今までの説教も自分で発見したものというよりは、ほとんど
既に語られている他者の言葉に共感し、自分の中に取り入れたもの
ですが、ヨハネによる福音書はそれが今まで以上に顕著になっています。
講解説教なので、どうしてもそうなりますが、ご容赦ください。
(23日の日曜日の朝、配信のメールに記したもの)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」
(ローマ5:5)
③ 讃美歌 18(「心を高くあげよ!」)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編97編7-12節(讃美歌交読文107頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書5章30-40節(新約173頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 437(行けども行けども)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-437.htm
⑨ 説 教 「イエスを証しする」 北村慈郎牧師
祈 祷
私たちはイエスを信じている者ですが、ヨハネによる福音書の著者ヨハネ(以下ヨハネ)は、私たちがイエスを信じるか、信じないかによって、人間として本当に生きているか、死んでいるかが決まると、言っているのであります。
なぜなら、真理であるイエスと神は子と父として一体であるからです。5章19節には、「それでイエスは答えて、彼らに言った、「アーメン、アーメン汝らに告ぐ、子は父が何かをなすのを見るのでなければ、自分からは何もすることができない。父が何かをなせば、その事を子もまたなすのである」(田川訳)と言われている通りです。
ですから、ヨハネは、イエスの裁きが正しく、彼には真理があることを主張しますが、同時に、その真理性はイエス自身に由来するものではないということを、くり返し強調しています。「私は自分からは何もなすことができない」という句に始まる30節はその典型であります。「私は自分からは何もなすことができない。聞くがままに裁くのである。そして私の裁きは正しい。私は自分の意志を求めるのではなく、私を遣わした方の意志を求めるからである」(田川訳)。
31節以下の新共同訳の小見出しは「イエスについての証し」です。ヨハネはイエスの独白という形で、31-40節の部分で、イエスがご自身の権威について語られるのは一体何を根拠にして可能なのか、何がそのような権威を「あかし」するのか、ということについて語っています。これが今日の箇所です。
先ずヨハネは「もしも私が自分で自分について証しするのであれば、私の証しは真ではない。私について証しして下さる方はほかにおいでである。そしてその方が私について証しして下さる証しが真である」(31,32節、田川訳)とイエスに語らせています。ここから考えさせられることは、真理のあかしはイエス自身の手の中にさえなかった、ということです。ところが私たちの危険は、真理のあかしを自らの手中におさめようとするということにあるのではないでしょうか。
そのことは、教会の宣教の考え方にも現れてきます。ミッシオ・デイ(神の宣教)は、神―世界―教会です。神が世界に働きかけているのを、教会は証しするのです。これはヨハネのイエスと同じ考え方です。それに対して、西欧のキリスト教世界を原点として発想された世界宣教の歴史は、神―教会―世界というパターンを持っていて、イエスを通して神から受けた福音を教会が受けて、教会の手中にあるその福音を世界に宣べ伝えるという考え方です。それは、真理のあかしを自らの手中にあるもとそして行なおうとする思い上がりではないでしょうか。
真理のあかしは、私たちが自分でしなければならないようなものではありません。私たちが、いささかでもそのように思いこむとき、そのあかしは既にほんとうではなくなってしまいます。ヨハネのイエスは、「ただ聞くままにさばいた」(5:30)、また、「わたし自身の考えでするのではない」(同)と明言しています。それは、「わたしをつかわされたかたのみ旨を求めているから」(同)であります。真理のあかしは、私たちの事柄ではなく、真理そのものの事柄なのです。イエスを生み出し、イエスをとおして出してくる絶対の真理そのものが、つまり、父なる神ご自身が、真理をあかしするのです。人間の論証があかしするのではありません。
もちろん、人のあかしにも意味があります。旧約の預言者たちはそういう人であったでしょうし、洗礼者ヨハネも真理についてあかしをしました。それは決して無意味なことではありませんでした。「ヨハネは燃えて輝くあかりであった」(5:35)と言われています。そしてユダヤ人といえどもそれを喜び楽しみつつ聞いたし、それは救いのために全く無益とは言えません。しかし、ヨハネによる福音書第一章によると、洗礼者ヨハネのあかしは、徹底した自己否定に貫かれていました(1:19以下)。正にこの自己否定のゆえに彼のあかしは一定の役割を持ち得たのですが、だからといってそれは、「人からあかしを受けない」(5:34)というイエスの基本的な態度に変更を及ぼすほどのものではありませんでした。それゆえ、イエスは、「だが私は、ヨハネよりも大きな証しを持っている。私がなし遂げるようにと私の父が与え給うた仕事(新共同訳「業」)が、つまり私がなしている仕事であるが、その仕事そのものが私について、父が私を派遣したのだ、ということを証ししてくれている」(5:36、田川訳)と言っているのです。
「私がなしている仕事(わざ)」とは、狭義の脈絡でとらえれば、もちろん、ベテスダの池におけるいやしと関連していますが、しかしこのわざは、それだけ抽象的に切りはなされた一人の人間としてのイエスに由来するわざではありません。「私がなし遂げるようにと私の父が与え給うた仕事(わざ)」であるとイエスは言います。もちろん、イエスのわざはいろいろありますが、それらのすべてに共通して言えることは「いのち」であると言えます。ヨハネにおる福音書に出て来たニコデモであれ、サマリアの女であれ、ベテスダの男であれ、これから登場するラザロであれ、イエスとの出会いはこれらすべての人々に、いのちを与えました。その際、肉体と精神を切り離して考えることは適当ではありません。双方をひっくるめて、言葉の最も根源的な意味におけるいのちです。イエスは、深い意味において人々を生かしました。
