なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(99)

11月8(日)降誕節前第7主日10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 ② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃 美 歌    19(み栄え告げる歌は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-019.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編105:1-11(讃美歌交読詩編115頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書23章1-12節(新約45頁)

       (当該箇所を黙読する)

 ⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 ⑧ 讃 美 歌 403(聞けよ、愛と真理の)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-403.htm

説教 「偽善に陥らない」  北村慈郎牧師

祈祷

  他者を批判したり、非難したりすることを嫌う人も多いと思います。それは相手を悪く言うことによって、その人が自分だけが正しいことを誇っているように思えるからでしょう。けれども批判がありませんと、私たちはお互いに自分を正当化して、現状の自分を守っていることになり易いのではないでしょうか。変わり合って、より深い真実に立って生きるという共生の経験は、むしろ相互批判の中から生まれてくるように思われます。

 例えば夫婦の間におきましても、おかしなことがあれば、お互いに批判し合いながら共通理解を積み上げていきませんと、だんだんお互いの違いが大きくなって、そのうちに一緒にやっていけなくなってしまうということにもなりかねません。

 ですから、批判は大切なことです。ただ他者を批判することは、その批判の刃を自分自身にも向けることでもあるということを忘れてはならないと思います。

  私は名古屋時代に、この他者を批判することは、その批判の刃を自分自身にもむけることであるという、他者批判=自己批判ということを身体で覚えることができたと思っています。それは、ほぼ同世代の5,6人の仲間との、それぞれの違いを超えて、どこで一致できるかという共通認識をもつためにした、膨大な時間をかけた話し合いによってです。その話し合いの中で、自分に向けられた批判に誠実に応えようと、自分なりに努力することによって、自分も変わっていくことを経験することができました。そのことを通して、お互いに変わり合って、それまでよりもより一歩真実に近づくことができるのではないかと思えたからです。

  論争も本来はそのような相互批判によって、より真実にお互いが共に近づくためのものではないかと思われます。けれどもイエスに論争を挑んだ、マタイ福音書サドカイ派の人たちやファリサイ派の人たちは、論争を、イエスを貶めるための道具に用いたのです。ですから、彼らは最初からイエスとの論争によって真実を求める姿勢が決定的に欠けていました。

  そのサドカイ派の人々やファリサイ派の人々とイエスの論争の後に、マタイによる福音書は、23章でファリサイ派の人々を非難するイエスの一大説教を記しています。今日のマタイによる福音書の箇所はその最初のところに当ります。律法学者やファリサイ派の人々への批判を、イエスが群集と弟子たちにお話になったというのです。これは、律法学者やファリサイ派の人たちを反面教師にして、弟子たちや群衆が学ぶようにというイエスの思いの現れかもしれません。

  「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23:2,3)と。

  随分厳しいことをイエスはおっしゃいます。これは、律法学者やファリサイ派の人々の教えそれ自体ではなく、彼らの偽善を批判するイエスの言葉です。彼らの語っている教えそのものはイエスの弟子たちも守るべき大切なものであると、イエスは言っているのです。

  マタイによる福音書の22章34節以下の「最も重要な掟」について記されていたところで、第一の掟は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」であること。第二の掟も第一の掟とおなじように重要であると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」と記され、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われていました。これが「モーセの座」です。そしてここに生命の真理とも言える、人間が人間らしく互いに助け合い、支え合って生きる一番元になる命の源があると言うのです。「だから、彼らの言うことは、すべて守りなさい」と、イエスはおっしゃっているのです。

  この「すべて」というのは、律法学者やファリサイ派の人々が言っていることをそのまま「すべて」ということではありません。彼らの教えの根本となっているモーセの掟の本質を「すべて」ということで言っているのです。

  例えば福音書の中に、イエスの弟子たちが手を洗わないで食べたとか、安息日に畑の麦の穂を摘まんで食べたことが、律法学者やファリサイ派の人々から律法違反として責められているところがあります。それに対してイエスは反論し、弟子たちを弁護しています。イエス自身も、瀕死の病気以外はいやしてはならないという安息日の律法を破って、片手のなえた人を癒しています。そういう意味では、律法学者やファリサイ派の人々が言うことを、イエスも弟子たちもすべて守っているわけではありません。

  ですから、ここでイエスが言う「すべて」は、命の源であるモーセの掟の本質を指すと考えられます。

  「しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。有言不実行。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そうすることは、すべての人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上座に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」(4-7節)。人には強要しながら、自分では守らす、ポーズばかりつけているというのです。

  教会では牧師が陥りそうな誘惑ですね。牧師は教会においてある種の指導性を発揮しています。聖書を解き明かし、説教や教えを語り牧会という働きを担っています。その意味で牧師もある種の専門職と言ってよいかもしれません。

