なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(36)

2月27日(日)降誕節第10主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   6(つくり主を賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編125編1-5節(讃美歌交読詩編143頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙8章26-30節(新約285頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      463(わが行くみち)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-463.htm

⑨ 説  教    「霊による執り成し」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)8章を読んでいて、パウロがここで語っていることは、神の第二の人間創造とも言える、「アッバ、父よ」と神に呼びかけ、祈り、神の子どもとして生きる新しい人の創造ではないかと思えてならりません。

 

  • しかし、現実の人間である私たちは、アダムが神のようになろうとして、神の命令を破り、神への従順を棄て去って、自己中心的に生きる罪人であることから解放されているわけではありません。信仰者=キリスト者と言えども、今なお罪を犯したアダムの末裔の一人であるわけです。

 

  • パウロ自身「私はなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう」(7:24)と叫ばざるを得なかったわけです。それは、パウロは生きる限り、自分が肉に従って生きざるを得ないということを、そして「肉の思いは死である」(8:6)ということを、よく認識していたからに違いありません。

 

  • 一方で、パウロは、イエス・キリストを信じる者は、神の霊による新しい人としての第二の神の人間創造に与っているという確信も持っていました。ですから、「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう」と言った後、すぐにそれに続けて、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(7:25)と、神への感謝を言い表しているのであります。

 

  • 神に感謝すると共に、人間の惨めさを嘆く、この二律背反的な状況の中で、イエス・キリストによる神の第二の人間創造としての新しい人として生き続けて行くためには、神の霊による執り成しによる以外に道はない。これが、今日のローマ書8章26節から30節のところで、パウロが語っていることなのです。内容的には、すでに8章16節で語られていることと同じです。≪まさにその霊が我々の霊に、我々が神の子であるということを証言してくれている≫(8:16,田川訳)。これと同じことを、パウロは今日の箇所の特に最初の所で(26節、27節)で、もう少し丁寧に語っているのです。

 

  • 26節の最初の所で「同様に」と言われています。(以下川島重成による)この「同様に」は何と「同様に」なのか実ははっきりしません。このところは、文章の構文としては先例や決まりが破られた破格構文で、パウロの熱い思いがそのまま語られていて、パウロの昂る息づかいが感じられるところです。霊がわたしたちを助け給うのは、うめくという仕方によってである、とパウロは言っていのです。22節で全被造物のうめきが言われ、23節でキリスト者のうめきに言及されています。それを受けて、26節は「同様に」霊もうめき給う、というように、パウロの思いはつながっていったのだと考えられます。

 

  • しかし依然として「同様に」は問題を孕んでいます。「うめく」とは、肉の体を持った被造物のまさにその被造性に根拠を持った、救いへの希求としての叫びであります。その意味で、「霊」と「うめき」は本来結びつかない、相矛盾したものなのです。霊がわたしたちと「同様に」うめき給うと言われているのです。その非論理性にこそ、パウロの驚くべき信仰理解がよく表れていると言えるでしょう。

 

  • わたしたちの弱さを助け給うという霊の助けとは、わたしたちに代わってわたしたちの弱さを担い、まるでわたしたちがするように――その意味でわたしたちと「同様に」うめき給う、つまり、わたしたちの体の贖いをわたしたちに代わってうめき求め、待ち望むという仕方においてなされる、そのような助けなのだ、とパウロは言っているのであります。

 

  • 「わたしたち」に代わって、「わたしたち」と同じ低いところから、うめきつつ歎願し給う――これが26節の霊の「助け」の具体的な内容であると考えられるのです。わたしたちの祈りの言葉は、わたしたちの被造性に規定されていて、それが求めている救いの真実の姿をほんとうは表現できません。26節の霊の働きは、わたしたちの弱さを自らの弱さとして担い、わたしたちと同じ低さから、わたしたちに代わって(しかし、神にふさわしい言葉で)うめき歎願し給うということではないでしょうか。

