なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(95)

   「耳を貸さない」 エレミヤ書36:9-19、2018年6月3日(日)船越教会礼拝説教


・前回にも触れましたが、預言者エレミヤは、初期の約20年間の預言を口述し、書記のバルクに巻物に筆

記させました。エレミヤはバルクにその巻物に記された預言=神の言葉を、断食の日にエルサレム神殿

読むように命じます。神殿に参拝に来た人々に聞かせるためにです。何らかの事情でその時、エレミヤは

神殿に入ることが出来なかったからです。そうしたのは、<この民に向かって告げられた主の怒りと憤り

が大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪のみちから立ち帰るかもしれない>(7節)

という期待からでした。


・バルクはエレミヤに命じられた通り、<巻物に記された主の言葉を主の神殿で読>みました(8節)。今

日の所では、その経緯が詳しく述べられています。9節から10節にかけて、<ユダの王、ヨシヤの子ヨヤ

キムの治世の第5年9月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての

人々に、主の前で断食をする布告が出された。そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの

言葉を読んだ>と記されています。つまり、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第4年(1節)に巻物

に記せとの命令があり、第5年(9節)に朗読されたということになります。


・バルクによって巻物に記されたエレミヤの預言が朗読されたのは、シャファンの子ゲマルヤの部屋でし

た(10節)。その部屋は、<主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあ>りました。その

部屋からは、下に集まる群衆をよく見渡すことができたと思われます。バルクが巻物に記したエレミヤの

預言を読み聞かせた時に、それを聞いた群衆がどんな反応をしたのかについて、このエレミヤ書には何も

記されていません。おそらくエルサレム神殿に参拝に来た群衆、ユダの国の民は、巻物に記されたエレミ

ヤの預言を聞いても、エレミヤが期待したようには、その<告げられた主の怒りと憤りが大きいことを

知って、…主に憐れみを乞い、それぞれ悪のみちから立ち帰る>(7節)ということは起こらなかったのか

もしれません。巻物を読み聞かせるバルクによって、エレミヤの預言を聞いても、群衆は心動かされな

かったのでしょうか。


サイレント・マジョリティーという言葉があります。「静かな大衆」ですが、「物言わぬ多数派」とい

う意味で、積極的な発言行為をしないが大多数である勢力のことです。かつてアメリカのニクソン大統領

が、1969年11月3日の演説で「グレート・サイレント・マジョリティ」とこの言葉を用いました。当時、

ベトナム戦争に反対する一部の学生などにより反戦運動が行われており、メディアなどから注目を受けて

いました。しかしニクソンは、「そういった運動や声高な発言をしないアメリカ国民の大多数は、ベトナ

ム戦争に決して反対していない」という意味でこの言葉を使いました。論理的に言って「反戦運動を行わ

ない」ことが即ち「戦争を支持する」ことを意味するわけではありません。そのような論理的矛盾を承知

の上で、「異議無き(=沈黙)は同意とみなす」という詭弁として用いた論理であります。当時、兵役を

回避しながら、親から貰ったお金で大学などに行きつつ反戦運動をする学生などに対して、アメリカ国内

では高学歴の富裕層や穏健的な中流層から、保守的な低所得者層の労働者たちまでの広範囲な層が反感を

強めていました。実際に1972年アメリカ合衆国大統領選挙ではニクソンは50州中49州を獲得し、圧勝した

のです(ウキベディアより)。


・そのようなサイレント・マジョリティーとして、断食の日にエルサレム神殿に参拝したユダの国の人々

は、ユダの王、ヨシヤのヨヤキムを下から支えていたのかも知れません。


・ちょっと余談になりますが、サイレントマジョリティーをインターネットで調べてみましたら、欅坂4

6(けやきざかフォーティシックス)のサイレントマジョリティーという歌があることを、初めて知りま

した。その歌の歌詞の一節にこのようフレーズがあります。<どこかの国の大統領が/言っていた(曲解

して)/声を上げない者たちは/賛成していると・・・//選べることが大事なんだ/人に任せるな/行

動しなければ/NOと伝わらない//君はきみらしくやりたいことをやるだけ/One of themに成り下が

るな/ここにいる人の数だけ道がある/自分の夢の方を歩けばいい/見栄やプライドの鎖に繋がれたよう

な/つまらない大人は置いて行け/さあ未来は君たちのためにある/NO! と言いなよ!/サイレトマ

ジョリティー>。


・<歌詞は「声を上げない者たちは 賛成している」のと同じだというベトナム戦争時代のリチャード・

ニクソン大統領の言葉を彷彿とさせる台詞が登場し、AKB48のような同じ衣装を着て踊るマニファク

チャード・ガール・グループ(manufactured girl group)として生まれながらも、自らに対し「似たよ

