(注)讃美歌奏楽はインターネットで検索できます。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」
(詩編100:1-2)
③ 讃 美 歌 149(わがたまたたえよ)
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編71編18-24節(讃美歌交読詩編77頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書23章25-36節(新約46頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 227(主の真理は)
説教 「偽善の代償」 北村慈郎牧師
祈祷
「あなたは幸福な人だ」と言われるのと、「あなたは不幸な人だ」と言われるのとでは、言われた人の思いは根本的に異なると思われます。「あなたは幸福な人だ」と言われた人は、うれしい気持ちになるに違いありません。一方、「あなたは不幸な人だ」「禍いあれ」と言われた人は、落ち込んでしまうのではないでしょうか。そのように祝福と呪いは全く違います。正反対と言えるのではないでしょうか。祝福の言葉は相手を元気づけ、生かす力があります。けれども呪いの言葉は、それこそ「呪い殺す」と言われますように、相手から生きる力を奪ってしまう、恐ろしい言葉です。そういう意味で、祝福と呪いは対照的な言葉です。
マタイのよる福音書では、イエスは祝福の言葉も、呪いの言葉も、両方語っています。祝福については、5章の3節以下に「幸いなるかな」心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、と言われています。
今日読んでいただいたマタイ福音書の箇所は、その前の23章13節以下を含めて、「律法学者たちとファリサイ派の人々」へのイエスの呪いの言葉が記されているところです。つまり呪われるべき人として「律法学者たちとファリサイ派の人々」が名指しされているのです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」(25節)と。
この新共同訳聖書の訳は、田川建三さんによりますと、「露骨な誤訳」で、「禍いあれ、汝ら偽善なる律法学者、パリサイ派よ」と訳すべきであると言われています。「みずから不幸であるのと、呪いの言葉をあびせかけられるのとでは、まったく意味が異なる」からだというのです。つまり、自分自身が「自分は不幸な人間だ」と思うのと、他人から「禍いあれ、汝ら偽善よ」と言われるのでは、意味が全く違うというのです。「自分は不幸だ」という人は、ある種自虐的な感じで言っているのではないかと思います。そういいながらも、どこかに自分を肯定しているところもあると思うのです。ところが、人から「禍いあれ、汝ら偽善よ」と言われれば、自分が全面否定されていると思うのではないでしょうか。
では、「禍いあれ、汝ら偽善なる律法学者、パリサイ派よ」という言葉で、なぜイエスは「律法学者たちとファリサイ派の人々」を呪ったのでしょうか。マタイ福音書23章13節以下には、イエスが「律法学者たちとファリサイ派の人々」を呪った七つの言葉がありますが、今日読んだところには、その内の三つが記されています。
25節、26節では、外側を清めて、内側を清めることをしない彼らの信心のあり方が挙げられています。「ユダヤ教徒は身を清く保つために細心の注意を払っていました。汚れることを恐れていたからです。ところが、清めた筈の食器の中には、貪欲と放縦という汚れが一杯詰まっているのだから、せっかく清めても何の役にも立たぬ、と糾弾しているのです」(髙橋三郎)。
27節、28節では、白く塗った墓に譬えて、外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている墓のように、彼らは「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と言うのです。「墓は死体が入っているので、これに触れると汚れを受ける。だからこれを防止するために、(殊に過ぎ越し祭の前には)水しっくいで白く塗り、そこに墓があることを明示して、うっかり人がこれに触れることがないようにと、配慮する習わしであった。しかし見方によっては、こうして美しく飾り立てたと見ることもできるわけだ。しかし中には死人の骨があるのだから、汚れが充満している。パリサイ派的偽善の典型として、痛烈に風刺しているのである」(髙橋三郎)。
そして29節、30節では、「預言者の墓を建てたり、義人の記念碑を飾ったり」して、預言者殺害を自分達とは無関係な過去の出来事として超然としようとする彼らの自分たちには責任はないとする自己免責が糾弾されています。彼らのやっていることは、預言者を殺害した人達と同じではないかというのです。
25節以前でも、「律法成就の道を誤らせ、天国に導く道を閉ざす彼らの教え」(12節)について、「律法の枝葉末節にこだわって、最も重要な正義、慈悲、誠実(公平、憐れみ、忠実)という根本戒律を見逃す彼ら律法遵守」(23-24節)について糾弾されています。
これらの理由によって、「禍いあれ、汝ら偽善なる律法学者、パリサイ人よ」という呪いの言葉が彼らの向けられているのです。
しかし、イエスが実際にこのような呪いの言葉を語ったのでしょうか。
福音書に記されています彼らとの論争物語からすれば、イエスは自分とは異なり、ある意味で敵対者である律法学者たちやファリサイ派の人たちと忍耐強い対話を繰り返しているように思えます。イエスは確かに彼らを非難しました。マタイによる福音書23章1-12節に記されていましたが、マルコによる福音書12章38節から40節の並行記事を見ますと、そのことがよりはっきりとします。
「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる』」
批判や非難をすることと、「禍いあれ」という呪いの言葉を彼らに投げかけるのとでは根本的に違います。批判や非難は彼らを全面的に否定しているわけではありません。しかし「禍いあれ」という呪いの言葉は、彼らに対する全面的な否定です。
