なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イースターの礼拝説教「平安があるように」(ヨハネにおる福音書20:19-23)

4月9(日)イースター礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

                                                                      (詩編68:20-21)

③ 讃美歌  204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編30編1-6節(讃美歌交読文30頁)

         (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書20章19-23節(新約210頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   327(すべての民よ、よろこべ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-327.htm

⑨ 説  教  「平安があるように」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日はイースターの礼拝です。ヨハネによる福音書のイエスの復活についての記事の中にある弟子たちと甦りのイエスの出会いの物語から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

先ず、甦りのイエスが弟子たちと出会ったときに、弟子たちがどのような状況に置かれていたのかを想い起こしたいと思います。19節を読みますと、「それでその日、週のはじめの日であるが、すでに夕方になっており、弟子たちが居た場所の入り口は、ユダヤ人を恐れる故に、閉じられていたのだが、イエスが来て真ん中に立った。そして彼らに言う、『平安、汝らにあれ』」(田川訳)です。ヨハネ福音書では、この甦りのイエスと弟子たちとの出会いの物語の前には、マグダラのマリアと甦りのイエスとの出会いの物語があります。マリアがイエスと出会った日曜日の夕方、弟子たちは、エルサレムのとある家に集まっていました。その家は、数日前に彼らがイエスと最後の晩餐を共にしたあの家であったかも知れません。そして、そこに集まっていたのは、恐らく、イスカリオテのユダとトマスを除いた弟子たちの全てだったと思われます。弟子たち以外の人がそこにいたかどうかは分かりません。

 

彼らは、ここに記されているように、ユダヤ人を恐れて、戸を堅く閉ざして、その家の中に、息をひそめて隠れていました。「戸を堅く閉ざす」とは、内側から閂をかけて、外からは開かないようにすることです。このところは、新共同訳では「戸に鍵をかけていた」と訳されています。田川さんは、この新共同訳の訳は、現代のマンションの玄関のようでいただけないと言っています。弟子たちは、イエスを十字架につけたユダヤ人たちが、自分たちをも捕えようとして、襲いかかって来るのを、恐れたのでしょう。彼らは、戦々恐々として、その家の一室に集まっていたと思われます。弟子たちは、マグララのマリアからイエスが甦ったことを聞いたのですが、彼らは、戸を堅く閉ざして、隠れています。彼らの心は、甦られた主を迎えようとすることよりも、むしろユダヤ人に対する恐れによって占領されていたのです。

 

すると、驚くべきことに、その閉ざされた戸を通って、イエスが彼らの所に入って来られます。そして、「平安、汝らにあれ」と言われます。この「平安、汝らにあれ」という言葉は、ここだけでなく21節にも出てきますし、26節にも出てきます。原語では「平安汝らに」とあるだけで、動詞が記されていません。ですから動詞を補って訳せば、「平安、汝らにあれ」とも、もちろん訳せますが、しかし「平安汝らにあり」とも訳せます。ボンフェッファーは、ここでのこの主の挨拶の言葉は、「平安、汝らにあれ」と訳すべきではなく、「平安汝らにあり」と訳すべきであると言っています。なぜかと言えば、この言葉を語られたのが、他の誰でもなくて、「平安」そのものであられるイエス・キリストその方だからです。エペソ2:14で、「キリストはわたしたちの平和であって」と言われていますが、そのイエス・キリストが今ここにいまして、この言葉を語っておられるのですから、ここには平和があり、平安があるのです。やがて平安が来るであろう、平安が来るように、というのではなく、平安そのものであるイエスがここに在ますことによって、平安が現にそこにあるのです。イエスは、戸を堅く閉じて、自分たちもユダヤ人に捕まるのではないかと恐れていた弟子たちに、それでも平安が現にそこにあるという意味で、「平安、汝らにあり」と語られます。

 

エスが弟子たちと共にされた最後の晩餐の時以来、この数日の間に、いろいろなことが起こりました。12弟子の一人であるユダは、イエスを敵の手に売り渡しました。同じくペテロは、イエスを三度知らないと言ってしまいました。そして今弟子たちは、マリアから主の甦りの報告を聞いたにもかかわらず、ユダヤ人たちへの恐れから、戸を堅く閉ざして戦々恐々としておびえています。しかし甦りの主は、そのような裏切りや不信仰を、叱責しようとはされません。問題にしようともされません。彼は、戸の中に入って来られて、御自身と弟子たちの間に何ごともなかったかのように、「平安、汝らにあり」と言われるのです。

 

20節を読みますと、「そしてこう言って、自分の手と脇を彼らに示した。それで弟子たちは、主を見て、喜んだ」(田川訳)とあります。イエスは、自ら進んで、御自身の手と脇とを弟子たちに示されます。イエスの手は、十字架で釘づけられた手であり、またイエスの脇は、兵卒たちの槍で刺されたその脇です。その生々しい傷跡を、彼は示されます。そのことによって、弟子たちは、今自分たちの前に立っておられる甦りの主が、自分たちのために十字架で苦難を受けられた、あのイエスであることを、確認します。井上良雄さんは、<そのように甦りの主が十字架で苦難を受けられた主と同一の方であるからこそ、彼は弟子達に対して、「平安、汝らにあり」と語り得るのです。その言葉が十字架の苦難の主の言葉であるからこそ、それは、本当に平安に充ちた言葉であり得るのです。パウロがフィリピ4:7で「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスににあって守るであろう」と言っている、そのような平安が汝らにはあると、イエスは語ることができるのです>と言っています。その通りではないでしょうか。

 

