なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(52)「この病は死に至らず」ヨハネ11:1-6

3月17(日)受難節第5主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌   152(みめぐみふかき主に)

https://www.youtube.com/watch?v=DNC8hfvxebg

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編22編23-32節(讃美歌交読文24頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書11章1-6節(新約188頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     300(十字架のもとに)

https://www.youtube.com/watch?v=7Tjo4BmEwMY

⑨ 説  教   「この病は死に至らず」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネ福音書の中にはいろいろな奇跡物語がありますが、死人が甦らされたというのは、このラザロの復活の奇跡以外にはありません。しかもヨハネ福音書では、このラザロの復活の出来事を境にして、イエスの生涯は急速に十字架の方に向かって行きます。11章の終わりに近い53節に、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書いてあります。ヨハネ福音書の記者は、祭司長・ファリサイ派の人たちがイエスを殺そうとして計画を立てた、その重要な原因を、ラザロの復活の出来事に見ているわけです。そういう意味でも、この奇跡物語は大切であると言うことが出来ると思います。

 

ヨハネ福音書10章では、前回学びましたように、イエスが「わたしは良い羊飼いである」と言われたことが契機となって、イエスに対するユダヤ人たちの憎しみがますます激しくなりました。10章39節、40節には、<そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」と、記されています。そこへ、ラザロが病気になったという知らせがベタニヤからイエスのもとに届きます。そのことが、1節から4節までに、次のように書いてあります。

 

<ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」>。

 

今読みました2節に、<このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である>と書いてありますが、マリアがイエスの足にナルドの油を注いだという出来事は、このヨハネ福音書では、次の12章に初めて出てきます。それが、11章にこのように書いてあるということは、マリアの油注ぎの出来事は、当時の人々にはよく知られて出来事であったのでしょう。そのことを踏まえて、ヨハネ福音書の記者は11章2節にこのように記したのだと思われます。

 

マルタとマリアの姉妹については、ルカ福音書10章にある有名な、イエスを姉妹の家に迎え入れ、もてなしをするマルタとイエスの足下に座ってじっとイエスの言葉に聞き入るマリアという対照的な姿の物語などで、ヨハネ福音書の読者にもよく知られていたと思われます。このマルタとマリアの家は、エルサレムの郊外のベタニアにあって、イエスがしばしば訪れて憩いの家とされていたのでしょう。このヨハネ福音書の記事は、イエスがここの家族を愛し、その姉妹を深く愛しておられたことをよく伝えています。

 

この二人の姉妹がよく知られていたのに反して、その弟ラザロは、このヨハネ福音書だけにしか出て来ません。

 

ところで、そのラザロが重い病気になったということで、姉のマルタとマリアが、ヨルダン川の向こう側におられるイエスのもとに使いを送り、3節にあるように、「あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせます。3節の始めには、原文では「そこで」(岩波、シュラッター「それで」田川)という言葉が入っています。これは姉妹たちが、病気の弟ラザロのことを深く心配して、イエスに知らせ、イエスの助けを得たいという気持ちを示しています。またイエスなら必ず知らせを聞いてすぐかけつけて来て下さるにちがいないという期待もあったに違いありません。なぜなら、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」(5節)からです。

 

ここには、イエスに愛されている者であっても、他の人々と同様、病気になる場合があることが記されています。ベタニヤのラザロは「イエスが愛しておられた者」で、よく知られた二人の敬虔な姉妹の弟でありました。そのラザロが病気で、しかも瀕死の重病であったと言うのです。イエスを信じているからと言って、私たちは病気や死に襲われないというわけではありません。イエスを信じるキリスト者も、他の人と同じように病気になることがあり、必ず死ぬのです。病と死に満ちた世界に生きる私たちは、いつの日か、必ずそれを経験するでしょう。病気は、その本質からして、生身の体への試練にほかなりません。私たちの身体と魂は不思議なほど密接に関係していますので、病気は私たちの身体を悩ませ、弱めるだけでなく、ほとんど間違いなく心と魂も悩ませます。しかし、病の折にも、健康な時とおなじように、イエスは私たちを愛しておられると確信し、忍耐を持ち、喜びを失わないようにしたいと思います。

 

ラザロが病気になった際、その姉妹はすぐにイエスに使いをやり、問題を彼に告げました。彼女らが送った伝言は、すぐに来て、奇跡を行ない、病気を追い出してくれとは頼んでいません。ただ「あなたが愛しておられる者が病気です」とだけ伝え、イエスが最善をなされると心から信じ、すべてをゆだねたのです。愛する者が病気になれば、当然、その回復のために十分な手だてを尽くすべきであります。最良の医学的処置をなす努力をいとう必要はありません。可能なあらゆる方法で、健康をそこねる病と闘い、健全な生活を送る努力をすべきであります。しかし、そうする時にも、ベタニヤの姉妹たちのように、私たちが信じるイエスが病者に対する愛とあわれみといつくしみに富む方であることを忘れてしまわないようにしなければなりません。

 

私は連れ合いが直腸がんステージ4で、肝臓にも肺にも転移している状態で、1年半ほど抗ガン治療を続けて召されましたが、その経験を通しても、可能な限り病と闘う治療を続けることはもちろん、そのことと共に病者を愛してくださっているイエスに信頼して身を委ねることの大切さ思わされました。先ほど「病気は私たちの身体を悩ませ、弱めるだけでなく、ほとんど間違いなく心と魂も悩ませます」と言いましたが、彼女は心も魂も最後まで平静を保っていたように思います。

 

