なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(56)「イエス香油を注がれる」ヨハネ12:1-11

4月21(日)復活節第4主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   224(われらの神 くすしき主よ)

https://www.youtube.com/watch?v=2DRg5OEE410

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編118編1-12節(讃美歌交読文129頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書12章1-11節(新約191頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    403(聞けよ、愛と真理の)

https://www.youtube.com/watch?v=q8NcSOBT7VU

⑨ 説  教  「イエス香油を注がれる」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今年は既に受難週もイースターも終わっていますが、今日のヨハネ福音書の箇所は、イエスが受難と十字架に至る転換点になる、ラザロ復活後にベタニアであった出来事が記されています。

 

ラザロの復活の出来事の後、ユダヤの政治的権力と宗教的権威を兼ね備えた大祭司らは、議会を招集して、イエス殺害を決議しました。<それで、イエスはもはや公然とユダヤ人の間を歩くことなく、そこ(ベタニア)を去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された」(11:54)のです。しかし、過越祭が近づいたので、<過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれ」ました(12:1)。<そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがい>ました(同)。そこで、イエスのために夕食の用意がなされます(12:2)。このヨハネの記事には、誰の家でイエスのために夕食が用意されたのかについては記されていません。同じ記事がマルコ福音書(14:3-9)、マタイ福音書(26:6-13)にもありますが、両福音書では場所は「重い皮膚病の人シモンの家」ということになっています。この同じ記事は大分形を変えてはいますが、ルカ福音書にもあり(7:36-50)、ルカ福音書では「あるファリサイ派の人」の家ということになっています。ヨハネ福音書にはイエスが食事をされた家については、はっきりと記されていません。マルタ、マリア、ラザロの家ではなかったようで、彼らはその食事の席に連なっていたと思われます。

 

12章2節以下を読んでみます。<イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(327.45グラム)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった>(ヨハネ12:2-3)と記されているだけです。ここには、マルタ、マリア、ラザロという3人の姉妹と弟のそれぞれのイエスとの関りの在り様が現われているように思われます。

 

ヨハネ福音書では「マルタは給仕をしていた」(ヨハネ12:2)とだけ記されています。しかし、ルカ福音書では、マルタは、イエスの足もとに座って、イエスの話に聞き入っているマリアに対して、イエスに「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10:40)と言っています。それに対してイエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んで。それを取り上げてはならない」(ルカ10:41,42)と言って、マルタの振る舞いより、マリアの振る舞いの方を評価しているのです。けれども、ヨハネ福音書では、そのようなことは一切記されてはおらず、ただマルタとマリアとラザロがイエスとの食事の席でどう振る舞ったかが記されているだけです。

 

森野善右衛門さんは、このマルタ、マリア、ラザロの三者三様のイエスとの関わり方から、私たちイエスを信じる者の応答としてのイエスとの関りの在り様の違いを見ています。そしてイエスは誰の応答が優れていて、誰の応答が劣っているというような評価をすることなく、それぞれなりの応答(証言)をそのまま受け入れていると言うのです。そのことを森野さんの記述に即して考えてみたいと思います。

 

「マルタは給仕をしていた」と記されていますが、マルタは、活動的・行動的な女性として描かれています。マルタはこのヨハネ福音書では、ルカ福音書とは違ってつぶやかず、その行動によってイエスに仕えています。私たちの中にも、イエスへの信仰をその行動で表している人は多くいるのではないかと思います。信仰者の中には、とかく理論と観念が先に立って、実践が伴わないことがよくあります。私もどちらかというとそういう面が勝っていると思っています。けれども論じたり話し合ったりすること自体は、大切であり意味があるのですが、ただそのことに終始していてはならないと思うのです。マルタはここで、「給仕する」という具体的な行動・実践をなすことによって、イエスに対する感謝をあらわしていると思われます。私たちは、このようなマルタの行動的信仰から、多くのことを学ぶことができます。阪神・淡路大震災以来、私たち日本でもボランティア活動が広く受け入れられるようになりました。このボランティアの精神的伝統は、マルタの行動に由来しているのかも知れません。

