なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(91)

8月23(日)聖霊降臨節第13主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでhさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 ② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

                                                                                                         (ローマ5:5)

③ 讃 美 歌  205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編15編1-5節(讃美歌交読詩編15頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書21:12-17節(新約40頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  533(どんなときでも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-533.htm

 

説教 「祈りの家」 北村慈郎牧師

祈祷

 

   みなさんの中には、自分の思いが言葉では伝わらないときに、物を投げたり、たたいたりしたことはないでしょうか。これは暴力ですから、本当はよくないのかもしれませんが、憤りや怒りは、言葉で伝えるよりは、行動で伝えた方が伝えやすいという面があります。一種の実力行使です。

   福音書のイエスの物語の中で、イエスが実力行使をしたことを伝えているのは、今日の「神殿」での物語が唯一ではないかと思われます。

   12節にこう言われています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。」。

    イエスの時代のユダヤの国では、エルサレム神殿の境内で、巡礼にやってきた人々が、神殿の中で通用するお金に変えたり、そのお金で供物を捧げるために犠牲獣を買ったりしていました。ですから、神殿の境内には両替屋や犠牲獣を売るところがあり、それを商売にしている人がいました。

    神殿にやってきたイエスは、その様子を見て、沸々と怒りがこみあげてきたのでしょう。イエスは、「そこで売り買いしていた人々をみな追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒した」というのです。

    そして、イエスは言われました。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」と。

    神殿は、神に祈るための場所です。それなのに、あなたたちは、神殿を商売の場所にしている。そのような神殿は、一生懸命お金をためて、遠くからやってきた貧しい巡礼者からお金を巻き上げる強盗の巣ではないか、と。

    ここでイエスが「あなたたち」と言っているのは、両替屋や犠牲獣を売っている人だけではありません。巡礼に来たユダヤ人たち、そしてエルサレム神殿の大祭司をはじめとする祭司たち、その他神殿で働く人たちすべてを指しているものと思われます。

    この神殿を強盗の巣とするイエスの言葉には、明らかにエレミヤの預言が反映されています(エレミヤ7章11節)。そのエレミヤの預言は、エルサレム神殿にお参りに来るユダヤ人を指して語られたものです。少し長くなりますが引用します。

    ≪「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間で正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目には強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり、わたしにもそう見える、と主は言われる。・・・」≫(エレミヤ7:2b-11)

    このエレミヤの預言では、実際には神に背いて生きていながら、神殿にお参りして「救われた」と思っているユダヤ人たちは、神殿を強盗の巣窟にしているのだと言われているのです。

    私たちキリスト者の中にも、月曜から土曜日までの週日の生活と日曜日の礼拝との間に、同じような問題がないと言えるでしょうか。二人の主人である神と富に同時には仕えられないと、イエスは言っていますが、私たちは多かれ少なかれ、この二人の主人に同時に仕えようとしているのではないでしょうか。生きていくためにはお金が必要です。そのためには富みに仕えなければなりません。でも、イエスを信じ、神を信じて生きていきたい。その矛盾に苦しみながら、何とか信仰を貫いて生きていきたいと努力しているのが、私たちではないでしょうか。だから日曜日の礼拝を捨てて、富に仕える生活に徹する道はとっていないわけです。

    神殿は信仰においては私たちにとっては教会と言ってよいでしょう。その教会を、強盗の巣窟にしているという批判を受けながら、そうでない道を求めて模索し続けているのが、私たちの現実の姿ではないでしょうか。

    さて、神殿の境内には、目の見えない人や足の不自由な人たちがいました。この人たちは、神殿にお参りに来た人たちに物やお金を恵んでもらっていたのです。そのような人たちは、イエス時代のユダヤの国では人から恵んでもらって生きていかなければなりませんでした。今の私たちの社会のように障がい者年金のような社会保障は、古代社会である当時のユダヤの国にはなかったからです。神殿には多くの人がお参りにやってきますので、その庭に坐って、「目が見えない哀れなこの者をお恵み下さい」、「足の不自由な哀れなこの者をお恵み下さい」と人々に物乞いをしていたのです。

    神殿でのイエスのパフォーマンスに気づいたのでしょう。境内にいた目の見えない人や足の不自由な人たちが、イエスのそばにやってきました。イエスはこれらの人々を癒されました。イエスに癒された目の見えない人や足の不自由な人たちは、どんなにか喜んだことでしょうか。

    イエスがなさった不思議な業を見て、境内では子供たちまでもが「ダビデの子にホサナ」と言って、叫びました。イエスは神から遣わされたメシア・救い主かもしれないと、人々の中に喜びの声が沸き起こりました。

    けれども、祭司長たちや、律法学者たちは腹を立てて怒りました。この人たちは、自分達こそが、一番神に仕え、神のことをよく知っていると思っていたからです。エルサレム神殿で執り行われている儀式や律法学者が研究している教えによって神のことを知ることができ、自分たちこそ神の恵みを受けていると、彼らは信じていたからです。

