なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(63)

「よい木はよい実を結ぶ」 マタイ12:33-37 2020年1月19日礼拝説教

 

  • クリスマスが終わり、教会歴ではこれからレントに向かいます。今年は灰の水曜日が2月26日です。そこからレントが始まります。イエスの受難と十字架死を想い起す季節です。
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  • エスの十字架は、磔にされて絶命するまで晒されるという大変酷い出来事です。ローマ帝国が帝国に反逆する政治犯に対して行った処刑が十字架刑だと言われています。ですから、福音書におきましても、ユダヤの大祭司らによって逮捕されたイエスは、大祭司らによる審問を受けますが、それでイエスの処刑が決まったわけではありません。ローマ総督ピラトのもとに送られて、ピラトが十字架にイエスをかけることを決定したので、はじめてイエスは磔にされるのであります。
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  • それにも拘わらず、福音書によって、イエスを十字架にかけた真の犯人はユダヤ人であるという見方が、キリスト教徒の中で長い間流布してきたという歴史があります。事実、福音書のイエスの受難物語の中には、大祭司をはじめユダヤ人の指導者たちが、ユダヤの民衆を扇動して、イエスを十字架にかけたと思われる描き方がなされています。それは福音書の中でのことであって、それによって、後の歴史の中での反ユダヤ主義を正当化するものではありません。けれども、キリスト教国となったヨーロッパの中では、福音書ユダヤ人に対する描き方が反ユダヤ主義と結びついたと言えるでしょう。

 

 

 

  • 実は先ほど司会者に読んでいただきましたマタイによる福音書12章33節から37節のところも、イエスのファリサイ人批判が書かれているのであります。この部分は、前回の説教で扱いました22節以下の「ベルゼブル論争」の続きです。「悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった」(22節)というイエスの奇跡行為を、ファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)と言ったというのです。それに対して、マタイによる福音書では25節以下で、イエスファリサイ派批判が記されています。そこではファリサイ派の人々は聖霊を汚す者として、「この世でも後の世でも赦されることはない」(32節)とまで言われているのであります。

 

 

  • 33節から37節の言葉そのものは、一つ一つ格言のような言葉でニュートラルな言葉です。「木が良ければその実も良いし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその実で分かる」(33節)。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るものである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いもの入れた倉から悪いものを取り出してくる」(34-35節)。「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたがたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(36-37節)。けれども、これらのニュートラルな格言の集まりである33節から37節全体は、イエスファリサイ派批判の文脈の中にあります。この個所の中で唯一ニュートラルな言葉ではない、34節の「蝮の子らよ、あなたがたは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。」が、マタイ福音書では前後の文脈からファリサイ派の人々に向けられているからです。

 

  • ウルリッヒ・ルツは、マタイによる福音書の読者は、80年代から90年代ですので、このイエスによるファリサイ派の非難弾劾を、イエスの死と70年のローマによるエルサレム神殿の破壊を知って、その現実性について若干は知っている神的裁きの告知でもあると理解したのではないかと言っています。そして、「マタイ福音書の長所は、それが彼の教会を、神の裁きがファリサイ人の悪意ある言葉の上に下されたとの知識でもって単に慰めるだけではなくて、この知識が直ちに彼の教会に対する勧告となるようにするということである。教会も、彼らの効果のない言葉のゆえに有罪判決を下されるかもしれない!」と述べています。

 

  • 確かにこの個所は、文脈からするとファリサイ人批判になりますが、文脈から離れて、この個所だけを読みますと、マタイ福音書の読者(私たち自身)に向けられた言葉として読むこともできます。神の裁きがファリサイ人の悪意ある言葉の上に下されるのと同じように、マタイの教会の人々(私たち自身)の実りのない言葉の上にも下されるというのです。ファリサイ人に向けられる神の裁きの刃は、同じようにマタイ福音書の読者であるマタイ教会の人々(私たち自身)にも向けられるのだと。だからファリサイ人が神に裁かれることを、ざまあみろと、ただ傍観者的に見て、自分を慰めるだけではだめなのだというのです。ファリサイ人に下される神の裁きの刃は、同じように自分たちの上にも下されるのだと、自らに対する警告ととして受け止めるべきだというのです。

 

