(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」
(ローマ5:5)
③ 讃美歌 149(わがたまたたえよ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-149.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編13編1-6節節(讃美歌交読文14頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書5章41-47節(新約173頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-487.htm
⑨ 説 教 「命に心を閉ざす人」 北村慈郎牧師
祈 祷
ヨハネ福音書のイエスは、信じようとしないユダヤ人たちに、「あなた方は私のもとに来て、生命を得ようと思っていない」(40節、田川訳))」と言われました。今日のヨハネ福音書の5章41-47節は、そのようなユダヤ人についてのイエスの言葉が記されているところです。
ヨハネ福音書の著者(以下ヨハネ)にとって、人間を生かす命は、他の何ものではなく、イエスご自身にこそあるからです。ヨハネは、ヨハネ福音書の中でそのことを繰り返し語っているのであります。ですから、大貫さんが言っていますように、ヨハネ福音書は金太郎あめのように、どこを切ってもイエスは人間を生かす命そのものであるということが語られているのであります。8章12節にもこのような言葉が出てきます。「私は世の光である。私に従う者は闇に歩むことはない。生命の光を持つであろう」(田川訳)。
ヨハネは、イエスを、私たち「人間を生かす命」であり、「世の光」であると言うのです。なぜイエスをそのような存在と言えるのでしょうか。それは、今までもヨハネが繰り返し語って来ているように、イエスが神と一体だからです。
41節に「私は人間から栄光を受けることはしない」(田川訳)」とあります。44節には、ユダヤ人に対して「あなた方は唯一の神からの栄光を求めないのである」(同)と言われていますが、これは、イエス御自身は「唯一の神からの栄光を求めている」ということになります。「イエスは、心が分裂することなく、〔ひたすら〕御父(神)を仰ぎ見て、御父(神)の栄光を現わすことに目標をおいておられる、このことは、その態度によって明らかだからである。もし人びとにとって神が重要であるならば、イエスと同意見になるであろう」とシュラッターは言っています。
42節で、「だがあなた方が自分の中に神の愛を持っていない、とうことはわかった」(同)と、イエスは言って、自分とユダヤ人との根底的な違いを、神の愛を持っているかどうかということにあることを示しています。
イエスの眼には、ユダヤ人たちが行なうことは、神への愛以外の、全く別な根拠から出ていることが、とうの昔に明らかでありました。神への愛が、彼らを動かし、支配しているのではないのです。それゆえ、神への愛に完全に支配されているイエスは、彼らユダヤ人たちと同調することはできません。彼らに逆らわざるをえないのです。
「私は私の父(神)の名において来た。そしてあなた方は私を受け入れることをしない。もしも誰かほかの者が自分自身の名前において来るのであれば、あなた方はその者を受け入れるであろう」(43節、田川訳)。
ここでイエスは、このように言っているのではないでしょうか。「もし私以外の誰か、民衆を教える者が現れ、自分を何か偉大なものであるかのように公言し、神の栄誉は求めないが、一切のことを神の名によって行い、神に栄光を帰そうとはせず、自分に尊敬を集めるようにするなら、あなたがたは、彼を信じ受け入れたでしょう。あなたがたは、真の神の子である私を拒みました。あなたがたは、自分たちの中から来たものならどんな偽り者であっても、たとえその者が、自分たちが礼拝をささげていると公言している神に栄光を帰することをしなくても、いつでも喜んで受け入れるのです。ですから、あなたがたの内に神に対する真の愛がないと言うのは正しいのです」と。
「自分たちそうしてお互いから栄光を受けているあなた方が、どうして信じることができようか。そしてあなた方は唯一の神からの栄光を求めないのである」(44節、田川訳)。
お互いに栄誉(栄光)を受けあっている彼らの思いと目的は、ただ人間にのみ向けられています。各人は、他人からの賞讃に飢えている、そしていつも、いかにしてそれを手に入れ、自分自身を高めるために、他人を利用しようかと、考えているのです。このようにして、彼らが内的にイエスに捕えられ、その考えや意志がイエスに支配されることは、不可能であろう。なぜなら、彼らが人間に与える栄誉(栄光)をつかむ時、神に与える栄誉(栄光)は、大して重要ではないからです。彼らは、人間を高く評価すればするほど、いかなる同類のものとも類比できない唯一の神を忘れ、ないがしろにするのです。ただひとり真に彼らをいと高きところにたかめ、ただひとり彼らの人格と生に存立と成就を与えることのおできになるこの方と比べたら、すべては非本質的で無に等しいのです。イスラエルの神礼拝が人間礼拝に変化していることについてのイエスのこのような嘆きは、マタイ福音書(6:1以下)の中にも見られます。そこで、「あなたがたは人間の栄誉を求めているから、あなたがたの祈りやほどこしはむなしいものになっている」と語っているように、ここでは、「それゆえ、あなたがたの聖書研究も、永遠のいのちへの努力も自己欺瞞にすぎない」と言われているのです。彼らはその心のうちなる愛を不純にし、神への愛を窒息させているゆえに、イエスへの信頼はもはや、彼らの中に場所をもちません。神が重要でない者は、決してイエスを信用することはできないし、神の愛を顧みない者は、イエスのもとに来ません。
イエスが御自身に対する神の証しについて語ったことは、イスラエルに対する告訴となりました。彼らの不信仰の原因は、イエスの中にあるのではなく、彼ら自身の中にあるのです。また彼らの理解力の弱さにあるのではなく、彼らの愛のごまかしの中にあるのです。にもかかわらず、イエスは、彼らを神に訴える告訴人ではありません。むしろ、彼らを訴える者が別にいるのです。
