なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(13)

       「奴隷ではなく」ガラテヤの信徒への手紙4:1-7
 
                     2016年9月11日(日)船越教会礼拝説教

・私の友人に、つい最近正規の会社勤めから解放されて、週に2日間だけ会社に行くだけでよくなった人が

います。

・その彼が、二重人格のように、会社での自分とそうでない自分を使い分けなくてよくなりつつある現在の

生活を待ち望んでいたか。しみじみと、その彼の思いを話してくれました。通常長年会社に勤めてきた人が、

定年になって会社を辞めて、毎日会社に行く必要がなくなると、中には何をしたらよいのか分からなくなっ

て、その日常を持て余す人がいます。けれども、彼には、まだ完全には会社から解放されているのではあり

ませんが、会社に行かなくて済むことで、日常を持て余すということは考えられません。自分が本来やりた

いことがあるからです。会社で働いているのは生計を得る為であって、それ以上でも以下でもないのです。

ですから、週2日だけ会社に行くだけでよくなった現在の生活を、彼はむしろ喜んでいるのです。

・会社は、どんな会社でも利潤追求が目的です。その目的ははっきりしていて、キリスト者であったとして

も、それに従わなければ、会社に居場所を持つことはできません。

・先程司会者に読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙4章3節に、<同様にわたしたちも、未成年であ

ったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました>と記されていました。ここの<わたしたちも、

未成年であったとき>とは、信仰以前の人間が世界の諸要素に隷属している状態を言い表している、パウ

ロの言葉です。

・ヘレニズムの世界(ギリシャ・ローマ世界)では、<相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であ

っても僕(奴隷)と何ら変わることがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下に>(4:1,2)

いたと言われています。ここでの<「僕」(奴隷)という言葉は、(パウロが自らを「イエス・キリスト

僕(奴隷)」と言っているように)伝道者の尊称として象徴的な意味で使用されている場合とは異なり、主

人への隷属状態に置かれた身分法上の地位を指している>のです。

・会社勤めの人間の状態は、明らかにここでパウロが語っているところの、信仰以前の人間が世界の諸要素

に隷属している状態と言ってよいでしょう。利潤追求、お金=資本への隷属です。しかし、このような世界

は、パウロによれば、イエス・キリストが到来する以前の古い世界秩序に属しているのであります。

・名古屋時代に、企業に勤めながら路上生活者支援の運動をしていた人がいました。彼はある時期から企業

では窓際の仕事に追いやられながら、甘んじてそれを受け入れながら、路上生活者支援の運動に力を注いで

いました。この人の場合は、最初に紹介した私の友人よりも、企業での働きと自分の生き方が二重人格的に

分離しているのを、自覚しながら耐えて生きるというよりも、できるだけ一元化しようとして、企業では窓

際に追いやられたということではないかと思います。

・この二人はどちらもキリスト者ですが、キリスト者でなくても、同じような問題に直面しているのでは

ないかと思われます。

・さて、パウロは信仰以前の人間の状況と信仰以後の人間の状況が根本的に変化していると考えていまし

た。

・4,5節で、パウロは、<しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者

としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさる

ためでした>(4:4,5)と語っています。「時が満ちると」とは、この文脈では父親の遺言によって定められ

た後見期間の満了(4:2)という法的事実を指します。しかし、この言葉には、神が世界の救いのために定め

た決定的時の到来という意味もあります。

イエス・キリストの派遣と受肉によって、神は、信仰以前の人間の状況である「律法の支配下にある者」

を「贖い出して」してくださったというのです。この「贖い出す」とう動詞は、身代金を払って捕虜や奴隷

を自由な身にする言葉です。パウロは同一の動詞をガラ3:13においてはキリストの十字架の意味の解釈に適

用している。パウロの理解によれば、「律法の支配下にある者を贖い出す」(4:5)という神の子キリストの

受肉の出来事の目的は、十字架の出来事によって成就するのであります(3:13)。

・そしてそれは、「わたしたちを神の子となさるためでした」(6節)と言われているのです。更にパウロは、

<あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送って下さっ

た事実から分かります>と語っています。回心の時聖霊が与えられることはヘレニズム教会に共通の理解で

あり(使2:38,10:44,45)、パウロの宣教によって回心した者たちも霊を付与されています(ガラ3:2,5,14;

汽灰12:13;汽謄4:8)。ガラ4:6ではこの事実を御子の霊の派遣とアッバの叫びに、4:7では子たる身分

(神の子)の付与と結び付けているのです(ロマ8:15も参照)。

・アッバ(父よ)というアラム語の単語は、幼児語に由来する親しみを込めた表現であり、イエスが祈りの

中で父なる神に呼び掛けるときに使用しました(マルコ14:36)。初代教会の信徒たちが礼拝の祈りの中で神

にアッバと呼び掛けることは、御子キリストの霊を受けて神の子なる身分が与えられていることを示す明確

なしるしでした。信徒たちが神の子であることは、彼らがもはや奴隷ではなく神の約束の相続人であること

を意味します(ガラ4:7,ロマ8:17)。しかも、既に未成年の後見期間が満了し(ガラ4:4)、自分の権利を

制限なく行使できる成人した子の地位が彼らには与えられているのです。

・<ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあ

るのです>(7節)と。

・このように、パウロは、4節から7節で「信仰以後の人間の自由な状態」について語っているのです。しか

し、これらは信仰による賜物です。見えるものではありません。私たちが日々この目で見ている現実は、む

しろ信仰以前の人間が世界の諸要素に隷属している状態です。特に今日国家を取り込んだグローバルは資本

の力は目に余る者がありますし、話し合いによる世界平和の構築ではなく、覇権主義的な軍事力による世界

支配も、まだまだ止みません。そして私たちは、信仰以前の人間が世界の諸要素に隷属している状態から解

放されてはいません。

・ガラテヤの教会の人々は、一度はパウロの福音宣教によって、信仰以後の神の子としての自由な人間の状

態に導かれながら、ユダヤ主義者の働きによって、信仰以前の人間の状況である「律法の支配下にある者」

に立ち戻ってしまったのです。その危険性は、私たち自身にも常に付きまとっています。

福音書において、主イエスが幼な子のように「アバ、父よ」と叫んだその叫びと、主イエスがあのように、

社会の周縁に追いやられた人びとと共に生きたその生涯を歩み、受難と十字架をにない、復活して生ける主

として人々と共におられること、そのようなイエスご自身を導かれたキリストの霊である聖霊の導き、これ

だけが神の子が神の子として立つために与えられている命の力です。

・私は、時々知恵が勝ちすぎている自分に気づかされて、はっとさせられます。主イエスは弟子たちに、幼

子のようにならなければ神の国に入ることはできないと言われました。幼子は徹底的に受け身であるが故に、

神の子どもとして能動的な存在なのです。幼い子どもたちが、時々喧嘩をしながらも、分け隔てなく受け入

れ合って遊んでいる姿をみていると、平和を強く実感します。アバ、父よと叫び、聖霊の導きに自らを委ね

てときに、幼子のような神に徹底的に信頼する受動的な存在でありつつ、一人の人間としては神の子として

能動的な存在になるのではないでしょうか。

・主イエスに倣って、神の子として自分が変わって行かなければ、何もはじまらないことを心に銘記して、

また新しい一週のそれぞれの旅路に向かっていきたいと思います。