なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(60)「心で悟らず」ヨハネ12:36b-43

5月19(日)聖霊降臨節第1主日ペンテコステ)礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   356(インマヌエルの主イエスこそ)

https://www.youtube.com/watch?v=VHJREdKf7Ks

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編104編24-30節(讃美歌交読文114頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書12章37-43節(新約193頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   343(聖霊よ、降りて)

https://www.youtube.com/watch?v=awHRB0WQ5Ag

⑨ 説  教   「心で悟らず」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日はペンテコステ聖霊降臨節)の礼拝ですが、先週の日曜日の礼拝に引き続き、先程司会者に読んでいただいたヨハネ福音書の12章36後半から43節の箇所から、語りかけを聞きたいと思います。

 

ヨハネ福音書は、2章1以下のカナの婚礼から11章1節以下のラザロの復活に至るまで、イエスが示された「多くのしるし」について語ってきました。イエスが示された「多くのしるし」とはイエスの奇跡のことを言っています。カナの婚礼では、イエスは水をぶどう酒に変えています。ラザロの復活では死んで葬られたラザロを甦らせています。そのような奇跡であるしるしを通して、ヨハネ福音書はイエスが光として私たちの所にきたことを記しているのです。

 

そのことが、今日のヨハネ福音書の箇所の直前の12章35-36節前半に、イエスが語ったとされる言葉に示されています。そのところを読んでみたいと思います。<イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこにいくのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(新共同訳)。ここで「光」とはイエスを指しています。ヨハネ福音書8章12節でも、イエスの言葉としてこのように記されています。<イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ>(新共同訳)と。

 

「暗闇の中を歩く者」とは、どのような人のことを言っているのでしょうか。ヨハネ福音書では直接的にはイエスが語りかけているユダヤの群衆であり、長老(議員)たちであり、ファリサイ派の人々のことを指していると思われます。ユダヤ人である彼ら・彼女らは、ユダヤ教という宗教を信じていましたが、既存の社会の枠の中でその社会の一員として生きていた人びとです。ある意味で既存の社会体制に順応して生きていた人びとと言えるかも知れません。既存の社会体制に順応して生きる人は、その社会が生み出す闇の中を生きていると言ってもよいでしょう。ユダヤ教の社会では、律法違反者は罪人とされて、ユダヤ人の共同体から差別されていました。病気や障害のある人も、本人か両親が罪を犯したのでそうなったと、律法違反者同様にユダヤ人の共同体から差別されていました。そういう世の中に順応して生きていた、或いは生きざるを得なかった人たちのことを、「暗闇の中を歩く者」と、ヨハネ福音書のイエスは言っているのだと思います。その中にはイエスの生前にイエスに従っていた弟子たちも入っていたかも知れません。弟子たちもイエスの十字架の出来事の時には、イエスを裏切ったり、逃げ出したりしてしまったからです。彼らはそれまではイエスに従って、イエスと一緒に行動していましたが、イエスの生前には、弟子たちもイエスを本当には信じることができなかったことが、イエスの十字架の出来事によって露呈したと言えます。聖書ではその弟子たちは、イエスの復活後、聖霊が彼らに降ることによって、イエスを本当に信じる人になったと、言っているように思います。そしてイエスの弟子たちは、イエスの生涯と十字架と復活の出来事によってもたらされた「命の光」を、神が全ての人間に与えて下さった福音(喜ばしいおとずれ)として周囲の人びとに宣べ伝えるようになって、そこにイエスを信じる者の群れである教会が誕生したのです。

 

エスの弟子たる者について、ヨハネ福音書のイエスは、このように言っています。<「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする>(8:31前半―32、新共同訳)と。「光の中を歩む」者とは、イエスの真理によって自由とされた者のことだと言えるでしょう。

 

エスの言葉にとどまる者であるイエスの弟子たちは、「暗闇の中」ではなく「光の中を歩む者」ですから、この世に順応することはできません。ヨハネ福音書と同系列のヨハネ文書の一つである「ヨハネの手紙 一」には、光と闇についてこのような言葉があります。<「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのか知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(2:9-11、新共同訳)。

 

エスにある真理である「命の光」は、「自分さえよければ」という自己中心な人間同士が、互いに競い、差別し合い、相手を認めないで憎しみ合いながら生きている生来の闇の中を生きる私たちに対して、「兄弟を愛する人」、つまり他者と共に生きる人に私たちをつくり変えてくれるのです。パウロ聖霊降臨によって誕生した教会を、人間のからだに譬えています。一人一人は手や足のように人間の肢体に譬えられて、そのような肢体の集合体が人間のからだであり、それが教会で、その人間のからだにおいては、弱い所こそ必要で、その弱い所を他の強い肢体が支え合って、生命体としての人間のからだである教会が存立しているのである、と言っているのであります。そういう「命の光」によって生きるということが、イエスを信じることなのです。

 

ヨハネ福音書の記者は、これまで、世の光であるイエスが示された「多くのしるし」について語ってきました。この36節後半以下では、そのような「しるし」に対する人々の反応が、まとめて記されていると言えます。36節後半で<イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された>(新共同訳)と記されています。そして37節で<このように多くのしるしを彼らの目の前で行なわれたが、彼らはイエスを信じなかった>(同)と言って、イエスのしるしを見ても信じない人びとがいたことを記しています。そしてイエスを信じなかった人がいるのは、<預言者イザヤの言葉が実現するためであった>(38節、同)と言っているのです。

