「法は生命(いのち)を与えられるか」ガラテヤ人への手紙3:19-22、
2016年7月10日(日)船越教会礼拝説教
・今日は説教題を「法は生命(いのち)を与えられるか」とつけさせていただきました。ガラテヤの信徒へ
の手紙では「法」とは「律法」を意味しています。つまり「律法」は人に生命(いのち)を与えられるか」
ということです。
・ユダヤ教では、律法は人に生命を与えることができると考えられていました。かく生きよと命じる神の
律法は、神の祝福に与かることができる、人が生きていく道であり、定めでありました。ですから、パウ
ロの後からガラテヤの教会にやって来たユダヤ主義者たちは、イエス・キリストを信じる信仰だけでなく、
律法も割礼も必要であると説いたのであります。
・<己のごとく隣人を愛しなさい>という戒め(律法)を自分の力で守ることが出来る人は、確かにこの
戒めは、人に生命を与える道であり、定めであると言えるでしょう。しかし、パウロは、貪るなという戒
めによって、自分の中に貪りの思いがふつふつと呼び起こされてきて、返って貪りの罪を犯してしまうと
いうことを言っているのであります。戒めに対して違反の心はあっても、それを守る力は自分には全くな
いと、パウロは言っているのであります。パウロは、かつては彼の後からガラテヤの教会にやって来て、
ガラテヤの教会の人々に、イエス・キリストを信じる信仰だけでなく、律法と割礼も必要だという教えを
語ったユダヤ主義者と同じように、律法も割礼も人に生命をもたらすと考えていました。しかし、ダマス
コ途上で復活の主イエスと出会って、回心し、ただイエス・キリストを信じる信仰のみによって人は命を
うることができるのであって、律法も割礼も必要ではないと考えるようになりました。
・そのパウロが、19節で、「では、律法とはいったい何か」という問いを立てて、律法の意義を正面から
問題にしているのであります。イスラエルの民に律法が与えられたのは、エジプトを脱出してシナイ山で
モーセを介して神と契約を結び、十戒が与えられた時です。このシナイ契約は、アブラハムに与えられ神
の約束からすると、430年遅れの出来事でありました。そのことを根拠にして、パウロは、律法はアブラハ
ムに与えられた神の約束に対して、後から「付け加えられた」と述べているのであります(19節)。しか
も、律法が支配するのは、「約束が与えられた子孫」であるキリストの到来までの期間である(ガラ3:16
を参照)と言うのです。つまり、神の救済の歴史からすると、律法はある限られた期間、その役割を持っ
ているので、イエス・キリストの到来によってその役割が終わる暫定的なものに過ぎないと、パウロは言
っているのであります。また、何故律法はアブラハムに与えられた約束に対して後から加えられたかと言
いますと、それは「違反を明らかにするため」だとも言っているのです(19節)。
・19節で「違犯」と訳されている名詞は、動詞「踏み越える」、「破る」、「違反する」の名詞形で、こ
の動詞パラバイノーは旧約・ユダヤ教において、ヤハウエの言葉や、神との契約や、律法や、戒めを破る
ことについて用いられています。七十人訳やヘレニズム・ユダヤ教文献は、名詞形のパラバーシスを契約
や律法の「違反」という意味で使用しており、初代教会もこの用法を継承しています。パウロはこの名詞
をパラプトーマ(「罪過」)とほぼ同じ意味で使用しているのです(原口)。
・律法が「違反のために付け加えられ」たという見解は、パウロ独自の見解と言われています。律法(ト
ーラー)は旧約・ユダヤ教的理解によれば、先ほど申し上げたように、イスラエル人がそれに従って歩む
べき規範であり、道であります。律法の戒めは守るため与えられたのであり、違反を作り出すために与え
られたのではもとよりありません。しかし、一端立てられた規範は、人の行為を計り判断する尺度となり
ます。ですから、律法の戒めに合致しない行為は戒めの違反と判定されることになります。律法がなけれ
ば違反は存在せず(ロマ4:15)、律法は罪の自覚をもたらすのであります。(ロマ3:20;7:7)。さらに、
罪の支配のもとにある人間は(ロマ5:21;7:7-13;ガラ3:22)、律法の到来によって律法を破る機会を与え
られ、罪過を増し加える結果となったとパウロは考えているのであります。パウロによれば、律法を通し
て罪の力が現実化するのです(汽灰15:56)。
・ 21節でパウロは、<それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか>という問いを立て
て、直ちに<決してそうではない>と言っています。そして<万一、人を生かすことができる律法が与え
られたとするなら、確かに人は律法によって義をされたでしょう>と述べ、<しかし、聖書(これは旧約
聖書ですが)はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです>と断定しているのであります。
・ここで、パウロの念頭にあるのは、創世記2章、3章にしるされている堕罪物語であり、原人アダムの罪
過によって罪が世界に到来し、罪と死の支配が全人類に及んだ出来事でしょう。ローマの信徒への手紙5章
によれば、罪と死の支配は第二のアダムであるキリストによって打破され、現在は恵みと義といのちが支
配しているとしている(ロマ5:15,17,21)とされています。恵みが罪に凌駕している現在から遡って、過