 

  • 神が霊によって、惨めな人間であり続けているわたしたちと同じ低みから、わたしたちに代わって、わたしたちのために、神にふさわしい言葉でうめき、歎願して下さっているということが、現実にあるとすれば、それはわたしたちにとって何と心強いことでしょうか。

 

  • 霊のうめき、霊の執り成しが、そのような形で日常的にわたしたちには与えられているのだと、ここでパウロは語っているのではないでしょうか。26、27節をもう一度読んでおきたいと思います。≪同様に、霊もまた我々の弱さを助けてくれる。というのも、我々は何と祈るべきかを的確には知らないが、霊自身が言葉にならない呻きでもって我々を(神へと)仲介してくれるのである。(人間たちの)心を探り知る方(=神)は、霊の思いが何であるのかを、すなわち霊が聖者たちのために神に応じて仲介しているのだということを、知っておいでなのだ≫(田川訳)。

 

  • またバルトになりますが、バルトはこの26節、27節の霊のうめきについてこのように述べています。<パウロは今や(26-27節)先の16節におけるのとまったく同様の解明を行なう。まさにキリスト・イエスにある者は、彼ら自身の忍耐力、彼らの希望の躍動ぶりや熱心さに頼ることはしない。むしろ彼らは、彼ら以外の全世界の真唯中で、また全世界と同様に、ほろびへの奉仕のうちに立ち、それゆえに全被造物と共に呻くことをやめることができないゆえに、御霊(=霊)が彼らの弱さを助けに来るのである>と言って、<それはどのようにしてか>と問いを立て、このように述べています。

 

  • <希望にとどまる場合にも、待望の忍耐の場合にも、決定的な問題は、明らかに次のことである。すなわち、そこで、われわれは呼びかけというかの業の中に、アバ、父よ! という叫びの中に(15節)――その中で、恵みは恵みとして把握され、またまさにそのことによって、律法が満たされるのだが――とどまり、また歩みつづけるのである。まさにこの業をなすために、御霊はわれわれを助け、御霊自身がわれわれのためにとりなして下さる。なぜなら、われわれは何が正しい祈りであるか知るよしもないからである。またどうしてわれわれはまさにアバ、父よ!を、救いをもたらす唯一の偉大な祈りとして、正しく祈るような状態の中にいるはずがあろうか。‥‥誰が神に語りかけることができるだろうか。しかも神に喜ばれるように、また神に聞いていただけるように、神に語りかけるこができるであろうか。そして今やパウロは語る。まさにこの唯一の決定的な業において神ご自身がわれわれのためにとりなし、ご自身をわれわれの弁護者となし給う。そして、神はわれわれのために言葉に表わせない呻きをうめき、まさにそれ故にわれわれ自身が彼に語りえなかったことをも聞き入れて下さるようになり、神ご自身の方から差し出すべきことをも確実に受け入れて下さるのである。そのことこそ、神の律法が打ち立てられることにより、キリスト・イエスにある者にとって最高度に、また究極的に現実となることである。それこそが、たとえ彼らが欲しても、彼らの希望から逃れさせないようにするものである。それこそが彼らの忍耐の秘密である。神が彼らの、喜びを欠き力を欠いたうめきのうちにもご自身の御子の声を聞いて下さるということ、そのことが、この彼らの呻きを、神に喜ばれる祈りとさせ、またその呻きを彼ら自身にとっても、彼らが希望から脱落するようなことがないような慰めに満ちた呻きとするのである>。

 

