なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(33)「受肉した命に躓く」ヨハネ6:41-50

9月24(日)聖霊降臨節第18主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    351(聖なる聖なる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-351.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編49編13-20節(讃美歌交読文53頁)

 

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書6章41-50節(新約176頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   342(神の霊よ、今くだり)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-342.htm

⑨ 説  教    「受肉した命に躓く」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書の6章は、5000人の供食の奇跡の後、22節からはイエスと5000人の供食の奇跡に与った「群衆」との対話になっています。今日の箇所である6章41-50節もその対話の続きになりますが、41節の冒頭ではイエスとの対話の相手が「ユダヤ人たち」となっています。

 

ヨハネ福音書で「ユダヤ人たち」と言われる場合、著者はユダヤ人のえげつなさを意識して記していると言われます(田川)。一方では、ユダヤ教の権力者を恐れ、他方では、「ユダヤ人」として、他に圧力を加えるのです。自分より力の上の者には卑屈になるが、下の者には横柄な態度をとる人のことです。

 

41節は、そのような「ユダヤ人たち」が、イエスが「私は天から下って来たパンだ」と言ったので、イエスのことについてぶつぶつ文句を言ったというのです。今日の箇所の49節、50節に、ユダヤ人の先祖の出エジプトの物語の一節であるマナの物語が出てきます。その物語では、モーセに導かれて、奴隷として抑圧されていたエジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を彷徨していた時に、空腹になって、「エジプトにいたら、肉鍋が食べられたのに」と「つぶやいた」と言われています。その時天からマナが与えられて、イスラエルの民は飢えをしのいだという物語です。その時の、イスラエルの民の「つぶやき」と重ねて、ヨハネ福音書の著者は、この「ユダヤ人たちのつぶやき」を記していると思われます。

 

「この者はヨセフの子イエス、その父親と母親を我々が知っているあのイエスではないか。それがどうして、自分は天から下ってきた、などと言うのか」(42節、田川訳)。

 

ユダヤ人たちは、イエスがヨセフの子であることに躓いたのです。彼らは、イエスの父はヨセフ、母はマリアで、イエスは兄弟姉妹の中の長子であるということを知っていたのでしょう。そのイエスは自分たちと同じ平凡な人間であり、大工の息子であるわけです。イエスが何を語り、何をしているのか、その言葉や行動、生きざまそのものを、自分たちがよく知っているヨセフの息子であるということで、「ユダヤ人たち」は受け容れることができずに、イエスに躓いてしまったのです。イエスが自分たちと同じ平凡な一人の人間であるにも拘わらず、「天から下って来たパン」と言われたことが、彼らには許せないことであり、従って、ぶつぶつ文句を言い始めたと言うのです。

 

この「ユダヤ人たち」の躓きは、最初期のキリスト教史の中で現れたと言われる、イエスが人であることを否定する「キリスト仮現論」に通じるものと言えるかも知れません。イエスは仮の人間の姿をとったので、私たちと同じ人間になったのではないという考え方です。後の教会が正統信仰とした、「イエスはまことの人であり、まことの神である」という教義からすると、異端とされたものです。

 

ヨハネ福音書の著者はプロローグのロゴス讃歌のところで、神である「言(ロゴス)は、肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としえの栄光であって、恵と真理とに満ちていた」(1:14、新共同訳)と、イエスについて語っています。これは、まことの神がまことの人間になったという受肉の真理について語られている言葉です。

 

<イエスは一人の人間であった。神はその独子をこの世に送り、一人のユダヤ人、大工の子としてわれわれのただ中に送り、しかもそのイエスを通して神のみ旨と神の真理を明らかにしてくださった。ここにキリストの受肉の秘儀がある。公生涯に先立つ荒野の誘惑において、サタンはイエスに超人間であることを要求し、それによって人々の衆目を集めることを迫った。しかしイエスはこの誘惑を厳しく拒否し、ただの人間として、見るべき姿なく、貧しく、弱い一人の人間としてあらわれた。イエスの生涯は飼い葉桶からゴルゴダへ至る全き人間の生涯であった。そしてそれが神の意志であった。ヨセフの子イエスの中に神は働き、イエスにおいて神はわれわれを引き寄せ(引っ張っ)てくださるのである。ヨセフの子イエスが、天から下った生命のパンであることにつまずかない者は幸いである。なぜなら、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはせきない」(14:6)からである>(船本弘毅)とヨハネ福音書は語っているのです。

 

ユダヤ人たちに答えて、ヨハネ福音書のイエスはこのように語っています。「互いの間でぶつぶつ言うな。私を遣わし給う父が引っ張って下さるのでなければ、誰も私のもとに来ることはできない。そして私はその者を終りの日に復活させるであろう。預言者に書いてある、そしてすべての者が神に教わる者となるであろう、と。父から聞いて学んだ者は、私のもとに来るのである。誰かが父を見たというわけではない。神の傍らからの者は別だが。この者が父を見たのである。アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、信じる者が永遠の生命を持つ」(43-48節、田川訳)。

 

