なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(42)「信徒不信」ヨハネ8:21-30

12月17(日)待降節第3主日礼拝   

               

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」

イザヤ書40:4-5)

③ 讃 美 歌  224(われらの神 くすしき主よ)

https://www.youtube.com/watch?v=2DRg5OEE410

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編19編8-15節(讃美歌交読文21頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書8章21-30節(新約181頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    231(久しく待ちにし)

https://www.youtube.com/watch?v=WeOiqshSynM

⑨ 説  教   「信と不信」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

先ほど司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書8章21節以下の段落でも、やはりこれまでと同様に、ユダヤ人たちとのイエスの対話が続いています。先ずイエスは「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)と言われます。

 

エスはここで、ご自身の死について、それは父のもとへの栄光の帰還であると(罪の中に死ぬユダヤ人たちには来ることのできない帰還であると)語っているのですが、しかし相手はそういう言葉を理解できません。それで彼らは、イエスは自殺でもするつもりかなどと、途方もないことを呟きます(22節)。

 

それに対してイエスは、23,24節で、ご自身がどういう者であるかを語られます。その中で彼が、ご自身を「上のものに属している」と言われ、また「この世に属してはいない」と規定されたのに引き続いて、「わたしはある」というふうに規定しておられるのが(24節)、私たちの注意を引きます。「わたしはある」とは、何のことでしょうか。

 

原語は、この新共同訳の通り「エゴー・エミー」、英語で言えばI amです。……イエスは、そのような不思議な言い方で、何を示そうとしておられるのでしょうか。それは、「命のパン」「世の光」「よみがえり」「道」「真理」等々の言葉で語られる様々なものの総体で「わたしはある」ということだと言われています(ブルトマン)。そしてさらに、この言葉は、あの出エジプト記3章14節で、神がモーセにご自身の名を示された、「わたしは有って有る者」という言葉をも連想させます。いずれにしても、イエスはこの言葉によって、ご自身が、ヨハネ福音書の序言であるロゴス讃歌において、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とすでに示たような神的存在であることを、示しておられると言うことができます。

 

しかし、彼がそのような決定的な言葉を語られたにもかかわらず、彼とユダヤ人たちとの対話は、ユダヤ人の「あなたは、いったい、どなたですか」という問い(25節)をきっかけにして、まだ続きます。この部分でイエスが力をこめて語っておられるのは、彼と彼を遣わされた父なる神の特別な関係についてです。そして、彼ご自身は、「ただ、父に教えられたことおりに」(28節)話しているのだということを、語られます。そして、そのような彼の言葉を聞いた「多くの人々がイエスを信じた」(30節)という言葉で、この段落は終わっています。

                      

ヨハネによる福音書では、子なるキリストであるイエスが父なる神のみ心どおりに動き、父なる神の語るままに語ってきたことをしきりに強調するのです。そうであるが故に、父なる神はあの十字架の上でもイエスを「ひとりにしてはおかれない」(29節)のです。ただし、イエスが「いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29節)という場合、イエスは何か力みかえって、自分の体をうちたたいて、神のみこころに従っているというのではありません。「わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたことおりに話していることが分かるだろう」(28節)といわれていますように、イエスには一つも力みもなく、無理してそうしているということもありません。イエスは努力して、父なる神と一体になったというのではありません。もともと、存在そのものからして、イエスは父なる神との関係の中にいるのであり、したがって父なる神のみこころのままに動くのです。子は努力して、父の子になるのではありません。子はもともと父との関係の中で子なのです。

前回神の愛について触れましたように、神はひとりで神なのではありません。関係の中における神なのです。父と子というイエスとの関係の中で、神なのです。神そのものの存在自体が、関係の中における神なのです。私たちはただ神の存在を信じればいいのではなく、子との関係における父なる神の存在と在り方を信じるのです。それを信じるということはまた、私たちは神との関係の中にあって初めて本来の「私」になることを信じることでもあります。私は私ひとりでは本来の「私」にはなれません。父なる神とイエスという子なる神と、父と子の命の霊である聖霊との関係の中にあって、初めて本来の「私」となるのです。私という存在そのものが、初めからそのような「関係」の中での存在なのです。そういう本質的な自己の存り方に気づくことが大切なのであって、そのことに気づくことが神によって命を与えられた本来の人間、本来の「私」になるということなのです。そのことが聖書の語っている救であり、人間としての解放なのです。

 

エスがそうであったように、私たちは努力して神の子になるのではありません。努力して神との関係に入るのではないのです。そういう努力は「肉」の努力の積み重ねであって、何の役にも立ちません。ニコデモはそういう努力の方向で、イエスを理解しようとして、救いを得ようとしました。そういう努力はどんなに真面目なものであっても、何の役にも立たないのです。ですから、イエスはそのニコデモに「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われたのです。

 

最初の人間アダムとイブが神によって造られたにも拘わらず、その堕罪によって、自分を神として生きるようになったその末裔である私たちは、自分の努力によって神との正常な関係に立ち返ることはできません。私たち人間は皆、本来神によって造られたものなのです。私たちは初めから神の子であり、神との関係の中にある存在なのです。しかし、自分が神の如く生きている人間には、そのような本来的な自分の姿は見えません。ですから、その本来の神に造られた神の子である自分に気づくことができるのは、自分が神であるかのように自己中心的に生きている人間の努力によってではだめなのです。そのためには自分自身の方向転換、回心が必要なのです。イエスと出会い、回心を通して私たちは、一方的な神の働きによって、聖霊の働きによって、そのことに気づかせられるのです。