福音書に描かれていますイエスと律法学者やファリサイ派の人たちとの関係からしますと、イエスは彼らを全面的に否定しているわけではありません。ですから、マタイ福音書のこの「律法学者たちやファリサイ派の人たち」へのイエスの呪いの言葉は、実際に生前のイエスによって語られたものとは思えません。
このイエスの律法学者やファリサイ派の人たちへの呪いの言葉には、1世紀末のマタイの教会とユダヤ教との対立が背景にあるように思われます。マタイ福音書が書かれた一世紀末のファリサイ派ユダヤ教は、キリスト教徒を会堂から追放したり、キリスト教徒への呪いの祈りをしていました。そのようなファリサイ派ユダヤ教に対するに対するキリスト教徒側からの過激な反応として、マタイ福音書23章の律法学者やファリサイ派の人々に対するイエスの呪いの言葉が考えられるのではないかと思われます。歴史的なイエスが語ったというよりは、一世紀末のファリサイ派ユダヤ教の軋轢を受けていたマタイ教会がイエスに語らしめたものと言えるでしょう。
そして、このような「禍いあれ」という叫びが、事実上、とりわけ近代において、実質的にヨーロッパの(ナチによるユダヤ人虐殺というホロコーストに通じる)反ユダヤ主義に貢献したことを忘れてはなりません。
実際ウルリッヒ・ルツも、このように言っています。「私にとって、イエスの自分の敵を愛しなさいという愛敵の命令と、この禍いなるかなの叫びにおいて、律法学者とファリサイ人たちに起こったこととの間には、説明しさることのできない根本的な矛盾がある。『それゆえ、M.ルターの言葉でもって』~そしてそれも、公然と公に~『言わねばならない、このテキストは(キリストを駆り出す)ことをしない、と』」。この「禍いあれ、汝ら偽善なる律法学者、パリサイ派よ」というイエスの言葉からその背後にイエス・キリストがいるとはとても思えないと言うのです。
このことは何を意味しているのでしょうか
それは、マタイの教会の中には、イエスの宣教がもたらし、めざした神の国の実現成就からすると、イエスとは違う異物が混入しているということ示していると思われます。そのイエスとは違う異物とは、マタイの教会がファリサイ派ユダヤ教側から厳しい否定を受けていましたので、逆に護教のためにファリサイ派ユダヤ教を否定するという誤りを犯してしまったのではないでしょうか。そのために律法学者たちやファリサイ派の人たちにイエスが「禍いあれ」という呪いの言葉を語ったということにしたのでしょう。
キリスト者と教会が陥り易い落とし穴があります。
それは、キリスト者と教会が自分を守るために神やイエスを、自分の側に引き寄せて、護教のための偶像にするという誘惑です。
その誘惑が、厳しくイエスによって諌められているところが福音書の中にあります。
それは、ペテロに対するイエスの叱責の言葉です。ペトロがイエスに対して「あなたは、メシアです」と信仰を告白した後に、イエスは受難復活予告を弟子たちにします。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8:31)と。すると、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。・・・・神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。』」(マルコ8:32-38)。
他者である隣人を呪うまではしないとしても、自分たちの仲間から排除することは、私たちもしているのではないでしょうか。しかし、イエスは自分のように隣人を愛しなさいと語り、敵さえも愛しなさいと語っているのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(第一コリ12:3)ように、聖霊によらなければ、誰もそのイエスに従うことはできません。自分を守るために自己流に自分の方にイエスを引き寄せるのではなく、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従っていくことによって、イエスと一つになることができるように、聖霊をあたえられたいと切にねがいます。
祈ります。
- 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、現在のグローバルな世界の中で、大国の自国優先主義が頭をもたげ、連帯ではなく、新たな分断と対立が起こっています。また、コロナウイリス感染の不安の中で、その不安を払しょくするためには強権的な国家が優れている状況があり、民主主義と人権と平和が脅かされる危険を感じています。
- そのような時であるからこそ、マタイ福音書のイエスの「禍いあれ、汝ら偽善な
- 律法学者、パリサイ人よ」という言葉を、注意して読むことができますように。そしてこのような呪いの言葉ではなく、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉を大切にしていくことができますように、私たちを導いてください。
- 分断と対立が露になってきているこの社会の中で、和解と平和を創り出す者として、私たちをそれぞれ遣わされている場にあって立たせてください。
- また、政治をつかさどる者たちに、分断と対立を煽るのではなく、平等と連帯を大切にする平和な社会を創り出する力を与えてください。
- 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 571(いつわりの世に)
⑪ 献 金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
- 讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo
⑬ 祝 祷 主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン ⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。