 

ラザロはどうでしょうか。彼もいっしょの食卓に加わっていたのですが(ヨハネ12:2)ここでは一言も話していません。おそらくその食卓に連なっている人の中には、彼自身の口から、死んでよみがえらされたその喜びの経験を直接に聞いてみたいと思う人がいたと思われますが、しかし彼は黙して語りません。森野さんは、ラザロは沈黙していますが、しかしイエスと共なる食卓の席にいるというだけで、彼はすべてをかたっているのではないか、と言っています。ラザロもまたここで、彼なりの仕方で、イエスを囲む夕食の席に共に連なることによって、イエスによって救われ、生かされていることの喜び、感謝を語っているのでないかと、言うのです。そういうイエスへの応答の仕方もあるということです。何も語らす、何もしないけれども、そこにいる。共につらなることによって、ラザロは独特の仕方でイエスに応答しているのです。ラザロはきわだった才能の持主ではなく、平凡で目立たない人であったようですが、しかしそのラザロを、ヨハネ福音書では、イエスは特別に愛されたと言われています。このイエスの愛に対して、ラザロは、共にいることで十分に応えているのです。イエスと共にいること、共に生きることが最大のイエスへの応答なのだ、ということをラザロはここで証ししているのではないでしょうか。

 

ではマリアはどうだったでしょうか。ここでマリアがした応答は独特のものでした。彼女は高価で純粋なナルドの香油一リトラを持って来て、それをイエスの足に塗り、自分の髪の毛でそれをふいたのです。その香油は、300デナリ(労働者のほぼ一年分の賃金)にも相当する高価なものでした。このマリアのした行為の意味は何だったのでしょうか。またその場に居合わせた人たちはどういう反応を呼び起こしたのでしょうか。前にも述べましたマタイ、マルコの箇所では、イエスに香油を注いだのは、「ひとりの女が」となっており、ルカの話では「罪の女」(7:37)となっていて、ヨハネの記事とは符号しません。同じ話が初代教会ではちがった風に伝えられていたと思われます。とにかく、このマリアは、当時の労働者一年分の収入に匹敵するほどの高価な香油を、ヨハネ福音書では惜しげなく、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったと言うのです。この奇想天外な行為は、人びとの非難と憤りを呼び起こしました。マルコでは「ある人々が」、マタイでは「弟子たちが」、そしてヨハネでは特に「ユダが」と名前入りの記述になっているのが注目されます。「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに施さなかったのか」(5節)、それは無駄な浪費ではないか、とユダはその非難をマリアに向けます。

 

このユダの非難は、それとして一応もっとものようにも思われます。しかし問題は、ヨハネ福音書の記者が注記しているように、ユダが本当に貧しい人たちのことを思いやっているので、マリアがイエスの足に塗った高価な香油を売って、貧しい人々に施すべきだと言っているのではないというところにあります。ユダの言葉とその心とは、かけ離れていたのです。そこにユダの自己矛盾があり、ユダの打算がありました。金銭に換算することがいけないというのではありません。問題は、その計算高い言葉の奥にある心です。ユダは「自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった」(6節)と言われています。彼は、自分の不正をごまかすために、その責任をマリアに転嫁しようとして言っているのです。一見巧みな、筋道の立ったユダの言い分の奥には、打算と責任の転嫁があることが見透かされます。

 

さらに考えさせられることは、この世には金銭に換算することのできない価値があるということです。人間の流す涙の価値、生命の価値、死から生へとよみがえらされたラザロの生命は、金銭に換算することのできないものです。マリアはここで、自分の心の中にあるイエスに対する感謝と愛を表現するために、あえて高価なナルドの香油を、惜しみなくイエスの足にぬったのです。浪費とは何か、節約とは何か。貯えること自体は、決して私たちの人生の目的ではありません。それは真に意味あることのために用いられてこそ、貯えもまた生きてくるのです。今、ここで、真に必要なことのためには、惜しみなく高価なものを捧げて悔いないところに、マリアのイエスを愛する応答の大切さがあります。愛という名の打算がこの世にはいかに多いことでしょうか。森野さんは、私たちの生きている現実の世界は、ギブ・アンド・テイク(与えて、取る)の世界だからという割り切り方に、私たちは慣らされているので、金銭を超えた価値に対して、いつのまにか鈍感になってしまっていることが多いのではないでしょうか、と言っています。

