なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(1)「初めに言があった」ヨハネ1:1-5

1月8(日)降誕節第3日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   431(喜ばしい声ひびかせ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-431.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編104編24-30節(讃美歌交読文114頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書1章1-5節(新約163頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   579(主を仰ぎ見れば)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-579.htm

⑨ 説  教  「初めに言があった」         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日は2023年になって、会堂で行うはじめての礼拝です。毎年一年が終わって、新しい年のはじめには、再出発というか、新しい年を、思いを新たにして始めていこうという決意のようなものを、私たちは持つのではないでしょうか。一般的には、除夜の鐘を聞きながら、いろいろなことがあった一年の終わりを確認し、初詣によって新しい年への願いを祈り、希望を持って歩み出すのです。最近は、私たちの中にあったそういう慣習もなくなりつつあるかも知れませんが、今は新年の初めであるのは事実です。

 

「初め」は何事においても、非常に重要な意味を持っています。「始めよければ終わりよし」と言われます。「最初が順調ならば、最後までうまくいく。また、最初をしっかりと注意してかかれば、最後まで全体がうまく行く」という意味です。「はじめ」という言葉には、最初という意味と共に、 物事の起こり、起源、根源。 順序のいちばん先、序列の第一という意味もあります。私たちにとって、生きていくときの一番の根源になっているもの、何よりも第一に考えなければならないことは何なのでしょうか?

今日からヨハネによる福音書から語りかけを聞いていきたいと思いますが、ヨハネによる福音書の著者は、その福音書を「初めに言があった」と言って始めています。「言」は原文では「ロゴス」です。田川さんはこのヨハネ福音書の最初の言葉を、「はじめにロゴスがあった」と訳しています。そして、その註解でこのように述べています。

 

「さんざん迷った末に、訳さずに片仮名で書くことにした。翻訳としてはやってはいけない手抜きの禁じ手であるので、申し訳ありません」と言って、ロゴスを片仮名にした理由として、ロゴスのもつ深い意味をあげて、こう述べています。「御存じのlogosという語だが、周知のようにこの語は『言葉』という意味と『理性』という意味がある。…この語に両方の意味が同時に含まれているということは、十分に理解がつく。現代人はほとんど失ってしまった感覚だが、…『言葉』というものは人間のいとなみの中でも特に際立っている叡智のいとなみ、ほとんど不可思議な水準の事柄であって、その驚くべき現象について古代人は畏敬の念を持って接していた。僅かな音声を発することによって、非常に複雑な意味が人から人へと伝わっていく。言葉はまた心理的な力を持つから、人の心を支配することもある。日本語でも昔の人は『ことだま』という言い方にその趣旨の感覚を託した…。他方『理性』という意味は基本に『計算』『数学』の能力を頭に置いている。これはまた古代人にとっては、商売上の算術からはじまって、複雑な数学まで発展させていく計数の能力の基本にある理性は驚くべき水準の事象であったのだ。そういったすべてのことを含む『ロゴス』という語が本質的には神的な機能を表わすものとされ、特別な存在と思われるようになった。これを単に「言葉」と訳したのでは、そこに含まれるニュアンスの多くが消えてしまう」(p.80)

 

そこで私も「言」を「ロゴス」と言い表したいと思います。ヨハネによる福音書の冒頭の言葉、「はじめにロゴスがあった」は、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」に対応しているように思われます。≪初めに》とは天地創造の時を指します。ですからこのヨハネによる福音書の冒頭では、創世記1章の天地創造の記事が想定されていて、神が「光あれ」と言われた時、初めて天地創造が始ったのだから、ロゴスはあらゆる被造物が造られるより先にあり、創造以前に存在していたと主張しているのです。「あらゆる時間と歴史を越えたもの、永遠のはじめを意味す」と言っているのです。

「ロゴス」がこのような意味での〈初めに〉あったとうことは、この「ロゴス」がいかなる過ぎ行くものによっても粉砕されず、常に新しく力に満ち、私たちを命あるものへと高めるものであることを示しています。そしてロゴスは被造物ではないので、神に属する存在であり、神が語りかけた時に神と共にあり、神と本質的に等しいと言っているのです。

 

神をロゴスと言い表している例は、新約聖書中ではいわゆるヨハネ文書に僅かに見られるに過ぎませんが(Ⅰヨハネ1:1、ヨハネ黙示録19:13)、ヨハネ福音書の冒頭のロゴス論と内容的にきわめて近い思想がコロサイ人への手紙1:15-20に展開されています。少し長くなりますが、その箇所を読んでみたいと思います。

 

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてものもは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。

 

「ロゴスは神と共にあった」と言われていることで、神との密接な交わりが示され、さらに「ロゴスは神であった」と言われるに及んで、「ロゴス」の本来的性格が明らかに規定されています。最初の句の「神」には冠詞がつき、次の句でそれが落ちていることにより、「ロゴス」が神の本質を持っていること、すなわち父なる神と同質であることが示されています。「ロゴス」のみが神なのではなく、父なる神、聖霊と共に「ロゴス」が三位一体の神の第二格の神であるのです。このロゴスが受肉したのがナザレ人イエス・キリストであるから、ここで言おうとしているのは、キリストの先在という点と、人間イエスが神と等しい者だという点とにかかわっていると見てよいでしょう。

 

