なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

11月1日(日)永眠者記念礼拝説教(Ⅱコリント5章1-10節)

11月1(日)降誕節前第8主日永眠者記念10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃 美 歌    18(心を高くあげよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編51編3-11節(讃美歌交読詩編55頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   コリントの信徒への手紙二、5章1-10節(新約330頁)

      (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌 518(主にありてぞ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-518.htm
 

説教 「永遠の住み家」   北村慈郎牧師

祈祷

  今年の永眠者記念礼拝は、私自身にとりましては、特別な日になりました。今日の週報に船越教会に関係する、それぞれのこの世の人生を歩み終えて、既に神のもとに召された方々の名前が記るされています。その最後に私の連れ合いが、今年新しく加わったからです。今年は、連れ合いだけでなく、福岡在住だったW・Tさんも新しく加わっています。船越教会という20人位のメンバーの教会で、この1年の間に、二人のひとが天上の人になりました。私の連れ合いは1年半がんを抱えての生活を経て、神に召されました。けれども、W・Tさんは、朝元気に散歩かジョギングにでかけて、家に帰ってきて玄関前で倒れて、そのまま召されたと言われます。そういう点では、私はある程度覚悟はできていましたが、W・Tさんのご家族の方々は、青天の霹靂で、達宜さんの突然の死に戸惑われたのではないかと思われます。

 私たちには、自死以外には、どのような死に方をするかを選ぶことができません。自死は、神を信じる者にとっては通常は許されていませんので、私たちにとって、死は受動的、必然的な形で私たちのところにやってくるものです。しかも死は誰にも必ずやって来るのですが、その死への準備はなかなかできないものです。死の宣告を受けて、はじめて「いよいよ自分は死ぬのだ」と自覚させられるものでしょう。

 今日は、最初に少し連れ合いのことをお話させてもらいたいと思います。連れ合いの記念誌に私は、「病気がわかってから帰天までの千賀」と題して文章を書きました。その中に、彼女は病気が発覚して、医者から抗ガン治療をしなければ一年、しても二年から五年と宣告されて、抗ガン治療をえらびましたが、「ただその時彼女は、痛みの苦しみは取り除いてもらいたいけれども、死は怖くはないという主旨のことを言っていました」と書きました。そして事実1年半の病気との向かい合いの中で、からだのしんどさを訴えることはありましたが、死への恐怖は一切語ったことがありませんでした。むしろ、元気なころから「私より先に死にたい」と繰り返し言っていましたから、私よりも先に死ねることをどこかで喜んでいるかのようでした。

 そのような彼女の死との向かい合いの中で感じさせられましたのは、彼女にとって死は終わりではなく、通過点に過ぎないのではないか、ということでした。彼女は、最後に「もう充分、感謝」と言ってから、しばらくして昏睡状態になり、そのまま眠るように息を引き取りました。

 「死別」という言葉があります。「死別とは、人と死に別れてしまうことを言います」。彼女は夫である私に対しても、子供たちに対しても、また彼女を見舞ってくれたたくさんの知人・友人に対しても、死によって別れ別れになるとは、全く思っていなかったのではないでしょうか。

 たまたま自分は与えられたこの世の人生の旅を終えて去っていくが、いつかまた一緒になれる時が来るということを、全く疑っていないと言うか。或いは、自分は病を得て死んで、先に行くべきところにいっているので、「後から来てね」というような感じなのか。とにかく彼女から、死によって別れ別れになってしまうということは、全く感じられませんでした。そういうことからして、彼女にとって、死は終わりではなく、通過点に過ぎないのではないか、と私は感じたのです。

 そのような彼女の姿勢の中に聖書が語る信仰が肉体化していたのかどうかは分かりませんが、聖書の語る信仰からしますと、確かに死は終わりではなく通過点に過ぎないと言えるように思われます。

 先ほど司会者に読んでもらいました、パウロのコリントの信徒への手紙二、5章1節以下には、ある面で死を超えている事柄が記されています。したがって死は終わりではありません。

 5章1節に、≪わたしたちの地上の住み家である幕屋≫とあります。9節では、≪体を住みかとしていても、・・・≫と言われていますので、≪わたしたちの地上の住み家である幕屋≫とは、私たち人間のこの世における在り方、具体的には身体をとおしての在り方のことではないかと思われます。私たちはこの地上では身体を住みかとし、幕屋として生きている、と言っているのです。その≪わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです≫と、パウロは言っているのです。

 もしそうだとするならば、私たちの肉体である身体が滅んで、死んでも、それで終わりではありません。私たちは身体という束縛を離れて、霊として天にある永遠の住みか、建物で生きている、ということになります。とすれば、死は、私たちにとって明らかに最終地点ではなく、通過点に過ぎないことになります。

 このコリントの信徒への手紙二、5章1-10節では、ただ私たちは地上では身体という住みかに住んで生きて、身体が死によって滅んだら、天にある永遠の住みかに行くのだということを語っているのではありません。パウロは、身体という地上の住みかの上に天にある永遠の住みかを着たいのだと、言っているのです。

