なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(9)「三日で建て直す」ヨハネ2:12-22

3月5(日)受難節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                          (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   202(よろこびとさかえに満つ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編140編1-6節(讃美歌交読文153頁)

         (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書2:12-22節(新約166頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   120(主はかいぬし)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-120.htm

⑨ 説  教  「三日で建て直す」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書は、弟子たちの召命の記事に続いて、イエスの最初の活動をカナの婚礼とイエスの宮清めの記事で始めています。ヨハネ福音書は、共観福音書のようにイエスの公生涯を時系列に従って記してはいません。ですから、今日の宮清めの記事は、共観福音書では、イエスガリラヤでの活動を終えて、最後にエルサレム行き、そのエルサレム入城の後にエルサレム神殿でイエスは宮清めをしています。その宮清めの出来事を、ヨハネ福音書はカナの婚礼の記事と共にイエスの活動の最初にもってきているのです。

 

共観福音書では、一応人としてのナザレのイエスの生涯をベースにイエスの出来事を描いていると言えると思いますが、ヨハネ福音書は、人としてのナザレのイエスの生涯の出来事ではなく、神であるロゴス(言)が受肉したイエス(=神の子)の出来事をしるしとして描いているのです。水をぶどう酒に変えた奇跡は、そのようなロゴスが受肉したイエスの最初のしるしでした。そしてカナの婚礼に続いて、今日の宮清めの出来事も、カナの婚礼での最初のしるしに続く、第二のしるしとして描かれているのです。今日の箇所に続くヨハネ福音書1章23節に、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(新共同訳)と記されていますように、今日の箇所の宮清めの出来事は、カナの婚礼に続くロゴスが受肉した神の子イエスの第二のしるしなのです。

 

前回のカナの婚礼では、水をぶどう酒に変えたというイエスの奇跡には、全被造物の変化が指示されていると申し上げました。そのところをもう一度繰り返してみますと、こうなります。「しかし、ルターが言っているように、ここで起こっていることは、被造物の変化という出来事です。水という被造物がぶどう酒に変えられるという出来事です。そして、この被造物の変化という奇跡は、やがて「彼の時」が来てーーすなわちイエスが十字架につけられる時が来て、そこで起こるであろうことを、指し示しています。すなわち、すべての造られたものが逃れ得ない、罪と死の呪いが突破されて、すべての被造物が新しい生命に招き入れられるという、全被造物の変化を、この出来事は指し示しています。そのような奇跡が、イエスの生涯の最初の奇跡として起こったということは、意味深いことだと、言わねばなりません」。

 

つまり、イエスによって私たちにもたらされた福音は、「すべての造られたものが逃れ得ない、罪と死の呪いが突破されて、すべての被造物が新しい生命に招き入れられるという、全被造物の変化」だと言うのです。「すべての造られたものが逃れえない罪と死の呪い」とは、神によって食べてはならない木の実を、それを食べれば神のようになれるという蛇の誘惑によって、食べてしまったアダムとエバの堕罪以降の世界を意味していると思われます。罪を犯して、呪わるべき人間が、この神の被造物であるこの世界を治めているのです。覇権主義による他国の侵略、自然や資源の乱獲乱用、弱者への差別・抑圧、そのような現在の世界の困窮の原因は、神をさしおいて、神のようになろうとする人間の高慢から来ているのではないでしょうか。このような世界の現実は、バベルの塔を築いた、罪と死の呪いの中にある人間の以外の何ものでもありません。

 

カナの婚礼で水をぶどう酒に変えたイエスの奇跡によって、ロゴスが受肉したイエスによって、そのような罪と死の呪いの下にあるすべての被造物が新しい生命に招き入れられていると、ヨハネ福音書の著者は語っているのです。ですから、イエスの福音は全被造物の新しい創造なのです。私たちは、イエスの福音がそのような世界大の音ずれであることに、どこまで深く気づいていたでしょうか。少なくとも私自身は、十分には気づいていなかったことを反省しています。

 

もしこのようなイエスの福音の広さと深さ信じていれば、平和はイエスによって既に実現しているという信仰に立って、さまざまな平和運動に関わっていけると思うのです。「平和を造り出す者は幸いである」と言われますが、私たちが平和を造り出すというのではなく、既に実現しているイエスの平和に基づいて、平和を造り出すのではないでしょうか。罪と死の呪いの下にある私たちである以上、アダムとエバの責任転嫁に見られますように、私たちの側から平和は決して生まれません。そのような私たちの罪の現実からイエスによって解放された者として、私たちは平和を求めて行動できるのではないでしょうか。そういう意味で、カナの婚礼における水をぶどう酒に変えた、イエスの全被造物の新しい創造は、私たちに対する喜ばしい音ずれであります。

 

今日のエルサレム神殿における宮清めというイエスの出来事も、イエスによる新しい創造を示すものではないでしょうか。まずテキストに即して、イエスの振る舞いを見ておきたいと思います。ガリラヤのカナで婚礼の奇跡を行なったイエスは、「その後、彼と彼の母と弟子たちはカファルナウムに下って行った。そしてそこでしばらくの間留まった」(12節、田川訳)と言われます。「そしてユダヤ人の過越(祭)が近かった。そしてイエスエルサレムに上った」(13節、田川訳)のです。先ほども言いましたように、共観福音書ではこの宮清めが行なわれたのは、イエスの公生涯の最後にエルサレムに上って行かれた時の出来事で、マルコではこの出来事が大祭司らの怒りを買ってイエスの受難と十字架の契機になったと言われています。しかし、ヨハネ福音書ではイエスの活動の冒頭の出来事としてこの宮清めが描かれているのです。「そして神殿で牛や羊や鳩を売る者、また両替する者が座っているのを見た。そして縄で鞭を作り、みな神殿から追い出した。また羊や牛も。そして両替人の小銭をぶちまけ、机をひっくり返した。そして鳩を売る者に言った、「こんなものはここから持って出ろ。我が父の家を商売の家にするな」(14-16節、田川訳)。

