なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(27)

12月12日(日)待降節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃美歌   224(われらの神 くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編85編2-14節(讃美歌交読詩編93頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙6章1-7節(新約280頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     231(久しく待ちにし)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-231.htm

⑨ 説  教    「罪に死ぬ」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • パウロという人は、ダマスコの途上で復活のイエスと出会い、回心してファリサイ派の律法学者からイエス使徒のひとりになりました。その回心前と後では、名前も変わっています。回心以前は「サウロ」で、回心後は「パウロ」です。

 

  • 「サウロ」と「パウロ」、この名前の変更によってパウロは別人になりました。パウロ自身がフィリピの信徒への手紙でそのことを証言しています。少し長くなりますが、新共同訳でその個所を読んでみたいと思います。

 

  • ≪わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民の属しベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。≫(3:5-11)。

 

  • このパウロの証言を読む限り、パウロは、回心前の自分と回心後の自分を別人として捉えていることが分かります。パウロは、復活の主イエスと出会って、今までの自分は「古い人間」として生きてきたが、これからはイエスを信じて「新しい人間」として生きていくのだという決断を与えられたのです。

 

  • その変化を経験しているパウロにとって、ロマ書5章20節bの≪罪が増したところでは、恵みがそれを越えて更に増すことになろう≫(田川訳)を、パウロの反対者のように、「恵みが増すようにと、罪に留まるべきである」と曲解し誤解することは許しがたいことでした。

 

  • パウロの反対者は、罪が赦されることが恵みであるなら、より大きな恵みを受けるためにはより大きな罪を犯した方がよいということになるではないか、と考えていました。パウロをこのように批判していたのは主に、律法を厳格に守ることによって正しい者であろうと努力していたユダヤ人たちでした。彼らは、パウロの教えによれば、律法を守って、善い行いをしようと努力することが救いにあずかるために意味を持たないことになり、罪を犯していてもよいということになる。そうなると、むしろ罪の中に留まっている方が得だ、ということになって、誰も一生懸命に善いことをしようとは思わなくなる。つまり、倫理や道徳が崩壊する、と言っているのです。

 

  • このことは私たちにとっても大きな問題です。私たちはさすがに、罪の中に留まり、罪を犯した方がよいとは思わないまでも、私たちも、イエス・キリストを信じて神の恵みによって義とされた後も、結果的には同じように罪の中に留まり続けているということはあり得ます。

 

  • 今日の箇所の最初のところで、≪では、何と言おうか。恵みが増すために我々は罪にとどまろう、とでも≫(6:1、田川訳)とパウロが言っているのは、このことです。

 

  • パウロは続けて直ちに、≪まさか、そんなことはありえない。罪において死んだ我々が、どうしてまだ罪の中に生きるなどということがありえようか≫(6:2、田川訳)と言っているのであります。

 

  • すごい言葉です。パウロは、一度イエス・キリストによって罪に死んだ者が、未だその罪にとどまって生きているなどということは、≪まさか、そんなことはありえない≫と言っているのです。≪罪において死んだ我々が、どうしてまだ罪の中に生きるなどということがありえようか≫とは、そのような意味合いです。

 

  • 「罪において死んだ」の「罪において」は、・・・・わたしたちは死んでわたしたちの主人としての罪との関係を断った、罪の支配下から自由にされたことを示しています。また、「罪の中に生きる」とは「罪の支配領域に生きる」「罪の支配下に生きる」の意味であり、今や「キリストにあって」すなわちキリストの支配下に生きるわたしたちに、どうしてそのようなことがありえようかとパウロは言っているであります(川島重成)。

 

  • ≪まさか、そんなことはありえない≫とは、大変強い否定の言葉です。イエス・キリストを信じ神の恵みによって義とされた私たちが、イエス・キリストを信じる前の自分のように罪の中に留まり続けることは決してあり得ない、とパウロは断言しているのです。なぜなら、イエス・キリストを信じることによって、私たちは罪に対して死んだ者だからなのです。11節では、≪このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい≫(新共同訳)と、パウロは言っています。

 

  • キリスト者は、生まれつき自分を支配していた罪に対して死んだ者であり、罪から解放されて新しく生かされている、そのことをパウロは6節でこのように語っています。≪我々は知っている、我々の古き人が(キリストと)ともに十字架につけられたのは、罪の身体が働かないようになって、我々がもはや罪の奴隷となることがないためだ、ということを≫(田川訳)。「我々の古き人」、それが罪に支配されてしまっている生まれつきの自分です。その古い自分が罪に対して死んだのは、キリストと共に十字架につけられたことによってだと語られています。