去における罪の支配はキリストによる義の支配を招来するためであったと、彼は考えている(ロマ5:21)
のです。
・聖書が人類を罪の支配下に閉じ込めたのは、「約束がイエス・キリストへの信仰によって信じる者達へ
与えられるため」であった(22節)とお言われています。そして信仰によってキリストに属する者達は、
アブラハムの子孫として、約束による相続人として(ガラ3:29)、約束された霊を受けて神の子となるの
である(3;14:4:4-6)というのです。
・この箇所は随分手の込んだ議論になっていますが、パウロが最終的に言わんとしていることは、神の約
束(神の祝福、神の命)は、イエス・キリストへの信仰(イエス・キリストの信仰・真実)によって、信
じる人々に与えられるようになるということです。
・さて、私の支援会の集会では、最初か最後に、毎回讃美歌「主われを愛す」の一節をみんなで歌います。
これは支援会の世話人代表をしてくださっている関田寛雄先生の強い希望で歌うようになりました。先生
には、運動にはその運動を元気づける歌が必要だというお考えがあります。先日先生からお葉書をいただ
きましたが、その中に「銀座の教文館で購入した、最近岩波全書の一冊として出版された宮田光雄さんの
カール・バルトのことについて書いた『神の愉快なパルチザン』を読んでみた。この本の「はじめに」で、
バルトが晩年アメリカにいって、そこで行った講演の後で、聴衆の一人から「あなたの浩瀚な神学(教会
教義学)をひと言でいえばどうなりますか」と問われた時に、讃美歌「主われを愛す」の一節に尽きると
答えたということが書かれていた。支援会で毎回その「主われを愛す」歌っているのは意味あることです
」と記されていました。「パルチザン」とは、「革命や戦争などのときに、正規軍とは別に、一般民衆に
よって組織された非正規軍、遊撃隊、ゲリラ隊」を意味しますので、『神の愉快なパルチザン』とは「神
の愉快なゲリラ」とでも言いましょうか。宮田光雄さんは、バルトのことをそのように見ているわけです。
・「主われを愛す」の一節は、みなさんもよくご存じのように、このような歌詞です。「主われを愛す、
主は強ければ、/われ弱くとも 恐れはあらじ。/わが主イエス、わが主イエス、/わが主イエス、われ
を愛す」です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。ここに主イエスの福音
という、私たちにとっての良きおとずれの真髄があるというのです。主イエスを通して神に愛され、赦さ
れた者として、私たちはこの世を生きていくことへと招かれているのです。わたしたちは弱く、律法を違
犯することをしてしまうけれども、主は強い。主イエスは、文字による律法によってではなく、霊によっ
て神の意志を御自分の心に記しておられる方だからです。主イエスは、私たちと同じように律法を違犯さ
れることはありません。その主イエスが私たちを愛して下さっている、大切にしてくださって、私たちの
中にまで入ってきてくださり、私たちの中で生きていてくださっている。だから主イエスによって、弱い
私たちも強くされているとうのです。
・宮田光雄さんによれば、バルトはイエスを主とするその信仰によって自由とされた「神の愉快なパルチ
ザン」の一人として、ナチズムの時代にも、また戦後のソ連を代表とする共産主義を忌避するヨーロッパ
にあって、共産主義の理解者として、その時代と社会の空気に迎合することなく生き抜いたのです。その
バルトは、戦後しばらくしてからはスイスの教会にあって、赤の牧師というレッテルを貼れて、孤立して
いたと言われています。そして晩年は刑務所以外では、ほとんど説教は行わなかったというのです。赤の
牧師として教会での説教には招かれなかったというだけではなく、バルトにはイエスの福音は罪を犯した
人にこそ語られるべきものだという考えがあったからではないかと思われます。
・「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの
信仰(イエス・キリストの信仰・真実)によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(22節)。
・パウロはローマの信徒への手紙7章で、このように語っています。<・・・わたしは自分の望む善は行わ
ず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、も
はやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・「内なる人」としては神の律法を喜んで
いますが、わたしの五体の内にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の
法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められているこ
の体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝い
たします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているので
す>(ローマ7:18-25)。
・主イエスに愛され、罪赦されて、主イエスの強さを身にまとって生きる私たちキリスト者は、地の塩・世
の光として、この世の暗黒の中でもその輝きを保ち続けながら生きてゆけるのであります。そのことを感謝
して、与えられた命ある限り生きていこうではありませんか。