 

そのことが、子なるイエスと父なる神が一つであるという今日のヨハネ福音書で語られていることから言えるのではないでしょうか。

        

次にここでのイエスの対話相手であるユダヤ人の不信について考えたいと思います。ここには「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろう」という言葉が、三度にわたって出てきます(21節、24節2回)。どういう時に、また何故自分の罪のうちに死ぬのでしょうか。イエスは、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」(23節)。「『わたしはある』ということを信じないならば、……」(24節)と言われています。一言でいえば、イエスを上から来た救い主として信じなければ、罪のうちに死ぬ、ということです。それはヨハネ福音書16章9節の「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」という言葉と呼応します。

 

ヨハネ福音書が終始一貫主張していることは、パウロなどが強調している贖い主であるイエスを信じなさい、ということではありません。先ほど触れましたように、イエスが上から来た方であること、そして、その「上」すなわち、父なる神とどんなに深い関係の中にあるかを信じなさい、ということです。私たちは罪とうと、自分の生き方、在り方のことを問題にするのではないでしょうか。私たちの自己中心性が罪ですから、そのような自己中心的な私たちの心の在り方や様々な行動を罪と考えるのではないでしょうか。しかし、そのような自己分析をいくらしても、罪の解決になりません。むしろ自分の罪のうちに死ぬだけです。ここでイエスユダヤ人たちに、「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろう」と言っているのは、そういうことではないでしょうか。それが不信の実態です。

 

ここでイエスが、ユダヤ人たちに、そのことは私たちにということですが、求めていることは、ただ、イエスが上から来られたかたであることを知って、信じることです。そして、私たちも本来は上に属する者であることを知ることです。そのことは、先ほど申しあげたとおりです。自分たちが「下から出る者」であるとしか認められないならば、私たちは罪のうちにとどまるしかありません。救われた人とは、第17章6節以下によれば「彼らはあなたのもの(父なる神のもの)であり」「わたしが世のものでないように、彼らも世のものでない」ということです。イエスが上に属し、地上に属していないように、キリスト者もまた、上に属し、世のものに属していいない者なのです。だからと言って、信の人もこの世を離脱しているわけではなく、「この世に残っている」者であり、私たちはこの地上に、この世に生きているのであります。しかし、私たちはただこの世に生きて、この世べったりに生きているのではなく、この世に生きていながら、神に属する者として生きていのです。自分の存在や在り方を、ただ地上の光だけからしか見ようとしない、ということはあってはならないことです。上の光から、神の光から、すなわち、自分たち一人一人が神によって造られ、神との関係の中にある者として、そしてまた、同じように、他者である隣人もそのように見なくてはなりません。神によって造られた自分と他者、またそのような人との「関係」の中の自分を認識しなくてはならなりません。その「関係」そのものを認識しなくてはならないのです。

 

地上の問題は、ただ地上の光からだけ見ても分かりません。イエスが「わたしは去って行く。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない」というと、ユダヤ人はイエスは自殺でもするのではないか、と疑い出したというのです。いつも地上のことしか頭にないユダヤ人は、すべてをこの世的枠の中でなしか考えません。イエスが父なる神のもとに帰るなんてことは、思い及ばないのです。私たちが地上の問題を地上の光の中でしか考えようとしない所に、あらゆる誤解と錯誤が生じるのではないでしょうか。そして、もっとやっかいなことは、そのようにして誤解と錯誤を犯している自分自身に私たちは気づかないことなのです。「見える」と言い張る所に、まさに私たちの罪があるわけです。

 

そういう自分の存在と自分の在り方に気づくためには、まずイエス・キリストが父なる神から派遣された方であり、父なる神との深い関係の中にある方であることを、まず認識し、そしてそのようなイエスを信じて、私たちも歩みを起こすことが大切なのではないでしょうか。

 

最後にライルのことばを紹介して終わります。「人がある程度までは知的に信仰の真理を悟り、自分のなすべきことを知りながら、他方でその心は新しくされず、罪の中にあり続ける、ということは、人間の歴史において最も心痛む現象の一つである。生ける御人格なるキリスト・イエスを人格的に捕え、実際にキリストに従うことを抜きにして、物事を真理であると信じることで満足することが、決してないようにしよう」。

 

(この説教は、山田京二の『説教者のための聖書講解』ヨハネ当該箇所から示唆を与えられています。)

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日はアドベント第3主日です。ローソクが3本光を灯しています。
  • 今日はヨハネによる福音書から、イエスを信じようとしないユダヤ人に対して、イエスが「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろう」と語られた言葉を聞きました。私たち人間が罪の内に死ぬということが、どういうことなのか。私には現代の世界の状況がその現実の一端であるように思えてなりません。
  • 来週の日曜日はクリスマス礼拝です。イエスが人としてこの世に誕生したことを祝う日です。人としてこの世に誕生したイエスの生涯こそ、罪から解放された人の歩みがあることを思います。そしてあなたは私たちをそのイエス信じ、従って生きるように招いています。どうか私たちがそのあなたの招きに応えて生きることができますように、お導きください。
  • 今なお「自分だけ」を求める私たちの罪によって生み出されるこの世の闇の中にあって苦しむ人々を支え、助けてください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    346(来たれ聖霊よ)

https://www.youtube.com/watch?v=VM16AePNE_U

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。