2節になると、「ロゴス」の性格がもう一度はっきりと規定されています。すなわち「ロゴス」は神と共になるのではなく、最初から共にあるのです。それは「世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光」(17:5)と言われるものです。キリストが天地万物の創造の前に神と共にあったと宣言されており、キリストが被造物ではないことが確認されています。その上での受肉(14節)が語られるのです。

 

3節になりますと、キリストたるロゴスは被造物ではなく最初からあったこと。そして、天地創造に神と共に参与したのだと明言されています。「万物はそれ(ロゴス)によって生じた。そしてそれ(ロゴス)なしには何一つ生じなかった」(田川訳)と。具体的には光にしても、天地分割にしても、植物・動物にしても、すべて神の語りかけによって、つまりロゴスによって創造されたことを、内容としています。これと似通った思想は、コリント人への第一の手紙8:6〈万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている〉、コロサイ人への手紙1:16〈万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子によって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである〉、ヘブライ人への手紙1:2〈・・・また、御子によって、もろもろの世界を造られた〉などの箇所に見られます。ヨハネが「万物はロゴスによって成った」(「すべてのものは、これによってできた」)という場合、「ロゴス」が偶然に創造の仲保者となったということではなく、あくまでも三位一体の神の永遠のご計画に属するとうことを意味しているのです。

キリストの先在を言うのはフィリピ2:6-11の、いわゆるキリスト讃歌の中にも出てきますが、キリストの先在のみならず天地創造への参与を明言しているのは先ほど紹介したコロサイ1:15-18とこの箇所です。

 

4節になりますと、「ロゴス」と並んで、「命」と「光」という二つの新しい概念が導入されます。この二つはヨハネによる福音書全体にわたって見られる重要な概念です。これらは旧約聖書の創造物語において重要な役割を果たしていますが、ヨハネはこれを、世界創造という宇宙論的な形から次第に、イエス・キリストによる神の救いという救済論的な形へと展開して行きます。すなわち、イエス自身命と光であり、そのイエスを世に遣わして、神が世に審判をもたらしたのです。それは人々に真の知識を与え、彼らの内を照らすことにより人々を審きに服せしめるためです。被造物を造ったのがロゴスであるから、存在を存在たらしめた力、新しい存在を生まれさせる命であるという理解が当然出てきます。ロゴスは単なるコミュニケイションの媒体であるばかりでなく、神の意志であり、働きかけであり、力・命なのです。この命なしには人間は立ち得ません。なぜならば人間は被造物の内でも「神の像に似せて」造られた人格的存在であり、神の呼びかけ、神からの愛・信頼なくしては、そして、その神に応答し、愛し返し、信じ返すことなくしては存在し得ないものだからです。

 

そして5節では「光」と「暗闇」とが対照されていますが、ヨハネはここでペルシャギリシャ思想に見られる二元論的立場をはっきりと否定します。「暗闇」は「光」と共存するのではなく、完全にこれによって克服されるのです。「理解しなかった」(「勝たなかった」)とは、「克服しない」「把えない」「理解しない」とう意味です。被造物が造られる前には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」と考えられていました(創世記1:2)。光が最初に造られたとき、それは暗黒の中で燦然と輝いていたのです。つまり、ロゴスに命があり、それが光り輝いていたのであれば、ロゴスが光として現れたと言ってもよいでしょう。イエスは自らを「光」と呼び(8:12,9:5,12:35,36,46)、またイエスを信じる者たちを「命の光を持つ」(8:12)とか「光の子」とか言っています(12:36)。しかし、暗黒は光とは二元論的対立においてとらえられ、イエスを拒むこの世の代表者たちを指す言葉ともなります。ここでも「暗闇は光を理解しなかった」と過去形で断定的に宣言されています(10-11節参照)。「理解しなかった」という部分は協会訳では「勝たなかった」と訳されています。原語では「把握する・捕捉する」という意であるのでどちらの訳も可能です。

 

このように創世記の天地創造との関係で1-5節が記されているのは、この福音書がまさに第二の創造について記そうとしているからであり、第一の創造の時に働いた「ロゴス」が、今回は肉となり地上において人間をその罪から救い出すために十字架にかかり、第二の創造すなわち救済の秩序をもたらしたということを言おうとしているのです。

 

私たちは、ヨハネ福音書の著者が語るロゴスなるイエスが、私たちの中に第二の創造をもたらしたことを見失ってはなりません。罪と死の支配の下にある私たちを、そこから救い出(解放)して、神の子どもとしてイエスと共に神の国を生きる者へと、今も私たち一人一人を導いてくださっているロゴス・イエスの命の働きの力強さを確かなものとしつつ、この新しい年の、ますます厳しくなっていくに違いない歩みを生き抜いてい行くことが出来ますように。主の助けを祈りつつ、この新しい年に向かって歩み出していきたいと思います。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日は新しい年のはじめての会堂での礼拝をもつことができ、心から感謝いたします。去る2022年の1年の歩みを、あなたの支えの下に過ごすことが許され、今私たちは2023年の新しい年の歩みを始めたばかりです。神さま、この年もさまざまな困難と私たちは向か合うことになるかと思いますが、ロゴスであり、神であるイエスの光と命によって、どんなに小さな芽であっても、この世界に義と平和と喜びをもたらすことができますように、お導きください。
  • 神さま、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が、一刻も早く停止しますように。世界の為政者に、武力ではなく、対話による問題解決への力を与えてください。競争ではなく、分かち合い助け合う関係をつくりだすことができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 今さまざまな苦しみにある人々に、他者からの具体的な支援とあなたの助けが与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩  255(生けるものすべて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-255.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                        

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。