そこで、彼の全生涯は、モーセのそれと対比されます。「律法はモーセを通して与えられ、めぐみとまことは、イエス・キリストをとおして来たのである」(1:17)、この場合、「めぐみとまこと」というのは、いのちの内容であるといってよいでしょう。律法は、たといそれがどれ程真実であるといっても、なお、いのちをもたらすものではありません。「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3:20)とパウロも言ったように、律法はそれだけでは決して人を生かすことはないのです。むしろ律法に先立つ太初の定め、永遠から永遠に至る神の不動の意志、被造物にかかわる神の愛が明らかにされねばならず、そしてそれを繰り返し明らかにされるのがイエスであったのです。それゆえに、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである」(3:16-17)と言われている通りです。
イエスが、「私がなしている仕事(わざ)」と言うのは、したがって、一人の人間の能力・成績・業績を意味する言葉ではありません。そうではなく、イエスを世につかわし、この世のすべてを根源的に成り立たせているあの大いなる約束を明らかにしようとしておられる父がお与えになったわざです。イエスをつかわしたかたのみ旨がそこで明らかにされるようなわざです。イエスがなされたわざというのは、常にそのようなわざでありました。
滅びではなく永遠の命、さばきではなく救い、それが父のみ旨であり、イエスの言葉とわざの一切は、この父のみ旨に基づき、そこから溢れ出る泉のようなものでありました。どれ程多くの人がこの生命の泉のような真実にふれて根源的な自己変革を経験したことでしょう。それゆえにイエスのわざは、彼が父からつかわされた者であることをあかしする、と言われるのです。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(5:39-40)。
ユダヤ人の旧約聖書に対する熱心さには、見るべき点があります。彼らはそこに、永遠の命を求めようとしていたのであり、このことはたとえば、マタイによる福音書19章16節以下、ルカによる福音書10章25節以下の記事にも明らかです。ルカによれば、律法学者がイエスに向かって「何をしたら永遠の命が受けられるか」と質問します。「律法には何と書いてあるか」というイエスの反問に対して与えられた答えは、申命記6章5節と、レビ記19章18節の二つでありました。つまり、全身全霊をもって主なる神を愛すべきことと、自分自身のように隣人を愛すべきことです。そしてこれは、イエスご自身が言われたように、正しい答えでありました。
ところが、共観福音書に共通していることは、彼らが一応正しい答えを言葉の上では与えていながら、自らの存在を賭けて一歩を踏み出すことをしない、という点です。これがユダヤ人全体の問題であったし、もっと大きく見ると、キリスト者を含めて、人間が本来持っているところの問題であろうと思われます。
つまり、上っ面をすべる言葉がいつの間にか独り歩きするのです。この言葉を支えている筈の内容が捨象されてしまします。律法をとなえ、研究し、熱心に守りながら、それを生み出し、支えているところの本来の根拠について無知になってしまいます。ヨハネによれば、旧約聖書がもともとあかしをしているのは、イエスにつてなのです。イエスにおいて明らかにされているような「めぐみとまこと」、あの躍動する「いのち」――これこそが旧約律法が本来目ざしているものなのです。
それなのに、彼らはイエスのもとへ来ようとはしません。自分のまわりにはりめぐらされた壁、その内側では実に気もちよく安住することができる、そのような壁。その壁をふみこえて、一歩あゆみを進めるということは、もちろん簡単なことではないでしょう。しかし、ここで一歩を踏み出すということは、たとえようもなく大切なのです。その一歩にすべてがかかっていると言っても、過言ではありません。
一歩を踏み出してイエスのほうへ行く。これはユダヤ人だけの問題ではありません。私たち一人一人の生き方の問題です。聖書でさえ、内容を欠いた単なる形骸として祭り上げられる危険を持っているとすれば、信仰告白や教会の伝統に至ってはなおさらのことです。これらのものが神聖なるものとしてもち上げられ、しかもその際、人々はイエスのもとに行こうともしない、というようなことは、長い教会の歴史の中でくり返し行なわれてきたことではないでしょうか。もちろん、それは今日の私たちの問題でもあるわけです。決して、昔のユダヤ人だけの問題であるだけではありません。このユダヤ人の中に、今日の私たちの問題を観ようとしない者は、一切をみそこなってしまうことになるでしょう。
「そしてあなた方は私のもとに来て、生命を得ようと思っていない」(40節、田川訳)。というユダヤ人に投げら言葉を反面教師にして、自分で作っている壁の内側に安住しようとする私たちですが、イエスの方へ一歩踏み出す者でありたいと思います。
主が私たちをそのように導いてくださいますように。
※ この説教は、ほぼ村上伸『説教者のための聖書講解・ヨハネによる福音書』当該箇所による)
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、信仰は、私たちが今ある自分の生活からイエスに向かって一歩踏み出す行為です。どうか私たちに信仰によって生きる力を与えて下さい。
- 「主イエス・キリストよ。あなたは弟子たちに、暗い世に輝く光となることをお命じになりました。いまわたしは、恥と悔い改めともってみ前に多くの罪と弱さとをみとめます。この時代にあって、世に対してあなたの教会を代表するわたしたちの罪と弱さを。中でもわたしは、自分の責任をみとめます。どうか、わたしの証しの力の弱いこと、愛の足りないこと、熱心の欠けていることをおゆるしください。貧しい者、しいたげられている者を思いやり、病者を見てはいやそうとし、人のあらゆる窮乏を助けようとされた主にふさわしい僕とならせてください。/キリストよ、われらすべてに、世の苦しみをともに分かち、世の悪を正す力を与えてください」(ベイリー『朝の祈り・夜の祈り』より、本日の船越通信にも掲載しました)。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 196(主のうちにこそ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-196.htm
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。