 

エルサレム神殿に来る参拝者に犠牲獣が売られていたのは事実のようですが、牛や羊のような大きな動物まで売られていたのかについては、疑問を呈する人もいます。鳩は確かに売られていたようです。祈りの家であるべき神殿を、商売の具にしていることへのイエスの批判とパフォーマンスです。当時エルサレム神殿は、ユダヤ教という宗教的な建物でしたが、エルサレム神殿の最高の権力者である大祭司は、ローマ帝国の属州であったユダヤ自治機関であるサンヒドリンの議長もしていて、宗教的・政治的な最高権力者でした。ですからエルサレム神殿の存在は、当時のユダヤ社会そのものを象徴的に表していたのです。イエスは、「この神殿を壊すがよい。そうすれば三日でそれを建ててさしあげよう」(19節、田川訳)と言われたというのです。この神殿を破壊し、それを建て直すということは、エルサレム神殿が象徴していたユダヤ社会を破壊し、新しくユダヤ社会を建て直すということを意味します。

 

21節に、「彼が自分の身体の神殿のことを言ったのである」(田川訳)と言われていますように、神殿を壊して、建て直される新しい神殿とはイエスご自身の身体であると言うのです。これは、「エルサレム神殿ではなく、御自身の甦りのからだにおいて、神が礼拝される日が来ることを示唆されるのです」(井上)と言われます。「キリストの体なる教会」と言われますように、イエスの身体は教会を意味しますので、この宮清めの出来事でも、イエスユダヤ教に代わってキリスト教の教会を打ち立てたと理解する人もいます。

 

森野善右衛門さんは、「エルサレム神殿にもうでなければ、まことの神を礼拝できないということではない。神殿祭儀は、この意味では確かに廃棄されたのです! イエス・キリストの名によって集まっている群れのあるところは、〈たとい牧師のいない、礼拝堂もないような家の集会でも!〉どこにおいても礼拝をささげることができるようになったのです。これがイエスの宮きよめの深い意味です。それは礼拝と信仰の革新を告げ、新しい神殿としての教会の建設を予示する言葉です。…/カナの婚礼の奇跡と宮きよめの記事は、このように、同じイエス・キリストの十字架の死と復活という一つのできごとを示しているしるしであり、そこに新しい教会と礼拝の基礎がおかれたのであります。そこでこの二つの記事は一セットとして、ヨハネによって二章にまとめて入れられたのです」と言っています。

 

確かにこの宮清めのしるしは、そこに新しい教会と礼拝の基礎がおかれたと解釈できないわけではないと思います。けれども、私は、カナの婚礼の奇跡が「全被造物の新しい創造」を意味するとともに、宮清めは、古いユダヤ教を中心としたユダヤ社会に代わって、キリストの甦りの身体に象徴される教会という新しい人間社会の誕生というように理解することもできるのではないかと思うのです。つまりキリストの甦りの体としての教会において示されているのは、ユダヤ教に代わる礼拝共同体としての教会という面よりも、エクレーシア、コイノーニアとしての教会による新しい社会の誕生という面が強調されているのではないかと思うのです。コリントの信徒への手紙一の12章で描かれている体としての姿です。〈神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって、「お前は要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。…神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うのです。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです〉(18-26節、新共同訳)。

 

宮清めにおいて、イエスエルサレム神殿の崩壊に代わって、建て直す神殿をご自分の身体と言ったのには、ユダヤ社会のユダヤ教共同体に代わって、御自分の身体である新しい共同体を言い表していると理解することが許されるのではないでしょうか。ユダヤ人の古い契約共同体に代わって、イエスの甦りの身体としての新しい契約共同体としての教会の誕生です。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と言われるような、人と人とが対等同等な関係において一つであるような共同体です。

 

22節では、「それで、彼が死人のうちより甦った時に、彼の弟子たちは彼がこのことを言ったのを思い出した。そして書物(聖書)とイエスが言った言葉とを信じた」(田川訳)と言われています。私たちも宮清めにおいてイエスが語ったことを想い起し、そのことを信じて、イエスの甦りの身体である教会に連なりつつ、新しい人間の関係性を生きていきたいと願います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
  • 今は受難節です。イエスの受難と十字架の苦しみを偲ぶ時です。イエスの十字架と復活によって、罪と死による呪いの支配下から、私たちは解放され、あなたの似姿に造られた者として、私たちの交わりにおいてあなたの愛を生きる者とされたことを感謝いたします。どうかイエスの生涯と十字架の死と復活によって、私たちにもたらされている愛と平和がすべての人に及びますように。
  • けれども、未だバベルの塔を築いているこの世界の現実の中で、特に戦争や抑圧差別の中で苦しんでいる方々を助けてください。
  • イラクとシリヤの地震によって沢山の人の命と生活基盤が失われ、悲しみの中にある人びとをあなたが支え、具体的な支援が行き届きますように。
  • 貧困による苦しみの中にある人びとに、富の分配が及びますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     442(はかりも知れない)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-442.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。