なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(44)

5月1(日)復活節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    152(みめぐみふかき主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-152.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編23編1-6節(讃美歌交読詩編142頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙10章5-13節(新約288頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     433(あるがままわれを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-433.htm

⑨ 説  教   「言葉は近くにあり」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ロシアによるウクライナへの軍事侵攻(侵略戦争)がはじまってから、ロシアの教会であるロシア正教はどうなっているのかという疑問が、私の中にはありました。第二次大戦(太平洋戦争)下に国の圧力で合同した私たち日本基督教団が、戦時下、積極的な戦争協力を行なったことは事実であります。私たちはその過ちを反省し、国家と一体化するような教会ではない、イエス・キリストの福音にしっかりと立って、国家に対しても否は否と言える教会でなければならないと思い、1967年に日本基督教団の議長であった鈴木正久牧師の名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)出したと、少なくとも私は思っています。そういう私からしますと、現在ウクライナへの軍事侵攻を行なっていますロシアの大統領のプーチンに対して、ロシア正教は何も言わないのか、という疑問があったからです。

 

 

  • 今のロシアのように、日本が再び侵略戦争をするようなことがあったならば、私はキリスト者としてそれにはっきりと否と言えるだろうか。逆に今のウクライナのように他国から日本が侵略されたら、信仰者として自分はどうするだろうかと。

 

  • 戦争という極限状況においてだけでなく、この世を生きるキリスト者として自分は正しく生活しているだろうかと思うのであります。イエス・キリストを信じて生きる者として、こんな生活でいいのだろうかと。しかし、そのように考えている自分は、「律法による義」を求めているのではないかと思うのです。自分の力で何とか正しい生活ができないかと思い、それができていない自分に失望してしまうのです。

 

  • パウロは、ローマの信徒への手紙10章4節で「何故なら、キリストが律法の終りであって、信ずるすべての者にとって義にいたらせるものである」(田川訳)と言っています。バルトは「律法の終わり」を「律法の目標」と訳して、<4節ではキリストが律法の「終り」であると言われているのではなく、律法の「目標」・内容・本質・総括であり、その意味であると共に、その成就に至る道でもあるといわれているのである>と言っています。そして、<律法の内容とその永遠に続く効力は、イエス・キリストにおいて初めて正しく啓示されたのである。すなわち、イエス・キリストこそが初めからその内容であり、その力であったからである。キリストを信じることは、神の律法に従順であることを意味する>というのであります。モーセ十戒という、神を神とし、隣人の命と生活を奪うことなく、神の下にあって人が共に生きるようにという神の律法が、私たちを正しい生活に導くのです。その神の律法が、イエス・キリストによって成就していると言うのです。私たちはただそのイエス・キリストを信じることによって、神の律法に従順であることができるというのであります。

 

  • 本田哲郎さんは、10章4節をこのよう訳しています。「律法の到達点はキリストであり、この方が信頼してあゆみを起こす者すべてに解放をもたらすのです」。律法という人間としてあるべき定めの到達点であるキリストが、そのキリストを信じて生きる者すべてに解放をもたらすと。本田さんは義を解放と訳しているのです。本田さんからすると、神の義は神の解放です。それが私たち人間の救いなのです。

 

  • 今日のローマ書10章5節以下で、パウロは、イスラエルが神に選ばれた民として、律法の下に立ち、律法を聞くということを求められたのですが、それは、<律法の唯一の内容であり全体であるキリスト、そして、律法の意味と成就であるキリストを信じることなのである>と言っているのであります。それが律法による義ではなく、信仰による義なのです。しかし、イスラエルはそれ拒絶していると言うのです。

 

  • パウロは、8節で申命記の言葉を引用して、信仰による生活を説明しようとしているのであります。申命記ではもう少し詳しく書いてあります。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:14)。<申命記の方では、この言葉によって、神の律法によって得られる祝福が、決して遠いものではなくて、われわれの口や心ほどにわれわれに近いのであるというのです。しかし、パウロは、それを神の恵みによる祝福がどんなにわれわれに近いかということに用いようとするのです。そして、さらに、その口と心ということを、信仰生活の仕方の説明にあてるわけです>。ある面でパウロは聖書の言葉を自分の説明に都合よく使っているわけですが、当時はそれが許されたのです。

 

  • そして、パウロは、「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し、自分の心で、神が彼を死人の中から甦らせたのだ、と信じるならば、救われる」(9節、田川訳)と続けているのです。

 

  • <イエスを主であると告白することは、簡単なことではありません。ローマ帝国では、皇帝を主と言い表わすことが求められていたからです。そういう世界でイエスこそ主であると告白するのは、死を意味する場合も少なくなかったのです。この問題は教会の歴史の中で常に問われてきたことではないでしょうか。皇帝かイエスかということだけでなく、だれがわれわれの真の主であるか、われわれは何に仕えるのか、ということは、何時の時代でも、信仰者にとっては、最も重要な闘いであります>。それは現在も変わらないのではないでしょうか。<これがあいまいにされると、信仰者の生活は死んでしまうのです>。

