なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(464)

船越通信、№464 2020年8月16日 北村慈郎

  • 9日の日曜日は礼拝後皆が散会してから、Nさんが持ってきてくださったおみぎりをでいただき、礼拝後一度家に戻って再び教会に来てくださったH・Sさんを加えて、役員会を行いました。主な協議事項は「北村牧師夏期休暇の件」と「急傾斜地の件」でした。北村牧師夏期休暇は、•8月30日(日)~9月5日(土)、8月30日の礼拝は、教会員のお話。(N・Kさん)•9月20日(日)~9月26日(土)、9月30日の礼拝は、教会員のお話。(現在人選中)になりました。「③急傾斜地の件」は、H・Tさんが法務局で全部事項証明書を取ってきてくれましたので、それに基づいて教会所有の崖地は、1982(昭和57)年Ⅰ2月、船越教会に寄付されたことを確認しました。恐らくそれ以前に道路側の崖地にコンクリート吹付が行われたと思われます。現在市に道路側崖部分のコンクリート吹付工事が何時、誰によって行われたのかを問い合わせていますので、その回答が来てから、道路側崖地コンクリート吹付部分に亀裂ができた時には、どこが工事するか、できれば市か県にしてもらえるように交渉したいと思っています。
  • 東京新聞朝刊(8月12日)に関田先生の記事が掲載されていました。その記事を教会の方がワードにしてくれましたので、下記に転載します。

        記者が受け継ぐ戦争  戦後75年     横浜支局 丸山燿平(26)

       軍国少年目指した   牧師 関田寛雄さん(91)

「少数派」常に意識:「あの頃は、誰よりも軍国少年と言い切れるほど無我夢中に頑張った。普通の日本人より人一倍、日本人になろうとしてね」/川崎市キリスト教会で牧師の関田寛雄さん(九一)から聞いた話は、記者五年目の私か知らないことばかりだった。/父親が牧師で四人兄弟の末っ子たった関田さんは、大阪府吹田市に住んでいた幼い頃に洗礼を受けた。小学五年生の時、同級生からアメリカのスパイ」「キリスト教徒なんかやめろ」と罵声を浴びせられ、殴る蹴るの暴行を受けた。/日中戦争が始まり、米国との緊張も高まっていた時期。血と泥にまみれた関田少年は「日本でキリスト教徒でいることは危ないんだ」と感じたという。/中学生になると、軍事教練に積極的に励んだ。「お国のために死ぬことが良いこと」と話して教師に褒められ、戦場に向かう先輩の姿を見て「後に続こう」と同級生に呼び掛けた。周りから尊敬されていく自分を誇らしく思ったという。「クリスチャンであることと、軍国少年を目指すことに葛藤はなかったんですか」。私がそう尋ねると、関田さんは眉をひそめて言った。「キリスト教徒という少数派でいる自分が、良くないと思ってたんだよ」◆ 太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年、関田さんは学徒動員により大阪の陸軍工廠で薬品の梱包作業していた。米軍の空襲で同僚たちが亡くなるのを見た。 八月七日には、全てのやけどの薬品に「広」と暗号を付けて出荷。広島の原爆被害の対応 だった。それでも「日本は勝っている」と信じていたが、八日後に玉音放送を聞く。/戦後のラジオ番組で、敗戦の真相を知った。ミッドウェー、ガダルカナルインパール。「だまされた」と衝撃を受けつつ、「お国のために死ぬ」と周りに言い続けた軍国少年としての「戦争責任」を感じたという。戦後、空襲で死んだ同僚らの遺体を掘り出す作業をし、「スコップが遺体に当たった感触や臭いは、今も手や鼻に残っている」と話す。/関田さんは当時、十七歳。私か普通の高校生活を過ごしていた年齢で、とてつもない思いを背負わされていたことに、がくぜんとした。◆ 関田さんは五七年に牧師となり、川崎市の桜本地区の新しい教会に住み込んだ。朝鮮半島の植民地支配争により翻弄された在日コリアンが多く住む地域。公立学校や企業に入れない姿を目の当たりにした。/少数派が不遇に遭う理不尽さを許せず、同時に自分の「戦争責任」を感じた。日立就職差別訴訟の支援など、牧師としての活動の大半を在日コリアンの差別解消に費やした。「ヘイトスピーチを許さない かわさき市民ネットワーク」代表も務め、今年制定されたヘイトスピーチに罰金を科す全国初の市条例実現にも尽力した。/関田さんの人生にずっと関わってきた「少数派」。話を聞き、私が今年、裁判を取材した相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件が頭をよぎった。社会の多数派と異なるだけで排除される――。それは戦争の時代に限らない。/今は千葉県大網白里市に居を移して過ごす関田さん。「少数派が排除されない平和な社会をつくるには、どうすればいいのでしょう」。私の問いに、「真実を後世に残していくこと。それが平和につながる」と力強く語ってくれた。同じ悲劇を繰り返さないよう、私たちの世代がどう平和を守り続けていくか。 か。自分に問い続けている。(「東京新聞」2020.8.12)

 

    8月15日は敗戦記念日で、連れ合いの父親が30歳で戦死したとされている日でもあり、連れ合いが生きていた時にはこの日が来ると落ち込んでいたのを思い出しました。憲法第9条の戦争放棄に基づいた世界平和の建設が今こそ望まれている、世界の悲惨な現実を直視したいと思います。