8月16(日)聖霊降臨節第12主日礼拝(通常10:30開始)
(注)讃美歌はインターネットで平井さんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
③ 讃 美 歌 204(よろこびの日よ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編146編1-10節(讃美歌交読詩編159頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書21章1-11節(新約39頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 561(平和を求めて)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-561.htm
説教 「エルサレム入城」 北村慈郎牧師
祈祷
福音書のイエスの物語におきまして、イエスがなぜ最後の時期にガリラヤでの活動に区切りをつけて、エルサレムに上っていかれたのかということが、若いときから私には一つの謎でした。
と申しますのは、もしエルサレムには上っていかないで、生涯ガリラヤの町や村で活動を続けていれば、もっともっと多くの病人や悪霊に取りつかれた人たちが かったのではないかと思うからです。
ところが、イエスはまだまだ多くの癒しを必要としていた人々を残して、ある時期に弟子たちと共にエルサレムに上っていかれました。今日のマタイによる福音書の記事は、そのイエスのエルサレム入りが、特別な人物のエルサレム入城として、非常に脚色されて描かれているものです。
このマタイ福音書の記事には、明らかに旧約の預言者ゼカリヤのメシア預言が反映されていると思われます。ゼカリヤ書9章9節には、≪娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って。/雌ろばの子であるろばに乗って。≫と記されています。
マタイ福音書の記事には4節、5節に、イエスが二人の弟子に子ろばを引いて来るように命じた後、≪それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。/『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」≫とあります。この預言はイザヤ書62章11節とゼカリヤ書9章9節の混合です。
その後のイエスのエルサレム入城の記事も、子ろばに乗った平和の王の入城として描かれています。≪大勢の群集が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られた方に、祝福があるように。/いと高きところにホサナ。」≫(8,9節)。
このマタイ福音書の記事には、イエスを救い主メシア(王)とする信仰が反映されています。
実際のイエスのエルサレム入りは、このような形ではなかったのではないでしょうか。ユダヤ人の大切な過ぎ越しの祭りが近づいていましたので、エルサレムに上る巡礼者の群れの一員として、余り目立たないように、エルサレムに入っていったのではないでしょうか。多少のパフォーマンスはあったかもしれませんが、少なくとも今日のマタイによる福音書の記事のように、救い主メシアのエルサレム入城のようなパフォーマンスではなかったと思われます。
何れにしろイエスがエルサレムにやってきたのは、エルサレムがガリラヤを含めてユダヤの国の中心だったからです。そこにはエルサレム神殿があり、ユダヤのサンヒドリンという自治機関があり、エルサレム神殿の大祭司がサンヒドリンの議会の長を兼ねていて、ユダヤの宗教的、政治経済的な権力の中心に立っていました。地方に農園を持っている富裕層もエルサレム近辺に大邸宅を構えていました。エルサレムに人が多く集まる過ぎ越しの祭りのようなときには、ローマ総督とローマ兵もエルサレムに来て、暴動などが起こらないか監視していました。そのようにエルサレムはユダヤ人にとって宗教的・政治的経済的権力の中枢の町でした。
一方イエスは、神はこの世においては貧しく小さくされている人と共におられて、苦しむ者とともに、悲しむ者と共におられるという確信をもっていたと思われます。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」というイエスの宣教は、イエスの病者や悪霊にと取りつかれた人の癒しの業と一体となって、この世の最も貧しく小さな者を大切にされる神の支配としての神の国が突入していることを示すものでした。
病者や悪霊に取りつかれた人は、肉体的精神的な病を負って苦しむだけでなく、罪人として人々から見棄てられていた人たちです。或いは中には罪人として人々から疎外されていたがゆえに、心身の病気になってしまった人もいたかもしれません。イエスは癒しの業を通して、その一人一人が他の人と変わらず、無条件に生存が肯定されていることを示されました。存在しているだけでオッケーという発信です。
赤ちゃんのころはともかく、この社会では、人は青年になり大人になると、その人が何をするかによって計られる様になります。勉強が出来るか、仕事ができるか。何も出来なければ、無価値な存在というレッテルが貼られます。赤ちゃんの時には、存在しているだけでオッケーです。イエスは、大人になった人でも、みんな神の赤ちゃんなのだから、存在しているだけでオッケーという神の国の根本的な秩序を、病者や悪霊に取りつかれた人の癒しによって発信したのだと思います。
勉強ができ、仕事ができる人にも、イエスは、全ての人に語られたように「仕えられるためではなく、仕える人になりなさい」と言われました。その能力や行動は神の賜物なのだから、私物化しないで、必要な人には、無償で贈与しなさいと言われ、自ら率先して「仕える人」として歩まれたのです。「わたしが来たのは仕えられるためではなく、仕えるためだ」と、はっきりとおっしゃり、それを実践されました。
無条件に存在が肯定されなければ、生きていけない赤ちゃんのような人を、一番大切にして、みんながその赤ちゃんに仕えるコミュニティーが、この世にある神の国のフロントなのです。
本当は教会もそういう神の国のフロントだと思います。私たちの教会は毎日曜日に開かれている礼拝が中心です。コミュニティーの要素はほとんど持っていません。それだけに日常の生活の中での他者との関りにおいて、そのような最も貧しく小さくされている人に仕えるコミュニティーにふさわしい社会を創る生き方が求められているのではないでしょうか。