さて4節のイエスの言葉ですが、この言葉で、イエスは、すでにラザロの病気という出来事において、これから何が起ころうとしているのかということについて、語られます。その一つは、このラザロの病気の最後は死では終わらないということです。マルタとマリアの使いの者からラザロの重病の知らせを聞いたイエスは、「この病気は死で終わるものではない」(4節)と言っています。「死で終わるもの」は原文では「プロス・サナトン」ですから、このところは、<この病気は「死に向かって」はいない>(「その病気は死に至るものではなく」田川訳)と訳せます。

 

そして、もう一つは、この病気は「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われています。このラザロの病気を通して、むしろ神が栄光を受けられ、イエス自身が栄光を受けられるというのです。この言葉を聞いて、私たちがすぐに思い出すのは、9章の生まれつきの盲人の癒しのところでも、イエスがこれに似た言葉を語られたということです。イエスが道端で物乞いをしえいる生まれつきの盲人の姿を見て、「この人が生まれつき盲人なのは、神の御業が彼の上に現われるためである」と言われました。その言葉を思い出します。その言葉の場合と同様に、ここでもイエスは、ラザロの病気という出来事を通して、神とイエス御自身が栄光をうけられるということを言っておられるわけです。しかし、この場合には、それだけではありません。この場合には、イエスはあの9章の場合よりもさらにそれ以上のことを、語っていると思います。というのは、このヨハネ福音書でイエスが「栄光を受ける」という言い方をされている場合には、必ずと言ってもいいほどに、イエス自身の死を指して言っているからです。例えば12章23節で、イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っていますが、それは、彼が十字架につけられて死ぬべき時が来たという意味です。ですから、今日のこの4節でも、ラザロの病気によってイエス自身が栄光を受けると言われる場合に、このラザロの病気という出来事が、イエスの十字架への道行きに繋がり、イエスの死に繋がるということを見据えながら、この言葉を語っているのです。

 

それにしてもラザロが病気であるという知らせを聞いて、イエスはすぐにベタニヤにかけつけようとはしませんでした。6節には、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」と記されていいます。このイエスの態度は、この姉妹とその弟を愛しておられる方らしからぬ冷淡な態度のようには思われはしないでしょうか。イエスは、ラザロが病気だという知らせを使いの者から聞いて、すぐにベタニヤに向けて出発することなく、二日もヨルダンの向こうの地に留まっていたというのです。しかし、それは一体なぜなのか、なぜイエスはすぐにベタニヤに向けて出発しなかったのか、その理由については、ここには何も書いてありません。その理由は少し先の14節、15節でイエス自身によって明らかにされることになります。そのことについては次回触れたいと思います。

 

5節の「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」という言葉に注目したいと思います。このマルタ、マリア、ラザロの三人の姉妹兄弟の性格は、それぞれ異なっていたと思われます。マルタに関しては、他のところに「いろいろなことを心配して、気を使って」いた、と記され、マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」と語られています。ラザロについては特筆されてはいません。けれども、これら三人のすべてがイエスに愛されていたと言われているのです。彼らはみな、神の家族に属し、イエスは彼ら全てを愛されたのです。このことからライルはこのように言っています。

 

キリスト者を評価する場合、この点を十分に覚えていなければならない。いろいろな性格の者がおり、恵みの神はすべての信仰者を一つの鋳型にはめ込まれないことを絶対に忘れないようにしよう。キリスト者であることの土台は常に一つであり、神の子らはすべて悔い改めの経験を持ち、信仰があり、きよく、祈り深く、みことばを愛する者であることを十分承知しながらも、その気質や感じ方の傾向にはかなり幅があることを受容すべきである。他の人たちが自分と同じでないからといって、過小評価してはならない。園にある草花は様々であるが、園の所有者はすべてに関心を持っている。一つの家族の内いる子どもたちは互いに驚くほど異なっているが、両親は全員に気を配っている。キリスト教会においても同様である。信仰の程度や恵みの賜物の種類は様々であるが、最も小さく、か弱く、頼りない信仰者であっても、全員が主イエスに愛されている。だから、弱点があるからといって信仰者に気落ちさせないように、ことに兄弟や姉妹を軽んじたりみくびったりしないように心がけよう」。

 

ライルはキリスト者について言っているのですが、キリスト者であろうと非キリスト者であろうと、私たち人間が共に一つの土台に立って生きているとすれば、その土台は、イエスがその一人一人を十字架の極みまで愛されたということ、そしてそのイエスを神が甦らせたということではないでしょうか。十字架と復活の主イエスがすべての人を愛し、見守っていることを信じ、教会でもこの世でも異質な他者を受け入れ合い、互いに愛し合う者として私たちが生かされていることを証言していきたいと思います。

 

主がそのような証言者として、私たちをそれぞれの場で立たせてくださいますように!

  

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたはイエスを通して、マルタ、マリア、ラザロの姉妹兄弟を愛されたように、私たち全てを愛しておられます。どうか、そのようなあなたのイエスを通した愛を、私たちが他者と共に生きる土台として、日々を歩むことができますように、お導きください。
  • 残念ながら、この社会では、私たちは他者との競争の中に置かれ、争いと奪い合いの中で互いに傷つけ合っています。どうかそのような現実を、互いの受け入れ合い、愛し合うことによって克服していくことができますように。
  •  
  • ウクライナやガザでの戦争をはじめ、軍事支配や民族紛争が、一刻も早く終結しますように。今日本政府は、武器輸出を可能にし、軍備の増強をはかって、戦争の準備に力を注いでいます。どうかその力を平和外交に向けるように導いてください。
  • 差別や貧困、気候変動や地震などの自然の災害で苦しむ人々に救済の手が添えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   479(喜びは主のうちに)

https://www.youtube.com/watch?v=9wTkGlsA6B0

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。