「私があなた方を父に対して告発する、などと考えてはいけない。あなた方を告発する者はモーセである。あなた方はモーセに望みを託してきたのだ。つまり、もしもあなた方がモーセを信じたのならば、私を信じたはずだ。モーセは私について書いたのだから」(45,46節、田川訳)。
ユダヤ人にとって、自分たちの生活が貧しく、むなしく見え、現在が神からの御霊も助けもないように思える時、過去における偉大な神の御業や、古い時代の聖なる人びとが、逃れゆく慰めでありました。何はともあれ、彼らにはモーセが、守り手であり、盾であり、また神の前における誇りの根拠でもありました。彼らは律法を高く評価していたため、神に仕えているという完全な確信をもっていました。天国にいるモーセの弟子だと確かに思っていたのです。それだから、彼らはまた、イエスを非難しました。彼らには、モーセ一人のほか、別な師匠は必要なかったのです。
イエスは、彼らからそういう慰めを奪われ、彼らが信頼しているモーセその人こそ、神の御前に彼らを訴える告訴人として立っていると言うのです。彼らはモーセに対して不信仰であったから、このモーセのゆえに神は、彼らを裁かれるであろうと。おそらく彼らは、モーセに希望をつなぎ、自分たちの聖者・師匠として誇りに思っていたでしょう。しかし、モーセを信じ、その語る言葉に捕えられ、それに服従し、それに導びかれる、このことを、彼らは喜んでする気はありませんでした。モーセを信じたなら、イエスをも信じたでしょう。信仰をもって受け入れられた古い契約の言葉は、イエスの父である神を仰ぎ見るように教えていますし、またその御名によってイエスが来られた、その御父を愛し、イエスが与える永遠の命を目ざし、イエスが裁くものを罪として裁き、神の使者に望みを置き、その使者が来たら、それに聞くことを教えているからです。イエスはここにおいて、モーセをほめて最高のことを語られました。いかなるユダヤ人といえども、イエスがここでしているように、高くモーセを評価している者はいません。イエスにとって、モーセは、今なお神の御前に力強く、有効であります。神は、モーセに逆らって行われたことを罰せられます。イエスは、モーセが御自分の味方であると確信しているのです。それに反して、ユダヤ人は、イエスから遠く離れていると同じように、モーセからも遠く離れています。イエスに対してと同じように、モーセに対しても不信仰です。彼らは、もしモーセを信じたなら、自分たちの中に神の言葉を保ち、神の愛に動かされるでしょう。
「だが、あなた方がモーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私の言うことを信じられようか」(47節、田川訳)。
モーセの言葉は、ユダヤ人にとって、長い間熱心に守られた共同体の伝承として、貴重で、聖なる権威をもち、書物(聖書)の形で現われていました。ところが彼らは、自分たちの手もとに文書の形で律法、また正典として存在する聖書を信じません。まして、すぐ消えてしまい、半分しか理解できないイエスの言葉など、彼らにとって大した意味を持ちませんでした。イエスは、聖書に対し不信仰な者たちを、御自分の言葉によって信仰へとうながすことはできません。ユダヤ人たちは、その神なき姿のゆえに、イエスに至る道を見出させないのです。そのことが、イエスとの間に越えがたい溝を造り出したのです。
今日は「命に心を閉ざす人」という説教題をつけました。今5章41-47を、節を追って学びましたように、ここに出てくるユダヤ人たちは「命に心を閉ざす人」と言ってよいでしょう。イエスは、神の愛によって生きる時に、私たち人間は命を受けて生きる者となることを、自らの生きざま、死にざまで示された方だと言えます。それが神に栄光を帰す、私たち人間のあるべき本来の生であると言うのです。イエスは、私たちを、イエスと共にそのように神に栄光を帰し、神の愛によって生きる者へと招いているのです。母や父の愛を無心に求めて生きる幼子のようになって、神の愛によって本来的人間として生きるようにと招いているのです。イエスが、「幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」と言われたのは、そのことを意味していると言えるでしょう。
「あなた方は私のもとに来て、生命を得ようと思っていない」(40節、田川訳))」。「誇りからか。怠惰からか、罪への愛着からか、世を愛する思いからか。ともかく、多くの者は、イエスにある命を求めようとする意志、願望、心、思いを全く持っていない。…人は、ただじっと立ったままで、命を得るために手や足を動かそうとしない。このことこそ、多くの者が失われたままで救われない(人間として解放されない)理由である」(ライル)
私たちは、「命に心を閉ざす人」としてではなく、命に心を開き、イエスに従って手足を動かしていく人でありたいと切に願います。
主がそのように私たちを導いてくださいますように!
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、気候温暖化によると思われる自然災害や熱波により、また自国優先主義による国家間の争いと戦争が再び力を持ち出して、今現在世界の人々の命と生活が危険にさらされています。神さま、私たちが、国家や民族の枠を超えて、あなたに命をお与えられた者として共に生きていくことができますように、またあなたの与えて下さったこの自然と共生することができますように、導いてください。
- それを、私たちの自分の置かれた身近な場で実践することができますように。
- 経済優先によるか格差社会によって、貧困家庭が増えています。貧困で苦しむ人々の痛みを思う時に、政治によって格差社会が是正され、貧困で苦しむ人々がいなくなる社会となりますように。
- 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 305(イエスの担った十字架は)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-305.htm
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。