「引っ張る」という語は、重い荷物を力一杯引っ張る時に用いられる語です。ヨハネ福音書21章1節以下に、復活したイエスが七人の弟子に現れる記事があります。その中に、シモン・ペテロをはじめ弟子たちがティベリアス(ガリラヤ)湖に漁に行く話が出ています。弟子たちは夜中漁をするのですが、魚は一匹もとれませんでした。しかし、その時弟子たちはまだ気づいていませんでしたが、岸に立っていた復活されたイエスから「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われ、「彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった」(6節)。「網を陸に引き上げると、百五十三匹の大きな魚がいっぱいになった」(11節)というのです。この「引き上げる」という語が、第6章の「引っ張る」と同じで言葉なのです。それは力の限りをつくして、漁師たちが力を合わせて引っぱったことを表しています。使徒言行録では、捕えられた囚人パウロとシラスが役人たちに引きずって行かれた」(16:19)という時に、同じ語が用いられています。

 

「私を遣わし給う父が引っ張って下さるのでなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(44節)とヨハネ福音書の著者が語る時、人がイエスのもとに来ることができるのは、何よりも神の絶大な恵みと導きと選びであることを告白しているのです。そこには人間が何かをするとか、人間の功績の入り込む余地は全くありません。ただ神の恵みによって、と告白する他はないのです。

 

しかしそのことは、人間の意志に反してとか、無理やりに力づくで引っ張りこむことではありません。そこには、パウロが「しかし、神の恵みによって、わたしは今あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」(Ⅰコリント15:10)と言っていますように、「神の恵みによって」と「だれよりも多く働いている」という緊張関係があるのです。信仰は与えられ、受けるものありつつ、主体的決断を要請します。

 

アウグスチヌスはこのように言っているそうです。「あなたはあなたが望む望まないにかかわらず、無理に引っ張られると考えてはならない。けだし心は愛によってひらかれるのである。ある詩人が言っている。各人は自分の欲望にひかれると。そうであるならば、まして真理・幸福・正義・永遠の生命にひかれる人間であれば、キリストにひかれるはずである。父はいかにして人を引くかをみよ。強制的ではなく、ご自分の教えにより人間の心を楽しませるということによって、このように人間をひくのである」。

 

それはちょうど、弟子たちが自分たちの生計を立てる手段であった舟や網を捨ててイエスに従ったように、またパウロが、自分にとって益であったすべての物を、キリストのゆえにすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っていると述べて、体を伸ばしつつ神の賞与を追い求めたように(フィリピ3章参照)、イエスに引っ張られて、それまでの自分の生活からイエスに従って生きる生へと導かれていくのです。それは、私たちにおいても同じではないでしょうか。

 

「イエスが答えて、彼らに言った、「互いの間でぶつぶつ言うな」(43節)。ユダヤ人たちのつぶやきは、神に引っ張られてイエスの所に行こうとしないで、自分の所にとどまって、イエスについてああだこうだと批評しているに過ぎないということではないでしょうか。ヨハネ福音書の著者は、そのような「ユダヤ人たち」のつぶやきに不信仰を見ているように思われます。それに対して、ヨハネ福音書のイエスは、「私を遣わし給う父が引っ張って下さるのでなければ、誰も私のもとに来ることはできない」と言い、「父から聞いて学んだ者は、私のもとに来るのである」と言って、<人間にではなく、神に聞いて学ぶという神との関係が、信仰において、打ち立てられねばならない。イエスを主と告白することのできる者は、神の導きを受ける者であり、神こそ自らの主体であることを認める者である。信じるか信じないかの決定権を自己の理性にゆだねず、神に聞いて学ぶ者である>と言っているのであります。

 

ですから、ヨハネ福音書のイエスは「ぶつぶつ文句を言うな」、つぶやき続ける生活から、信じる生活へと方向を変えるように呼びかけていのです。そこには人間の無知と傲慢、徹底した罪の深さに対するイエスの深い洞察があると言えるでしょう。

 

<人はすべて神に教えられる(45節)。しかし聞いて学ぶ者は必ずしも多くはない。学ぶ者は、聞いたことを理解し、実行する者である。「悪を行なっている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れ、光にこようとはしない」(3:20)。したがって聞いて学ぶ者は、そこに自分の生の根底をゆさぶる悔改めの迫りを受けねばならない。イエスに全く身をゆだねることを恐れ、嫌うところに、神から離れる不信仰が生じ、つぶやきの根源があるのである>(船本弘毅)。

 

<つぶやきを止める者、すなわち父のもとに来る者に対し、神は永遠の生命を約束される。マナで養われたイスラエルの先祖たちは、一時的に飢えをしのぎ養われたが死んでしまった。それは朽ちる食物にすぎない。しかしイエスはいのちのパンである。いのちのパンを食べる者は、イエスを尊敬し好意を持つということに留まらない。それはキリストにすべてをゆだねて生きるということであり、キリストのからだに与り、キリストの復活の生命に生かされることなのである>((船本弘毅)。

 

私たちもしばしば「つぶやく自分」に留まっていないでしょうか。神に引っ張られ、教えられて、命のパンであるイエスを追い求めて生きる私たちひとりひとりでありたいと願います。主がそのように私たちを導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、命のパンであるイエスを信じて、私たちが日々歩むことができますように一人一人をお導きください。
  • ロシアの軍事侵攻によりウクライナでは戦争は1年半が過ぎています。この悲惨な状況をなくすために、一刻も早く戦争が終結しますように。神さま、武力によらない相互理解の道を与えてください。
  • 自然災害や経済的格差によって苦しんでいる人々を助けてください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     56(主よ、いのちのパンをさき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-056.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。