さて、イエスがエルサレムに上っていかれたのは、ユダヤの国の中枢である権力と組織と人間が集中していたエルサレムにおいて、神の国を宣べ伝えなければならないと思ったからに違いありません。
そしてそれを遂行した時に、自分の命すら奪われるかも知れないという予感を、イエスはエルサレム入りするときには、どこかにもっていたのではないかと思われます。
それでも、どうしてもエルサレムに行かなければならないという決意をもって、イエスはエルサレム入りしたのではないでしょうか。
何れ説教でも扱いますが、マタイ福音書の23章37節以下に「エルサレムのために嘆く」イエスの言葉が記されています。そのところを読んでみたいと思います。≪「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度も集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」≫(23:37-39)。
ここには、神のみ心に背くエルサレムへのイエスの嘆きが語れています。そしてそのエルサレムが神に審かれることが、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」という言葉で語られています。
ルカ福音書のイエスのエルサレム入城の記事には、マタイ福音書にはないこのようなイエスの言葉が付け加えられています。≪エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」≫(19:41-44)。
ここにはイエスが都エルサレムのために泣いたと言われています。なぜならイエスは、神の審きによるエルサレムのローマ軍による滅亡を予見していたからです。≪やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。≫と。
イエスは、来るべきエルサレム滅亡を予見して、エルサレムのために泣いたと言うのです。もしイエスが神のみ心をないがしろにしているエルサレムの滅亡を、遠くから見ているだけだとするならば、エルサレムのために泣くことはなかったのではないでしょうか。エルサレムのために泣いたのは、イエスがエルサレムの滅亡を傍観することができなかったということではないでしょうか。
最も小さな赤ちゃんのような人を中心にして、みんなが仕え合う神の国の到来という神の国の宣教と、そのしるしである病者や悪霊に取りつかれた人の癒しを、イエスはエルサレムでも行うために、イエスにはエルサレムに行く必要があったのです。けれども、エルサレムにはこの世の権力が集中していますので、ガリラヤの町や村でイエスが受け入れられたように、エルサレムでも、イエスは自分が受け入れられるとは思っていなかったに違いありません。それでもイエスはエルサレム入りしました。
言葉を換えて言えば、神がイエスをエルサレムに派遣したと言えるでしょう。そしてイエスは信仰によってその神に従ってエルサレムに入っていったのです。
今日のマタイ福音書の21章10節、11節には、≪イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。≫と言われています。
ここに≪イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。≫と言われています。
香港で中国政府の国家安全維持法に違反した疑いなどで逮捕され、保釈された民主活動家の周庭さんのことは、みなさんもご存じだと思います。まだ20代の女性ですが、10代から香港の民主化活動をしている人です。全体主義的な国家維持をめざす中国共産党と民主的な社会を求める香港の民主活動家とでは、水と油で、一緒にはなれません。当然中国共産党による香港の民主活動家の弾圧が予想されます。今回の周庭さん等の逮捕は中国共産党の弾圧の意思表示で、すぐ保釈されたのは中国共産党が国際世論を気にしているからだと思われます。
このようにそもそもその人が立っている、あるいは立とうとしている社会の土台が違う場合、どちらが生きれば他は死ななければなりません。政治的権力と宗教的権威と富裕層が一体となって、貧しい人や律法違反者(違法行為者)を抑圧差別していたエルサレムに、抑圧差別されていた貧しい人や律法違反者と食事を共にして、神の国の住民として彼ら・彼女らと対等の付き合いをしていたイエスが入ってきたのです。イエスが、エルサレムの住民から「いったい、これはどういう人だ」と言って騒がれたのは、当然ではなかったのではないでしょうか。
エルサレムの中枢にいる人をはじめ、エルサレムの住民にとって、イエスは異質で、自分たちの常識を脅かす危険人物だったに違いありません。このイエスの異質性と常識を覆す危険性は、イエスだけでなく、信仰者にも備わっていなければならない特性ではないでしょうか。
そうであるからこそ、イエスは世の光であり、イエスに従う信仰者は「闇の中を歩まず、命の光を持つことができるのではないでしょうか(ヨハネ8:12)。
祈ります。
神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
今日はイエスのエルサレム入城の記事から、あなたの語りかけを聞きました。イエスは、ローマによるエルサレム滅亡という終末的な状況が迫っているエルサレムに入っていき、そこで言葉と行動をもってあなたが生きて働いていることを証言しました。そのことによって正義と公平、平和と喜びに満ちる神の国の到来を告げ、人々をその神の国へと招きました。そのためにイエスは殺されましたが、イエスの証言はイエスの死を超えて、今も世の光であります。どうか私たちもこの時代と社会の中にあって、イエスの証言に連なるものとならしめてください。
昨日は75回目の敗戦記念日でした。二度と再び私たちの国が戦争を犯してはなりません。安倍政権は軍事による国の安全保障を目指していますが、どうか憲法第9条による軍事によらない平和の構築へと私たちの国を導いてください。そのために私たちも働くことができますようにお導きください。
今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 464(ほめたたえよう)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-464.htm
⑪ 献 金
(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上
に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。