ここに「弟子たちは、主を見て、喜んだ」と記されています。十字架にかかって死んだはずのイエスが、甦みがえって、今自分たちの目の前で「平安、汝らにあり」と語ってっ下さっているからです。しかし弟子たちは、そのような喜びの中に、いつまでも浸っていることは許されません。また、甦りの主による平安の中に、安らっていることはできません。21節を読みますと、「それでイエスは彼らに再び言った、『平安、汝らにあれ。父が私を遣わしたように、私もまたあなた方を遣わすのである』」(田川訳)とあります。イエスは、ここで再び「平安、汝らにあれ」(平安、汝にあり)と言われた後、弟子たちを世に派遣されます。甦りのイエスによって、恐れから解放されて喜びを与えられ、「平安、汝らにあり」と言われた者として、弟子たちは世に派遣されるのです。

 

ですから「彼らに与えられた喜びと世への派遣ということが、切り離されて別々のこととして、理解されてはならないだろうと思います。弟子たちにとって(そしてそれは、私たちにとっても同様ですが)、主と共にある喜びと派遣とは、別のことではないのだということ、喜びの中でこそ派遣も起こるのだということ。派遣を離れて主と共にある喜びはなく、派遣されて戦う生活の中にこそ、主と共にある喜びもあるのだということ。そのことが、忘れられてはならないと思います」(井上良雄)。

 

22節を読みますと、「そしてこう言って、息を吹き、彼らに言う、『聖霊を受けよ』」(田川訳)とあります。――派遣される弟子たちに対して、イエスは息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたというのです。この箇所を読んで、あの創世記に記された、天地創造の時に、神が人間を創られたことについての記述を想い起す人もいるに違いありません。すなわち、創世記2:7には、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と記されています。弟子たちは、イエスの息を吹きいれられ、聖霊を与えられることによって、ちょうど初めの日に人間が創造されたように、新しい人間として、新しく世界を見る目を与えられ、新しい言葉を語るべき口を与えられて、世へと派遣されるのです。

 

ボンフェッファーは、甦りのイエスについてこのように語っています。<復活したキリストは、新しい人間性を身に負う。それは新しい人間に対する神の究極の輝かしい「然り」である。人類は、今なお古い生命に生きているけれども、すでに古い生命を越えているのである。人類は今なお死の世界に生きているけれども、すでにその死を越えているのである。人類は今なお罪の世界に生きているけれども、すでにその罪を越えているのである。夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている>と。

 

父なる神からこの世に遣わされた主イエスがなされたことは、イエスが罪から解放された新しい人間性を身に負い、<新しい人間に対する神の究極の輝かしい「然り」>であると言うのです。そのようにイエスが父なる神によってこの世に遣わされたことに基づき、それに対応するものとして、「弟子たちは、イエスの息を吹きいれられ、聖霊を与えられることによって、ちょうど初めの日に人間が創造されたように、新しい人間として、新しく世界を見る目を与えられ、新しい言葉を語るべき口を与えられて、世へと派遣されるのです」。

 

しかしそれならば、そのようにして世に派遣された弟子たちが、なすべきこととは何でしょうか。先週の日曜日に、私たちはヨハネ福音書3書16節以下からメッセージを聞きました。そのヨハネ福音書3章16節は有名な神の愛について語られている箇所です。「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、世が彼によって救われるためである」(田川訳)。

 

弟子たちは(すなわち私たちは)、父なる神によってこの世に遣わされた一人子なる御子イエスの証言者として、イエスの仲間として、イエスによってこの世に遣わされているのではないでしょうか。とすれば、イエスの弟子としてこの世に派遣されている私たちがなすべきことは、イエスに倣って生きること以外の何物でもあり得ません。先週私はヨハネ第一の手紙3章16節を引用し、この聖句が私の若い頃の愛唱聖句だったと申し上げました。もう一度その箇所以降のヨハネの第一の手紙の箇所を、私が若い時に親しんだ口語訳で引用したいと思います。

 

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえ、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。この世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ、わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして神のみまえに心を安んじえいよう」」(3:16-19)。

 

そのような者として、弟子たちは(そして私たちは)、イエスの息を吹きいれられ、聖霊を与えられることによって、ちょうど初めの日に人間が創造されたように、新しい人間として、新しく世界を見る目を与えられ、新しい言葉を語るべき口を与えられて、世へと派遣されているのではないでしょうか。

 

今日は、イースターに当たり、甦りの主イエスと弟子たちとの出会いの物語を通して、私たちが新しい人間の創造へと招かれていることを覚えたいと思いました。

主が私たち一人一人を互いに愛し合う新しい人間にしてくださいますように!

 

   (この説教の前半から中盤はほぼは井上良雄『ヨハネ福音書を読む』による)

 

祈ります。

 

  • 神さま、イースターの礼拝を共にすることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 甦りの主イエスが、罪と死の支配から解放された新しい人間として、私たちすべての人間を招いていることを覚えます。その招きに背を向けて、闇の世界に生きる者が未だ多い現実の世界において、主イエスの招きに応えて生きようとしている私たちに、あなたが共にいて導いてくださいますように。
  • 現代の世界は、私たちの関係を、資本が富める者と貧しい者に分断し、権力が支配するものと支配さえる者に分担しています。助け合い、愛し合う者として、あなたに創られた私たち人間が、互いに競い合い、敵対し合い、憎しみ合ってしまっています。神さま、私たちをもう一度助け合い、愛し合う者に創り変えてください。イエスが中心となる人間と人間の関係へと私たちを導いてください。
  • 今もこの闇の世界には様々な抑圧が存在し、そのために苦しむ多くの方々がおられます。人が人を差別抑圧する罪から私たちを解放して下さいますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     532(やすかれ、わがこころよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-532.htm

⑪ 讃 美 歌   81(主の食卓を囲み 1、2節)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-081.htm

⑫ 聖 餐 式

⑬ 讃 美 歌   81(主の食卓を囲み、3節)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-081.htm

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。