うな服を着て」と自己否定論を投げかけることによって、自我に目覚め、自分たちの現状に一石を投じる

ような、学生運動を思わせる内容になっている。秋元康によれば、一見すると彼女たちの立場は矛盾を抱

えているように見えるが、そこには良心の叫びがあり、そのような叫びを出発点とする彼女たちが、これ

からどのような道を切り開いて行くのか、期待を込めて作詞した>そうです。


・バルクが巻物を読んで語ったエレミヤの預言は、断食日にエルサレム神殿に集まったユダの国の民であ

る群衆に向かって、「NO!と言いなよ!」と勧めたのではありません。悪の道から神の下に立ち帰って

生きることでした。エレミヤの預言はユダの国の民の群衆一人一人の良心に向かって呼びかけているのだ

と思います。しかし群衆はその呼びかけに応えることなく、エルサレム神殿を立ち去って行ったのでしょ

う。


・むしろエレミヤの預言を聞いて反応したのは、役人たちでした。しかし、役人たちの反応は、エレミヤ

の預言に自分の良心に従ってそれぞれが応答するというわけではありませんでした。役人たちはバルクを

呼び寄せて、改めて巻物を読み聞かせてもらいました(15節)。すると<その言葉をすべて聞き終わると、

彼らは皆、おののいて互いに顔を見合わせ>(16節)と言われています。ですから、役人たちはエレミヤの

預言を聞いて、衝撃を受けたことは事実だと思われます。<彼らは皆、おののいて互いに顔を見合わせた

>と言われていますから。しかし、その衝撃は、役人たちがそれぞれ悪の道を悔い改めて、神の下に立ち

帰る>ということではありませんでした。


・<彼らは皆、おののいて互いに顔を見合わせ、バルクに言った。「この言葉はすべて王に伝えねばなら

ない」。>(16節)と。そして役人たちは、<更に、バルクに尋ねた。「どのようにして、このすべての言

葉を書き記したのか教えてください。彼の口述ですか」。バルクは答えた。「エレミヤが自らわたしにこ

のすべての言葉を口述したので、わたしが巻物にインクで書き記したのです」。>(17,18節)。


・すると<そこで役人たちはバルクに言った。「あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい。だれにも居

どころを知られてはなりません」。>と。これらの役人たちは、ヨシヤ王の改革にたずさわった人物の身

内も含まれており、預言者に協力的であったと思われます。しかし、それ以上ではありませんでした。エ

レミヤの預言を自らに向けられた神の言葉として聞き、悪の道を悔い改めて、神の下に立ち帰るまでには

至りませんでした。


・その意味では、巻物に記してバルクが読み聞かせて語ったエレミヤの預言に、断食の日にエルサレム

殿に参拝した大勢のユダの国の民である群衆も、役人たちも、「耳を貸さなかった」と言えるのではない

でしょうか。


・「耳を貸さない」、聞こうとしない人々に向かって、預言を語る。これほど空しいことはないと思われ

るかも知れません。けれども、エレミヤはそのようには考えていなかったのではないでしょうか。エレミ

ヤが神によって語るように命じられた預言は、その預言が語られる時に、その預言の言葉に耳を傾ける者

を神が必ず起こしてくれるという信仰です。


ヨハネ福音書8章には、真理をめぐるイエスとイエスの反対者達との論争が記されています。そこで、

真理を語るイエスを殺そうとしているイエスの反対者に向かってこのように語っています。<あなたがた

は、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺し

であって、真理をよりどころとしてはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、

その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るか

ら、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうちに、いったいだれが、わたしに罪があると責める

ことができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言

葉を聞く。あなたがたが聞かないのは神に属していないからである>(8:44-47)。


・イエスにも敵対者・反対者がいて、イエスはその敵対者・反対者によって十字架につけられ、殺されて

しまいます。しかし、イエスの為したこと、語ったことは、イエスの死を超えて今も語り伝えられていま

す。そしてそのイエスの福音によって、人間としての真実に生き得る喜びを得ている人もたくさんいま

す。


・それゆえに、時が良くても悪くても、語るべき神の真実を語り、その神の真実に従って生きる者へと、

わたしたちも招かれているのではないでしょうか。預言者エレミヤが「耳を貸さない」人々に向かって、

託された預言である神の言葉を語り続けたことを思います。それを歪めて語ったり、歪めてた形で聞き取

るのではなく。イエスが「わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あ

なたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:31,32)と言われたことを、しっか

りと心に止めて、真理に留まり続けたいと思います。