  しかし、教会は最初から牧師職を制度として持っていたわけではありません。イエスの死後誕生した原始教会の時代は、パウロのような巡回伝道者のような人はいましたが、現在の牧師や司祭のような人はいなかったと思われます。まして神学校を卒業して、教団の教師試験を受けて、任職された牧師が教会に現れるのは、教会が相当制度化した後です。最初期で本来の教会はイエスを信じる者たちの兄弟姉妹団のような集団で、信徒と教職というある種の階層性は持っていませんでした。日本基督教団の現在の教会では、多くの場合信徒は教職である牧師を「先生」とか「牧師先生」とか呼んでいます。牧師同士でも互いに「先生」と呼び合っている場合もあります。私はできるだけ牧師同士の場合は、「さん」と呼んでいますが、さすがに関田先生だけは、「関田さん」とは言えませんので、「関田先生」と言っています。

  イエスは、律法学者やファリサイ派の人々への批判から、弟子たちに向かって、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(8-10節)と語っているのです。

  このイエスの言葉からすれば、関田先生に対しても先生と言ってはいけないということになります。「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われているのですから。

  ルツは、ここでマタイの念頭に浮かんでいるものは、「上下のない教会、奉仕の教会、平等な者たちの、連帯する兄弟姉妹の教会」であると言っています。また、「神が唯一の父であることは、教会において他の神々を排除するのみならず、人間の父・長(パトリアルコス)をも排除するのである。キリストが唯一の師匠であることは、他の、人間の教師や師匠を排除するのである。キリストの教会において、階級制が、それゆえ聖なる支配が、あってはならない。なぜなら、兄弟姉妹による兄弟姉妹のそもそも支配が、あってはならず、相互奉仕のみがあるべきなのだから」と言っています。そして「私はマタイ23:8-12を、ひとりの天の父とひとりの師匠キリストに対する信仰の名において、制度化と階級制化へと傾くキリスト教的傾向に逆らう効果を与えようとする試みと解したい」と言っています。

  8節から12節をもう一度読んでみたいと思います。≪だが、あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。≫(23:8-12)

  イエスの弟子集団である教会は、人間を上下関係でとらえる階級制をもたない、ルツが言うように、「上下のない教会、奉仕の教会、平等な者たちの、連帯する兄弟姉妹の教会」なのです。イエスを信じ対等な「平等」と「連帯」による一致を大切にする教会には、教師ぶる律法学者やファリサイ派の人たちの偽善はあってはなりません。マタイが23章で律法学者、ファリサイ派の人たちの偽善を厳しく批判しているイエスの言葉を記しているのも、そのためではないでしょうか。

  誰も排除されない対等で平等で、しかも分裂ではなく連帯による一致のある人間関係、それは教会だけでなく私たちの社会の中でも大切な人間関係ではないでしょうか。対等で平等ということは、教師がいないわけではありません。一つ一つの事柄において教え・学ぶ関係はなければ、現状を変えることはできません。牧師と信徒という関係を前提にすれば、対等で平等であるということは、その関係が固定するのではなく、ある時は信徒が牧師であり、牧師が信徒になるということで、事柄によってその立場が変わることを意味します。トップダウン方式で権力を前提にして、権力のある人とその人の言うことにただ従うだけの人という一方的な関係は、教会にはなじみません。

  コロナウイリス感染防止においては強権的な政府が効果を発揮しています。また、資本主義社会においては超金持ちと政治家が結託して、情報を駆使し、権力によって民衆を従わせて、経済至上主義によって社会を動かしています。そのために、産業革命以降のこの150年間で、自然環境の破壊による気候の温暖化が危機的な状況になっています。人任せにしないで、自分たちで考え、誰もが排除されない民主的な話し合いの中で、私たちの生活に必要な働きを大切にして、そうでないものはなくしていき、自然との共生を求めていく。今そのことが私たちに切実に求められているように思われます。

  それだけに今こそ、イエスを主と信じ、神のみに従う私たち信仰者の平等に基づく連帯による一致と、神の賜物として与えられた自然をみんなの共有物として大切にしていくことに、私たちは立ち返って、自らの生活を点検していけたらと思います。そのような教会としてこの世に仕えることができれば、幸いに思います。

 

祈ります。

・ 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心か

  ら感謝いたします。

・ 今日はマタイによる福音の一節を通して、わたしたちは、何の幸いか、教会共同体 

  の一員に加えられ、お互いに対等で平等な者として、イエスを中心とした連帯によ

  る一致へと招かれていることを、改めて知らされました。感謝します。    

  • 神さま、今私たちが毎日生活しています社会の現実は、そのような教会の在り方とは相反することが余りにも多いように思われます。
  • その中で私たちなりに自分の課題を見出して、この厳しい社会の中でキリスト者として生きていこうとしています。そのような私たちの傍らにあなたがいてくださり、励まし支えてください。
  • 神さま、どうか誰一人切り捨てられることのない、平等と連帯による一致がこの社会の中に広がっていきますように、お導きください。そのことによって格差が解消し、そんなに沢山富んでいなくても、みんなが豊かに暮らせる平和な社会が到来しますようにお導きください。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌 487(イエス、イエス

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-487.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一 同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。   アーメン 

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。