 

  • そのことが、洗礼との関連で3節、4節ではこのように語られています。≪それともあなた方は、キリスト・イエスへといたる洗礼を受けた我々は皆、キリストの死へといたる洗礼を受けたのだ、ということを知らないのか。つまり我々は死へといたる洗礼によって彼とともに葬られたのだ。それは、キリストが父の栄光によって死人の中から甦らされたのと同様に、我々もまた生命の新しさにおいて歩むためである≫(田川訳)。

 

  • バルトは、このロマ書6章3節4節の洗礼について、このように理解しています。聖霊による洗礼と水による洗礼を、バルトは区別しているのです。伝統的な洗礼論では、この二つは一体化して理解されてきました。つまり、水の洗礼を受けることは聖霊による洗礼を受けたことになるのです。ですから、洗礼はサクラメントとして考えられてきました。サクラメントとしての洗礼は神の恵みの伝達手段です。しかし、バルトはこの二つを区別してこのように言っています。

 

  • 聖霊による洗礼はイエス・キリストにあって生起した、人間を神へと転向させる信実な神の業としての奥義(ミュステリオン=サクラメント)であるが、水による洗礼は、神によって命じられた、神の恩恵への人間の応答(従順)としての彼の生の(従ってキリスト者としての彼の生の)第一歩であり、それ自身恵みの担い手・手段・道具としてのサクラメントではない。そしてロマ書6章3-4節の解釈において、キリスト者は洗礼において、「キリストと共に」死に、「キリストと共に」新しい命に生かされるというのではなく、サクラメントである先行するキリストの死を見つめつつ、「キリストと共に」葬られるということが起こるのである。「彼らの洗礼は、彼と共にまた彼において彼らが死ぬということが起こった典型的な実証であった」つまりバルトによれば、6章4節の「キリストと共に葬られた」(「キリストと共に死んだ」ではない)ということこそがバプテスマの意味であり、それは罪人たる私たちの終わりそのものではなく、その終わりを明確に指し示す終始線にすぎないのである>(川島重成)。

 

  • 水の洗礼は、「罪人たる私たちの終わりそのものではなく、その終わりを明確に指し示す終始線にすぎないのである」とすれば、私たちは洗礼を受けることによって、罪人としての私たちの終始線を明確に知らされた者として、恵としてのキリストの死を見つめつつ、そこに向かって一生懸命生きる私たちの応答ではないでしょうか。

 

  • ですからパウロはこのように言っているのです。≪わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです≫(フィリピ3:12-14、新共同訳)。

 

  • ここでは「走る」とありますが、ロマ書6章4節では、「歩む」と言われています。≪つまり我々は死へといたる洗礼によって彼とともに葬られたのだ。それは、キリストが父の栄光によって死人の中から甦らされたのと同様に、我々もまた生命の新しさにおいて歩むためである≫。

 

  • 「走る」も「歩む」も私たちキリスト者の日常的な生き方、イエスに従って生きる服従・従順を表わすことばです。

 

  • 「罪に死ぬ」とは、アダムに属する古き人間としての自己に死に、キリストと共に新しい人間としての自己を日常的に生きるということではないでしょうか。

 

  • 私たちは自らの弱さや怠慢によって、あるいは今もアダムが支配する現実の厳しさによって、いつでも罪の支配下に生きる古い人間に戻ってしまう誘惑に負ける危険性から全く解放されているわけではありません。キリストと共に新しい人間として歩き続けなければ、走り続けなければ、キリスト者としてのアイデンティティーを保ち続けることはできないのです。

 

  • エスの生涯と十字架と復活によって、アダムに代わるキリストの支配の時代が始まっていることを信じ、キリスト者として歩み続け、走り続づけて、自分の一生を終えたいと切に願います。

 

  • 主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように。

 

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たしが洗礼を受けることによって、罪に支配された古い人間としての自己が葬られ、キリストと共に新しい人間として、生命の新しさにおいて歩むことができますようにお導きください。
  • 来週の日曜日はクリスマス礼拝です。今年も主の降誕を心から共に祝うことができますように。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     67(貴きイエスよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-067.htm 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。