なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(57)「ろばの子に乗って」ヨハネ12:12-19

4月28(日)復活節第5主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   203(今日こそ主の日なり)

https://www.youtube.com/watch?v=25v_ZrWxbIM

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編106編1-5節(讃美歌交読文117頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書12章12-19節(新約192頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    280(馬槽のなかに)

https://www.youtube.com/watch?v=SlooyKq21TE

⑨ 説  教  「ろばの子に乗って」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

先程司会者に読んでいただいたヨハネ福音書の箇所は、イエスエルサレム入城の物語です。このイエスエルサレム入城の物語は、共観福音書にも記されていますが(マタイ21:1-11,マルコ11:1-11,ルカ19:28-44)、ヨハネ福音書では、特にラザロの復活の出来事との関りで描かれていて、そこに特徴があるように思われます。そのことを踏まえて、今日は、ヨハネ福音書のイエスエルサレム入城の物語から、語りかけを聞きたいと思います。

 

先ずヨハネが描くイエスエルサレム入城の出来事を、順を追って見ていきたいと思います。

 

12節に「その翌日」とありますが、イエスは、ベタニヤでマリアがイエスの足に高価で純粋な香油を塗り、自分の髪の毛で拭ったという油注ぎの出来事があった翌日(すなわち過越の祭の五日前)エルサレムに入ります。祭りのために来ていた群衆は、しゅろの枝を手にして彼を迎え、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」と叫びます(13節、口語訳)。(「しゅろの枝」は、新共同訳では「なつめやしの枝」となっていますが、田川さんはこの訳は疑問としています。田川さん自身は「椰子の葉」と訳しています。口語訳は文語訳の「棕櫚の枝」を継承して「しゅろの枝」と訳しています。棕櫚は椰子科の植物で、椰子科の植物で普通日本で見られるのは棕櫚だけなので、こう訳したのであろうと、田川さんは言って、「しゅろの枝」という訳もあり得るだろうと述べています。ですから、受難週の始まる日曜日を「棕櫚の主日」と呼んでいるのも、このヨハネの箇所からとされていますので、ここでは「しゅろの枝」とさせてもらいます)。

 

この「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」という叫び声は、詩編118編25,26からの引用になっています。群衆が「しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った」と言われている「迎える」は王侯貴族の出迎えを表わす用語で、「ホサナ」とは、「どうぞお助け下さい」という意味です。このホサナ(どうぞお助け下さい)は、群衆がイエスのために叫んだもので、そうすることによって群衆は、イエスのために神の特別な守護を願ったのです。ですから、群衆は、エルサレムに入城して来るイエスを、旧約聖書が預言する救い主(メシヤ)として迎えたのです。ヨハネは、このイエスを歓呼して迎えた群衆を、ラザロが死人の中からよみがえらされた奇跡の現場に居合わせた群衆と重ね合わせて描いています(17-18節)。

 

群衆がイエスに何を期待していたのかがここに示されています。群衆は、ローマに対抗してユダヤダビデ王の時代の繁栄を回復するメシヤをイエスに期待していたのです。いわば力のメシヤ、政治的な「王」(メシヤ)への期待でありました。しかし、この群衆によって「王」と呼ばれているイエスは、どのような王なのでしょうか。14節によれば、彼は「ろばの子という優しい動物に乗って入城するのがふさわしい王――平和の君であることを示されます。そして福音書記者は、15節で、イエスがそのような姿で入場されたのは、ゼカリヤ9章9節の「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」という言葉の成就であったと、説明を加えています。そして、16節では、<弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した>ということを記しています。すなわち弟子たちは、イエスの十字架の後に初めて、聖霊の助けによって、この出来事の意味を知ったというのです。

 

17,18,19節も、福音書記者の説明ですが、彼はそこでもう一度、あのラザロの復活の出来事以来のことを振り返ります。そして、エルサレムの人びとがしゅろの枝を手にしてイエスを迎えたのは、ラザロの復活を経験した群衆のあかしに起因することであったと、言います。すなわち、イエスは、死の力に対する勝利者として、エルサレムに入城してこられたのです。そこでパリサイ人たちは、絶望的な気持になって、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」などと呟きます。