 

田川建三さんは、この旧約聖書の言葉を引用してその成就とする言い方は、ヨハネ福音書の本来の著者の言い方にはないと言って、37節から41節は、後の教会的編集者による付加と考えています。<預言者イザヤの言葉が実現するためであった>という「導入句によって旧約の言葉を引用するのは顕著にマタイ的特色である」と言っています。確かにマタイ福音書を読みますと、1章のイエスの誕生物語から、<このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」(1:22、新共同訳)と記されています。ですから田川さんは、旧約の予言の成就という発想は教会的編集者がマタイ、パウロ流の考えをヨハネ福音書の中に持ち込んだものである、と言っているのです。

 

田川さんはこのように言っています。<ヨハネの著者自身はこういうドクマを持っていない。彼が「ユダヤ人」を批判しているのは、基本的には、イエスをつかまえて殺した、そして同種の弾圧を今もキリスト者に対して続けているという点である。イエスを信じることについては、ユダヤ人の中でも、上っ面の信心であるにせよ、奇跡を見て信じた者が大勢いると書いているし、他方、本質的にイエスを信じることが出来ない人が大勢いるという点については、何もユダヤ人だけ限ったことではなく、それが「世」(定冠詞つき)全体の質なのだ、としている。つまり著者自身にとっては、ユダヤ人だけに特定して、彼らがイエスを信じることがないように前もって神が定め、預言者の口によって予言した、などというドグマなぞ出て来る余地がないのである>(田川)。

 

ですから、田川さんが言うように、37-41節は、後の教会的編集者が付け加えた箇所かも知れません。ただ37-41節には、イエスの多くのしるしを見ても、イエスを信じない人びとがいたことが記されているのです。そして、イエスを信じない人々が多くいて、そのようなイエスを信じない人びとのことを、<眼で見ることがなく、心で考えることをせず、引き返すことがない>(40節、田川訳)人だと言われています。つまり、イエスを信じない人は、自分も加担しているこの世の闇に取り込まれて、見るべきものを見、心で悟り、神に立ち帰って、神から遣わされた世の光であり、命の光であるイエスを信じて、自分も小さな世の光として、命の光として生きていこうとしないで、闇の中を生き続けていると、言われているのです。

 

しかし、一方にはそのようにイエスを信じない多くの人々がいたのに対して、他方にはイエスを信じる人びとも多くいたということが、42節には記されています。しかし彼らは、その信仰を公然と告白することはしませんでした。それは彼らが、ユダヤ教の会堂から追放されることを恐れたからでした(42節)。すなわち彼らにとっては、神のほまれよりも人のほまれの方が、重要であったのだというのが、ここは本来の福音書記者の理解です(43節)。

 

この礼拝の後で、先日帰天されたNさんの追悼礼拝がありますが、そこでお話しようと思っていますが、Nさんは、洗礼を受けたキリスト者ではなくても、「一般の人々の中には、イエス様の聖霊を良心で受けている人がたくさんいます」と言っています。良心のある人は、この世の闇の中に留まっていることができず、自然を大切にする運動や、戦争や差別に反対して、平和や人権を大切にし、イエスを信じて生きる私たちと同じように、光を求めて生きている、と言うのです。

 

しかし、自然を破壊し、戦争をし、人を差別し、闇の中に留まって、光の中に生きよとしない、盲目で悟らない、頑なな不信仰な人もいるのも事実です。そのような人々のためにも、イエスは十字架にかかり、復活して、今も語りかけていることを信じます。私たちはそのようなイエスを信じ、良心によって光を求めて生きる人々と共に、イエスによってもたらされた義と平和と喜びに満ちた神の国の住人として、この闇の世に光を求めて生き続けていきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

祈ります。                     

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、現在の世界は暗闇に覆われているかのように、戦争が続き、国家間・民族間の分断対立が深まっています。また経済的な格差も広がり、生活の困窮を抱えている人々も多くなっています。日本の社会でも、子供たちが十分に食べられない家庭も多くなり、各地に子ども食堂が生まれています。それにも拘わらず、「目で見ず、心で悟らず、引き返そうと」しない人々も多くいるのが現実です。私たちは、この世の闇の中にありながら、イエスに従って光を求めて生きていきたいと願っています。神さま、わたしたちを不信から自由になって、互いに愛し合い、自然との共生を生きる者としてください。
  • 神さま、私たちの国が再び戦争に向かって動いているように思われます。どうかこの国が二度と再び人々の生活基盤と命を奪う戦争を行うことがないように、私たちに平和を造り出す力をお与えください。今世界で行われている戦争が一刻も早く停止しますよに、私たちにその力をお与えください。
  • 今も奪い合いの世界の中で、苦しむ方々を助けてください。また、災害や病気で苦しむ人々を支えて下さり、その一人一人に希望をお与えください。
  • 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌    281(大いなる神は)

https://www.youtube.com/watch?v=f2JKSZ3ux8E

⑫ 讃 美 歌       81(主の食卓を囲み 1、2節)

https://www.youtube.com/watch?v=_n915tSihAM

⑬ 聖 餐 式

⑭ 讃 美 歌   81(主の食卓を囲み、3節)

https://www.youtube.com/watch?v=_n915tSihAM

⑮ 献  金 

⑯ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑰ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑱ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。