 

  • <しかし、イエスを主と信じる信仰は、われわれの周囲にあるいろいろなものとイエス・キリストを比較して、どちらが自分の真の主であるかを知ろうとして分かるものではありません。それは、自分がイエス・キリストによって救われた者であることを堅く信ずることから出てくるのであります。ですから、それは、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる信仰と切り離して考えることはできません>。

 

  • パウロが、「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し、自分の心で、神が彼を死人の中から甦らせたのだ、と信じるならば、救われる。何故なら、心で信じられて義にいたり、口で告白されて救いにいたるのである」(9,10節、田川訳)と言っているのは、そのことを意味しているのです。

 

  • とするならば、私たちがイエスは主であると告白すると共に、死人のよみがえりであるイエスの復活を心から信じて生きているかどうかが問われているのではないでしょうか。イエスを信じて生きるということは、思い煩いを棄てて、イエスにすべてを委ねて生きるということです。パウロは、好んで、自分はイエス・キリストの奴隷であると言いました(ローマ1:1など)。古代人のパウロが古代社会の奴隷制を前提にして、自分をイエス・キリストの奴隷に譬えているのは、わからないわけではありません。ある人は奴隷についてこのように言っています。<奴隷の生活はまことに惨めです。しかし、奴隷の生活にひとつだけ羨ましいことがあります。それは、奴隷にとっては、自分の主人以外には主人がないということです。他の主人を考える必要もなければ、余裕もありません。そこに不思議なやすらぎがあったと思います>と。そして、パウロがキリストの奴隷であることを誇っていたのは、その状態にこそ安けさと強さを持っていたからではないかと言っているのです。

 

  • 主体の転換と言いましょうか、自分中心に物事を考えている時には、いろいろな思い煩いや不安が付きまといますが、イエスに信頼して、すべてを委ねていくことができれば、思い煩いや不安からも自由になって、やすらぎと強さを持て生きることができるということではないかと思います。

 

  • 11節で、パウロは、<聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります>(新共同訳)と言い、そして12節13節で、<すなわちユダヤ人とギリシャ人の差別はない。同じ主が万人の主であって、その豊かさは主(の名)を呼び求めるすべての者に及ぶ。何故なら、主の名を呼び求める者はみな救われるからである>(田川訳)と言っているのです。

 

  • 私たちにはいろいろな違いがあります。ユダヤ人とギリシャ人にも違いがあります。ユダヤ人は自分たちだけが神に選ばれた民だと思って、ギリシャ人を軽蔑していました。他方ギリシャ人も自分たちは文化的に優れていると言って、ユダヤ人はじめ他の民族の人たちを未開の人間だと思っていたのです。お互いに自分たちだけが幸せだと思っていたのです。<この全くちがった立場に立って、絶対に違うと信じているユダヤ人とギリシャ人も、キリストを信じるかぎり救われるということでは、全く同じであるというのです。それならば、われわれの境遇の差や、才能の違いはもちろん問題にはなりません。われわれが差があると思っていることは、人間の目から見て言えることで、万民にとって同一の主であるイエス・キリストの前には何の差別にもならないのです。それは、人間の間に差別がないといおうのではなく、このだれにとっても、おおよそ信仰のある者に対しては主であるキリストが、すべての民に同じ恵みを豊かに与えてくださるからなのであります。それは、民族の差はもちろん、個人の事情の相違も、全く問題にはならないほどに豊かに与えられるので、すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない、いつも望みを持つことができるのであります>。

 

  • 「何故なら、主の名を呼び求める者はみな救われるからである」(13節、田川訳)。私たちは礼拝において、祈りにおいて、主の名を呼び求めているのではないでしょうか。主との交わりを求め、主の助けを望んで、声のかぎりに主を呼ぶのです。<キリストの救いによって、主を救い主を讃美をもって言い表すことができれば、だれでも、失望することのない恵みを豊かに与えられるのであります>。

 

  • 政治的な圧力にしても、この世のもろもろの私たちを支配しようとする力に屈せずに、信仰を貫くことができるのは、イエスを主とする、キリシタン時代の素朴な信仰なのかも知れません。

 

  • 「主の名を呼び求める者はみな救われるからである」。この言葉を噛みしめて自分のものにできますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をはじめ、今世界はその形がガタガタと崩れているように思われます。このことが、今までよりもさらに悪い状態になる危険性も感じます。神さま、私たちにあなたへの思いと、あなたの御心に従って生きる力を与えてください。特に政治の実権を握っている人々が、愛と正義と公平によって政治に携わるように導いてください。この社会の中で弱い立場に置かれている人々の命と生活があもらえますように。

・様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    4(世にあるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。