 

これが、ヨハネ福音書におけるイエスエルサレム入城の記述であります。ここにおいては、イエスイスラエルの王であることが強調されています。ヨハネはイエスイスラエルの王であるとの主張のゆえに処刑されたことを知っていたのだと思います。しかしこの処刑はローマの総督の判断の誤りによるものでありました。この点は受難物語においてこれから明らかにされていきますが(18:33-40,19:1-6,12-16,19)、すでにここにおいても、イエスがいかなる意味における王であるかが示されています。

 

ヨハネ福音書では、6章の五千人の供食の出来事において、群衆がイエスをこの世の王にしようとしたとき、彼は「ただひとり、山に退かれた」(6:15)と記されています。しかしこの12章では、イエスは群衆の歓呼をあびても退くことなく、彼はメシヤ的王としてエルサレムに入城します。「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)からです。ただ彼は、群衆の熱狂的期待に水をさすかのように、ろばの子を見つけそれに乗って、エルサレムに入城していきます。敵を撃退する軍馬ではなく、貧しい人々の柔和な家畜であるろばの子に乗ってです。他者を犠牲にするためにではなく、自分自身を十字架の死をとおして犠牲にするために、イエスエルサレムに入城していくのです。まさしくその自己犠牲において、彼は栄光を受けるのです。

 

(以下はほぼ川島貞雄さんによっています)。

 

川島貞雄さんは、「他者に徹底的に仕えて十字架にいたるイエスの生は、彼が今乗っているろばの姿と重なり合う」と言って、以下のフランスの宗教詩人ジャム(1868-1938年)の詩を紹介しています。

 

柊(ひいらぎ)の生垣沿いに歩いて行く

やさしい驢馬がわたしは好きだ

 

驢馬は貧しい人を乗せたり、

燕麦(えんばく)のいっぱいつまった袋を運んだりする。

 

やさしい心の乙女よ、

お前にも驢馬ほどのやさしさはない。

 

理由は、心のきれいな驢馬は

何時も神さまの前にゐるからだ。

 

それなのに驢馬は哀れにくたびれて

家畜小屋の中にいる。

 

哀れな四本の足を

すっかり使い果たしたので。

 

     (『世界詩人全集』第五巻、河出書房)

 

エスも低く貧しい者として、十字架の死にいたるまで低く貧しい人々に仕えとおしました。このような者として彼は王であると、ヨハネは言っているのです。イエスは弟子たちの足を洗う僕として王でありまあす(13:1-20)。イエスはゼロータイ(熱心党)のような政治的革命家と見做そうとするすべての試みはここで挫折しています。確かにイエスは、ゼロータイと同様に、体制順応主義者ではありませんでした。イエスユダヤ社会の根幹としてある律法に対して自由な態度を取り(例えばマルコ2:27)、カイザルを頂点とするローマ帝国支配の絶対化を批判しています(マルコ12:17)。しかし、暴力による秩序の破壊や革命的戦闘への呼びかけは、イエスに無縁です。イエスは権力への志向そのものを放棄します(マルコ10:42-45)。イエスは憎悪と暴力、合法性と報復の悪循環を愛と自己放棄の実践によって断ち切ることを要求します。しかしイエスの要求は政治的権力者をもゼロータイをも憤慨させたにちがいありません。保守主義者も革命家も権力志向の放棄に同意することはないからです。上を目指す世界はイエスを受け入れることができず、彼を抹殺しようとするのです。イエスの道は下に向かう愛と奉仕の道、自己放棄の道であり、そのきわみである十字架の死において、彼は栄光を受けるのです。群衆の歓呼の中でろばの子を見つけ、その上に乗ってエルサレムに入城するイエスの振る舞いは、十字架に向かう愛と奉仕の道を象徴するものなのです。