  • そうすると、「木が良ければその実も良いし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその実で分かる」(33節)。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るものである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いもの入れた倉から悪いものを取り出してくる」(34-35節)。「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたがたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(36-37節)。という一連の言葉は、信仰を与えられている私たちは、自らの罪によって断絶していた神との関係を、イエスによって回復していただき、神の子、すなわち「よい木」とされているだから、よい実を結ばなければならないと、自らに向けられた言葉をして読むことができるでしょう。

 

  • ところが、この福音書のイエスのファリサイ人批判が、そしてイエスを訴えて十字架にかけた大祭司を中心とするユダヤ人が、後のヨーロッパにおける反ユダヤ主義の正当化に用いられたことも事実です。ルツは宗教改革者のルターの著作の一節にそれを見ることができると言います。ルターの後期の一つの文書の中の一箇所で、今日のマタイの聖書箇所から説教者は何を学びとることができるかという問いに対して「ルターはこう答える、『われわれは、われわれの主イエス・キリストが真実なお方であると信じたい。そのお方は、彼を受け入れないで、むしろ十字架につけてしまったようなユダヤ人にたいして、そのような判決を『お前たちは蛇の孕んだ子であり、悪魔の子供たちである』との判決を言い渡されたのだ』と。そして『彼ら(ユダヤ人)が、有毒の、苦い、執念深い、そして陰険な蛇、ひそかに刺し害を与える・・・・暗殺者また悪魔の子供であるというキリストの判決とは、すべてのことが合致する。それだから、私は喜んで、彼らがそうであったらと思う。なぜなら、彼らはキリスト教徒ではないのだから』。それゆえ、マタイ的に様式化されたファリサイ人に対するイエスのけわしい判決は、ルターでは、ユダヤ人について考えられる限りのあらゆる悪意ある噂を~言葉を~信じさせるための神学的正当化となる。それは、歴史において数限りなく繰り返されたから、危険な現象である!」。

 

  • そしてルツは、「残念ながら、そのような現象の土壌は新約聖書テクスト自身にあるということが確認されねばならない」と、反ユダヤ主義の土壌は新約聖書テキスト自身の中にあると認めているのです。
  • 「・・・盲人や口の利けない者の癒しというような徴は本当に徴であって、・・・それらが特別の力を啓示するということではなく、イエスの奇跡において、苦難する人間の益のために愛が起こるということに、サタンに対する勝利が示される。これらの徴(22-27節を参照)と神の国到来(28節参照)との間には、飛躍すべき質的な距離が残る」。

 

  • 「マタイはこの飛躍すべき距離を見なかった。彼はそれを見ることができなかったのである。それゆえ、彼は、神の業に対するファリサイ人の悪意ある頑迷さのゆえに、彼らは聖霊に対する罪を犯していると非難するのである。それでもって、彼はイエスの奇跡において閃く神の愛をその逆に転じてしまう。われわれは、今日、この飛躍すべき質的な距離を見ることができる。それゆえ、われわれは~マタイにもかかわらず~ユダヤ教徒であれ、あるいは非ユダヤ教徒であれ、イエスの奇跡の中に神の働きのしるしがあることを拒否するにすぎない人間に、不信仰者のレッテルを張ったりしてはならない」。

 

  • つまり、聖書にしるされている言葉や物語は、自らへ向けられたものとして受け止めることが大切で、それを他者批判に使ってはならないということです。イエスの奇跡行為を批判したからと言って、ファリサイ派の人々も神の国から排除されるわけではないからです。イエスを十字架にかけろと叫んだユダヤ人も、イエスを裏切り逃亡した弟子たちも、イエスを知らないと否んだペテロも、そしてイエスを売り渡したイスカリオテのユダもです。しかし、マタイにおる福音書では「しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」(12:32)と言って、排除を語っているのです。それゆえ、ルツは「われわれは~マタイにもかかわらず~ユダヤ教徒であれ、あるいは非ユダヤ教徒であれ、イエスの奇跡の中に神の働きのしるしがあることを拒否するにすぎない人間に、不信仰者のレッテルを張ったりしてはならない」と強調しているのです。

 

  • そのことを踏まえながら、自分は悪い木ではないかと不安を抱えてではなく、すでにイエスによってよい木とされている者として、今日の個所の格言を味わいたいと思います。

 

  • 「木が良ければその実も良いし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその実で分かる」(33節)。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るものである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いもの入れた倉から悪いものを取り出してくる」(34-35節)。「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたがたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(36-37節)。
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  • 祈ります。