    けれどもイエスは、神が喜ばれることは、犠牲を捧げることでも、ただ神の教えを学ぶことでもないと考えていました。

   イエスは、「神はひたすら、わたしたちが行動や言葉を通して、神を、そして隣人を全身全霊で愛し、大切にすることを望んでおられる」と、信じて、そのように生きておられたのです。

    前回の説教でも指摘しましたように、イエスと神殿勢力を担っていた大祭司をはじめとする人々との違いは、両者が立っている土台そのものの違いでした。ですから、どちらかが考え方や生き方を根本的に変えない限り、両者が共に生きることはできませんでした。

    神殿におけるイエスのパフォーマンスは、ローマ帝国支配下にあって神殿支配体制を維持するユダヤの国の在り方と、それを中心的に担っている人びとに否を突きつけるメッセージでもありました。

    イエスが語られた「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」という神殿批判の言葉は、神殿の在り方に対する根本的な否定でありました。本当に激しく、厳しい怒りの言葉です。

    イエスの時代のエルサレム神殿は、ユダヤ教の宗教的な施設というだけでなく、ユダヤの国の政治的経済的権力の中心の役割も担っていました。ですから、大祭司を中心とする神殿勢力は、現代の日本に置き換えて考えれば、現在の日本の社会を、権力の中枢にあって支えている安倍首相をはじめ政権与党の国会議員や官僚に当たると考えられます。

    聖書では権力を持っている王も神の僕です。先ほど読みましたエレミヤの預言の中に、「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間で正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」と言われていました。実はこのユダヤの民衆の一人一人に向けられた言葉は、同じように王にも向けられているのです。ですから、王は正義を行い、社会的弱者を保護し、神以外のものを神とすることなく、神と隣人に仕えるために選ばれた存在なのです。

    今日的に言えば、神以外の神である資本と大企業に奉仕するための権力ではないのです。聖書では、権力もまた、神を愛し、隣人を愛するために機能的に与えられているに過ぎないのです。それを大企業や大金持ちに操られて権力が私物化されているのが、現代の日本の社会の現状です。世界の政治家の中では、私の知る限り、ドイツの首相メルケルさんはこの聖書的な権力について、相当よく理解して政治に携わっているように思えます。

    イエス時代の大祭司をはじめとするユダヤの権力を担っていた人たちは、イエスに批判されていますように聖書的な権力を逸脱していました。

    そのために、大祭司らを中心とする神のことよりも自分のことしか考えていなかった人々によって、ローマ帝国に反逆する人物として訴えられ、ローマ総督ピラトによってイエスは十字架にかけられてしまいました。けれども、神はイエスをよみがえらせてくださって、神の心を大切にして生きたイエスと共に私たちも生きるように招いてくださっているのです。

(以下、『イエスと出会う~福音書を読む~』を参考にする。)

    教会は、そのような神の招きを受けて集まっている人々の集まりです。そのような教会に集まって、私たちは祈り、神を讃えます。教会は、生き方を変えるように、イエス・キリストの福音が公に告げられる家です。教会でイエス・キリストは、実際にわたしたちと共にあります。私たちはここで、生涯を通じて繰り返し何度でも「イエスはわたしたちの希望。イエスによってわたしたちは生かされている」と確かめ合うのです。

    ですから、教会は、わたしたちにとっての祈りの家なのです。

    エルサレム神殿が祭司たちや、犠牲を捧げることによって神を自分のものとする人々によって、すべての民の祈りの家でなくなってしまったように、教会を私たちは自分たちだけのものとしてはなりません。イエスが全ての人のために死んで甦られたわけですから、この教会にはすべての人が招かれていて、ひとりひとりの場所が用意されています。力のある人もない人も、裕福な人も貧しい人も、罪びとも聖なる人も、清い人も“汚れた”人も、どんな人種の人も、みな喜んで迎えられます。人々を分け隔てるものは何もありません。すべての人を愛されている神と、神が愛している人々に仕え、神からもたらされる喜びを伝え、イエス・キリストのように、わかちあいを広めることを、この教会に集められている私たちは最も強く望んでいきたいと思います。

 

祈ります。

  •  神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日はイエスの神殿批判のマタイ福音書の記事から、このイエスの実力行使が何を物語っているのかを読み解こうとしました。それが聖書の記事に即して行うことができたかどうか、不安ですが、どうかこのイエスの怒りの意味を私たちに悟らせてください。イエスの怒りは、神の祈りの家であるべき神殿が、当時の社会的弱者への抑圧に加担していたことにあります。私たちの教会が現代日本社会の差別抑圧構造を下支えしていないかが問われているように思います。どうぞ私たちの教会が祈りの家として、イエスの福音が語られ、日常の中にあってわたしたちがイエスの福音に従って生きることのできる力を与えることができますように、お導きください。
  • 毎日猛暑が続いています。コロナと共に熱中症によって苦しむ人が多くなっています。どうぞ一人一人の健康を支えてくださいますように。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   309(あがないの主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-309.htm

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。