 

愛と奉仕のイエスの道はキリスト者だけでなく、非キリスト者もつねに惹きつけて来ました。マハトマ・ガンジーキリスト者ではありませんが、敵への愛を教えるイエスの言葉は、彼の生涯に大きな影響を与えました。キリスト者であると否とにかかわらず、理性と人間性を持つ者は、イエスの歩んだ愛と奉仕の道のみが抑圧と憎悪、暴力と報復という暴力の悪循環を断ち切る賢明な道であることを認めるでしょう。その道は決して愚かでも夢想的でもないことを認めるだろに違いありません。力の論理はこの世界の問題に真の解決をもたらしません。残念ながら今は、日本の政治家はもちろん、他の国の政治家の中にも、ガンジーのような人は見当たりません。力の論理が世界を覆っていて、戦争がウクライナやガザで起きていて、その他の地域でも起こり兼ねないほどに、世界は大変危機的な状況です。

 

キリスト者はイエス道のたんなる賛同者、同意者ではなく、徹頭徹尾イエスにのみ従う者であります。だがわれわれは受難を十字架によって特色づけられる「卑賎の道」をイエスに従って歩もうとしているでしょうか。「あなたがたも去ろうとするのか」(6:67)という十二弟子に対するイエスの問いに、われわれは無関係と言えるでしょうか。教会の道と課題を考えるとき、神がイエスの十字架の深淵においてその創造物を新しくされ、ご自身の栄光をあたわされたことを忘れてはならないと思います。権力志向者ではなく、自らを下にむけて方向づけることこそ、イエス・キリストの教会の基本線ではないでしょうか。絵画的に表現するならば、われわれはろばではなく、軍馬に乗ろうとしてはいないでしょうか。イエスの道はこの世界ではしばしば批判、嘲笑、妨害、死の危険に直面します。しかし、そのときにも、キリスト者はイエスから離れないで、単にイエスの後を追うのではなく、彼に従う者なのではないでしょうか。

 

エスの道は愚かでも夢想的でもありません。勇気を要求するだけです。この勇気の源泉は死の克服者としてのイエスへの信仰にほかなりません。イエスはいまや死の克服者としてエルサレムに入城するのです。彼の道は十字架の死にいたる「卑賎の道」ですが、同時に、死からの復活、天への高挙、栄光の道であります。ラザロの復活によって予め指し示された死に対する究極的勝利は、イエスの十字架、復活、高挙をとおして表現されているのです。弟子たちはそのとき、ろばに乗るイエスの道がゼカリヤの預言した神の道、新しい生命の道であることを――聖霊の助けによって――知ることができるのです。いまやイエスの弟子は苦難と死にいたるイエスの道を、新しい生命への道として歩む勇気を与えられます。ボンフェッファーが処刑に直面して言い残した言葉には、この信仰の勇気が簡潔に、しかも明確に言い表されています。「これは最後です。しかし、私にとっては、生命のはじまりです」。

 

ろばの子に乗ってエルサレムに入城したイエスに倣って、戦うための軍馬ではなく、平和をもたらすろばの子に乗って、イエスと共に生きていきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

  •   

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、ろばの子に乗ってエルサレムに入城したイエスの十字架への道行きにこそ、現在のような力による他者の支配に代わる、私たちが互いに仕え合って生きる神による新しい世界創造が示されていることを覚え、心から感謝いたします。どうか私たちが上に向かってではなく、下に向かって生きていくことができますように、私たち一人ひとりを導びいてください。
  • 今日本政府は、戦争を前提にした軍事力の強化に邁進しています。どうか軍事力によっては平和は生まれないことを為政者に気づかせてください。
  • 戦争や貧困という私たち人間が造り出す悪を取り除いてください。そのために苦しむ人々を支え、助けてください。また、災害や病気で苦しむ人々を支えて下さり、その一人一人に希望をお与えください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌    309(あがないの主に)

https://www.youtube.com/watch?v=iGgXPT2w1kU

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。