 

<イエスは言われた。「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」>(7-8節)。このイエスの言葉は、マリヤに対する最大級の賛辞です。彼女は、イエスに対する感謝と愛を表現したたけではなく、やがて来るべきイエスの死と葬りのための備えをしたのだ、というのです。それは、イエスの死体の塗油の先取り――受難の前兆という深い意味と計画の中において見られるとき、彼女のした行為はまさに、十字架への道に赴こうとするイエスに対するタイムリーな備えの行為であったといえるのです。

 

香油のかおりが家いっぱいになりました。イエスが受けとめたマリアの真心からなる、彼女の大切にしていた香油注ぎによる、イエスに対して彼女の応答が、しかしユダの目から見ると、愚かしい浪費と狂気に見えたということです。ここでは同じマリアの行為が、イエスとユダとでは、全く正反対に評価されていて、この裂け目の大きさは、もはやふさぐことができないほどのものです。このイエスの世界とユダの世界との決定的なへだたりが、ユダの裏切りを生み出すことになるのです。ユダの方が、いかにも合理的であり、さらに人間的であるかのように思われます。しかしそこに私たちは、神の意志に反する悪魔的な誘惑がしのびこんでいるのを見分けるだけの、賢く鋭い目を持たなければならないのであります。

 

シュラッターはこのように言っています。「ユダには、イエスの貧しさと僕の姿は、愚かなものとして捨て去られます。ユダはイエスに仕えず、逆にキリスト(イエス)を自分に仕えさせようとします。したがって、イエスの十字架の道は完全にユダには通じませんでした。かくしてユダはイエスに背きます。イエスの十字架への歩みに際して、ユダは目標を失ったからであります」と。

 

今もイエスの世界とユダの世界のどちらを、あなたは歩むのかという問いかけが、私たちに向けられています。マルタとマリアとラザロの三人の姉妹と弟は、イエスによるラザロの死からの甦りという過分な恵みを受けて、イエスの世界にそれぞれなりの仕方で共に在ろうとしているのではないでしょうか。マルタは給仕をすることによって、またラザロはイエスを囲む食卓に黙って共に与ることによって、そして、マリアは自分の持てる大切な香油をイエスの足に塗り、自分の髪でぬぐうという行為によって。私たちもこの3人の姉妹と弟のように、自分なりの応答をもって、一人一人の命の尊厳を大切にし、それに仕えて、十字架に極まり、復活して今も私たちと共にいたもうイエスの世界に留まり続けたいと願います。

 

主がそのように私たち一人一人を導いて下さいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、イエスの生涯と十字架と復活の出来事によって既にもたらされている、私たち人間が本来生きるべき、何よりも命を大切にするイエスの世界に、私たちも共に与ることができますように、私たち一人一人を導いてください。
  • けれども現実のこの世界は、私たち人間の高慢によって、小さくされた人の命が傷つけられ、場合によっては奪われています。そのことによって、イエスの世界は見えないものにさせられています。神さまどうか、私たちが見える人間の高慢と罪による世界ではなく、見えないイエスの世界に生きていくことが出来るように導いてください。
  • 戦争や貧困という私たち人間が造り出す悪を取り除いてください。けれども今その私たち人間によって引き起こされている戦争や貧困で苦しむ人々を支え、助けてください。また、災害や病気で苦しむ人々を支えて下さり、その一人一人に希望をお与えください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌    567(ナルドの香油)

https://www.youtube.com/watch?v=R4y-seGpNeE

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                        

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。