  • 28節では、≪ 神を愛する者たちつまり(神の)計画に従って召された者たちのためには、一切の良い方向へと働く(「万事が益となるように共に働く」新共同訳)、ということを我々は知っている≫(田川訳)と言われています。この聖句については、昨日、教区総会の小林美恵子牧師の説教でも触れておられました。この聖句は、キリスト者である私たちには、私たちが受ける試練や苦しみが、ますます神の子としての神への従順と信頼へと私たちを導くことを語っています。
  • <何事も本当には神を真に愛する人々に、この言葉「[すなわち、危害という言葉]]の最も深い意味において危害を加えることはできない。かえって彼らに降りかかるかも知れない――35節で述べられているような過酷なこと(艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣)を含む――すべてのことは、彼らの信仰をますます強め、彼らの主人であるイエス・キリストのより近くに彼らを引き寄せることにより救いの途上にあるそれらの人々を助けるに違いない。しかしながらすべてのことがそのように信仰者たちを助けるのは、言うまでもなく神がすべてのことを支配しているからである。…それゆえにすべてのことが信仰者たちを助けるという文言は、聖書の文脈においては神が彼らを助けるということを強めた言い方なのである。というのは、この文言は単に神が彼らを助けるということだけでなく、神の助けが完全に、徹底的に有効であるということをもはっきりと言い切っているからである。…希望の十分な確かさは、信仰による義人たちへの神の愛の背後にそれに先行して彼らに対する神の、御の計画に基づく召しがあるということがよく理解される時にはじめてしっかり捉えられ始める。パウロが28節の最初の部分で語った希望の確かさは、根源的に正しく神の永遠の計画にその基礎を持つ>(クランフィールド)のです。

 

  • ≪神は前もって識別しおかれた者たちをば、その御子の姿と同じ形になるようにと前もって定めたのである。それは御子が多くの兄弟たちの中で長子となるためである。前もって定められた者たちを、神は招いて下さった。そして招いて下さった者たちを、義となした。そして義となした者たちを、栄光化して下さったのである≫(29,30節、田川訳)。
  • パウロは永遠の先行決定〔聖定〕・予定――それが時間の中に遂行されるようになると、人間の召命・義認・栄化となる――を次のように記述している。神は人間を永遠の昔から神自身の姿に、すなわち神御自身の御子のかたちに――なぜならそれは神のかたちであるから(コロサイ1:15)――似たものとしたのである。神は永遠の昔からご自身の御子のことを考えられたように、永遠の昔から彼らのことを考え、またそのことにより、彼らに、その時間的存在に対しる規定を与えたのであった。彼らは、神がご自身の御子を愛する愛によって、神の子であるように定められ、かくして神をこちらからも愛するように定められている。それゆえにこの愛は超越的な力を持ち、彼ら抜きに、彼らに逆らって、かくして彼らのために、また彼らの中に起こるのである。それゆえ、彼らをこの愛から引き離すことは不可能である。それゆえに、彼らにとって、すべての試練はただ助けとなるほかはありえない>(バルト)。

 

  • 今日の箇所で、パウロは私たちが神によって既にキリストに似た新しい人になっているという事実を語っているのであります。この神による私たちの自己変革が既に為されているという事実を、素直に受け入れるよりも、私たちは、自分自身を見つめて、自分自身の人間としての弱さ、ふがいなさ、惨めさに絶望したり、人間なんてこんなものだと諦めてしまうことはないでしょうか。信仰は、そのように自分で自分を決めつけることから私たちを解放し、イエス・キリストによる私たちに対する神の働きかけに身を任せることを、私たちに促す力ではないでしょうか。
  • 日々新たに神の子どもにふさわしく、一日一生を生きていきたいと願います。神がその道に私たちを生かしてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
  • 神さま、私たちは自己判断によって日々を生きていて、イエス・キリストを通してあなたが私たちに与えて下さった恵みによって生きることを、おろそかにしがちです。あなたによって、すでに私たちがキリストに似た新しい人とされていることを、今日の聖書の箇所でパウロは私たちに語ってくれています。どうか私たちがキリストに似た者としてあなたと他者である人々の関わりを生きていけますように、あなたが私たち一人一人を導いてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      59(この地を造られた)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-059.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。