 ≪わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。・・・この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいていますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです≫(2、4節)。

 パウロは、死んだら天にある永遠の住みかに行けると言っているのではなく、身体を住みかをとして地上で生きているときに、天にある永遠の住みかを上に着たいと切に願っているのだ。≪わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えてくださったのです≫(5節)と、言っているのです。

 パウロは、身体を住みかとして地上で生きている私たちは、死んだら当然のようにして天にある永遠の住みかに行けるとは言っていません。むしろ≪それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています≫(6節)と言って、神から与えられた霊の力によって、≪体を住みかとしているかぎり、主から離れている≫という罪の自覚を与えられたことを、心強いと言うのです。

 この罪の自覚を与えられて、わたしたちは≪目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいる≫(7,8節)と。

 パウロは、フィリピの信徒への手紙でこのようにも語っています。≪わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です≫(1:21-24)と。

 ≪だから、体を住みかとしていても、体を離れているとしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの審きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住まいとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです≫(9,10節)と、パウロは言うのです。

 このようなパウロの信仰によれば、私たちは体を住みかとして生きるこの地上での生活を、主に喜ばれる者でありたいとの思いをもって、他者と共に互いに仕え合い、助け合って生きようと努めているのではないでしょうか。それが「善を行う」ということではないかと思います。

 ところが、資本制社会で生きている私たちは、行いのほとんどを生活を維持するお金を稼ぐことに注がざるを得ません。そのために職業につくわけですが、人と人との関りが中心で、互いに仕え合い、助け合う仕事は限られていて、またそのような仕事は賃金が安いので、家族の生活を支えなければならない立場の人は、人から多くを奪う企業に勤めていくわけです。そうすると、その企業は資本制社会の中でなるべくより多くを奪うことで利益を上げているところですから、競争の中に組み込まれて、結果的に企業の悪に加担させられてしまうわけです。何の疑いもなくその生活を長く続けていれば、他者を意識し、他者を気遣う心も失ってしまします。そういう生活に問題を感じて、自分の自由にできる時間だけでも、人助けのボランティア活動に注ぐ人もいるでしょう。けれども、その行為も免罪的なものになってしまいますので、この資本制社会の中で善を行うことの難しさを思わざるを得ません。

 いずれにしても、≪わたしたちは皆、キリストの審きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住まいとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない≫わけです。

 連れ合いは、たまたま保母として子供たちとの関りの仕事を与えられて、彼女としては最善を尽くして与えられた人生を生きることができたという満足感をもって死を迎えることができたのだと思います。息を引き取る間際に「もう充分、感謝」と言って去って行ったのは、その証左ではないかと思われます。

 だからと言って、彼女の生前の行いのすべてが神の審きに耐えられるとは思えません。彼女もそのようには思っていなかったでしょう。「神さま、自分としては最善を尽くしましが、過ちを犯したことも多く、足りないことも多いと思います。その点は神さまどうぞ赦してください」。そんな思いをもって彼女はこの世の人生を終えて行ったのではないかと推察します。

 私は、資本制社会の中で悪に加担した人の行いは神に審かれますが、だからと言って、その人が天の永遠の住まいに迎えられないとは思いません。罪贖われて、キリストのような復活体となって、すべての人が永遠の住まいにむかえられるのではないかと信じています。だからこそその究極的な終わりとしての完成にふさわしい姿にこの世界がなるように祈り、自分なりに努めているのであります。

 今日の永眠者記念礼拝では、私たちにとって死は通過点に過ぎないことを改めて確認したいと思います。そして、私たちはすべて、その生前の行為を神に審かれ、その報いを受けなければならないこと。その上で、キリストと同じ復活体に変えられて、人類共同体として天の永遠の住まいに迎えられることを信じたいと思います。そうだからこそ、私たちは生きている限り、この終末の究極的な人類共同体にふさわしい社会をこの世の中で身近な他者との関りの中から創り出していきたいと思います。

 そのために主が命の霊を私たちに豊かに注いでくださいますように。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今日は永眠者記念礼拝です。船越教会に関わりのある今までに天に召されたら方々を偲び、今日は礼拝を捧げています。この1年間で新しく二人の方があなたのもとに召されました。これらの方々があなたの天の永遠の住まいに迎えられて、今その人類共同体の一員となっていることを信じます。残されたご遺族の方々に慰めと平安が与えられますように。また、私たちも何れあなたに召される時を迎えることになります。それが何時かはわかりませんが、神さまどうかこの世に生きる限り、私たちに善きことに励む力を与えてください。特に今人と人との分断が世界の各地で起きていることを憂えるものです。どうか互いに尊厳を大切にしながら、分断を超えて共に生きることができますように、私たち一人一人をお導きください。また権力を持つ人々の権力を、仕える権力に変えてくださいますように。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌 385(花彩る春を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-385.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う) 

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン 

⑭ 黙  祷(各自)

                      これで礼拝は終わります。