネがそのキリスト証言を、あいまいな形ではなくはっきりと、いかにこの人間イエスに関わらせたかということです。ヨハネはイエスを指さして、キリスト〔救い主〕にふさわしいものをもち、まさにキリストそのものであるお方だとしました。洗礼者が、約束されたお方のくるのを預言した、この点を、福音書記者〔ヨハネ〕が、特に強調しているわけではありません。約束の救い主がくることについては、聖書の中にはっきり語られていました。そして当時イスラエルは、聖書を熱心に読んでいたから、そのようなお方がくるという確かな、しっかりとした希望をもっていました。それに対して、洗礼者〔ヨハネ〕の預言者的言葉は、神がそのお方に与える特別な性質と栄光とにかかわっていたのです。洗礼者は、上なるものに源をもつキリストの永遠性を証ししました。それゆえ洗礼者ヨハネは、自分をそのお方の下につく奉仕者として位置づけ、そのお方の証人となったのです。彼はそのための特別な機会をもっていた。というのは、彼が、イスラエルで活動を始めると、預言者として、自分のまわりに群れを集めたからです。それはイエスが現れる前でありました。洗礼者ヨハネは神の支配を通し、自分のあとに続く者となったお方が、より若い、より遅れた者であるかのような印象を与えることを拒否しました。イエスと神との関係は、時間と歴史の経過の中で初めて形成されたものではありません。このようにイエスは、確かに、その地上における奉仕の点では、洗礼者のあとに従う者ですが、本当は洗礼者がキリストのあとに従う者であったのです。しかし洗礼者は、キリストが最初のお方として父のもとにおられたゆえにこそ、その預言者的職務に召されたのです。しかしながら、きたるべきお方の姿がより高く上がれば上がるほど、私たちすべての者と全く同じように、人間的弱さをもって地上に立つ一人の人間の中に、約束の成就となるお方を認める時、そのお方の歩みはそれだけにいっそう大きなものとなったのです。それゆえ福音書記者は、ただ単に、一般的にキリストについての洗礼者の証言を思い起こさせようといているのではなく、むしろ、洗礼者が、この人、イエスを指さし、「この人こそ、最初のお方である」と言ったことを思い起こさせているのです。神の永遠性からそのいのちがあふれ出ているゆえに、このお方の前に、洗礼者は膝をかがめるのです。

 

エスは人となった神です。私たちは神に逆らって肉の思いを貫き、弟アベルを殺したカインの末裔ではないでしょうか。神を排除して成り立っている世は闇の世です。闇の世で人間は人間として壊れていくしかありません。罪と死の支配から自由になれないのです。人となった神であるイエス・キリストの栄光、その満ち溢れた恵と真理によって、私たちは罪と死から自由にされ、神の子として生きてゆくことができるのではないでしょうか。その意味で、神がイエスを私たちの所に遣わせてくださったのは、闇の世に支配されている私たちを救い出すためなのです。イエスの到来は、神による新しい人間創造の出来事です。教会がそのイエス・キリストの福音をドグマにして、心の慰めとして私物化しているとすれば、それは福音に反するのではないでしょうか。

 

言(ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。

 

エスの誕生を祝うクリスマスは、12月のクリスマスの時期だけではなく、一年を通じての出来事であることを忘れてはなりません。この闇の世に、私たちと同じ肉体を持った神の独り子、人となった神であるイエス・キリストが、私たちを兄弟姉妹として神の国へと招いていることを覚えたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
  • 今日は、ヨハネによる福音書から、人となった神であるイエスについての証言を聞きました。今私たちは、この世界も私たち人間も壊れていっているのではないかと、恐れています。余りに人間も自然も、その命と営みに破れを感じているからです。神さま、あなたが人となったイエス・キリストを信じ、私たちをイエスの兄弟姉妹にさせてください。そのことによって私たちが人間本来の姿である、互いに愛し合う者になることができますようにお導きください。
  • 今壊れかかっているこの世界の中で、命と生活が脅かされている人々を支えてください。権力と資本をもつ者たちを分かち合いの心と行動をとるように導いてください。
  • 神さま、ロシアのウクライナへの軍事侵攻によって、世界は、軍事力に頼る方向へと動いています。日本の政府もその方向に邁進しようとしています。しかし、力によっては、平和は来ません。平和は、違いを持った者が互いに相手を尊重し、対話によってもたらされるものです。憲法第9条に即して、日本政府を対話による外交努力によって世界に平和をもたらす方向へとを導いてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩   281(大いなる神は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-281.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                        

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。