なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(30)

3016日の日曜日から船越教会では、会堂での礼拝はお休みにし、メール配信による自宅分散礼拝にしました。

 

1月16日(日)降誕節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   149(わがたまたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-149.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編100編1-5節(讃美歌交読詩編109頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙7章1-6節(新約282頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     579(主を仰ぎ見れば)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-579.htm   

⑨ 説  教    「神の内にいる私」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ローマの信徒への手紙による説教も、今日は7章1-6節になります。 

 

  • 毎回説教の準備でも苦闘していますが、この7章を、ロマ書の中でも大変重要なところだという人がいます。7章1節を見ますと、パウロはここで「律法」を問題にしていることが分かります。1節を田川訳で読んでみます。

 

  • それとも、兄弟たちよ――律法を知っている人たちに申し上げているのだが――生きている限り、律法がその人を支配する、ということをあなた方は知らないのか≫。

 

  • パウロは、ここで、≪生きている限り、律法がその人を支配する≫と言っているのであります。パウロが言う≪律法≫は、一義的にはモーセ律法を意味していると思われますが、人間を拘束する一般的な法にまで広げて≪律法≫を理解してもよいかも知れません。内村鑑三はこの箇所の『ロマ書研究』では、律法を道徳と言い換えているところがあります。

 

  • パウロは、私たち人間は「生きている限り、律法に支配されている」と言っているのですが、それはキリスト者においてもそうなのか、つまり、ひとりの人間として生きている「キリスト者」も、「生きている限り、律法に支配されている」のだろうか、という問いに、パウロはこの7章で答えて、その問いを否定しているのであります。

 

  • その問いについて、バルトはこのように言っています。<その問いとは、律法は、今までもこれからも、すなわちイエス・キリストの死と復活があっても、彼に対するわれわれの信仰があっても、また彼の名によるわれわれの洗礼にもかかわらず、罪を依然として生き返らせ、また生き続けさせ、かくしてわれわれを罪人として告発し、それと共にわれわれの聖化を、しかしまたそれと共にわれわれの神との和解を、従って福音の救いの業全体を、無に帰せしめ、また、われわれがイエス・キリストに対する信仰において神の前に義人であるという神の義の決断の虚偽を咎めることになるのではないかという問いである>(『ロマ書新解』)と。この問いを、<われわれ(キリスト者)は律法から、罪と死の律法から解放されているという事実の解明によって>、パウロはこの7章で否定しているのであります。

 

  • <一節は、律法は生きている人のことを念頭におき、また支配するという、律法とは何であるかを知っている者なら誰にでも知られている、またはっきりした、一般的な命題によって始まる。従ってこの人間の死は、ほかの人間に対する彼の義務とともに、彼に対する他の人間の義務全体をも解消させるものである。パウロが語っている生きている人、したがって律法に従属させられている人は(5節によれば)「肉にある」人間、したがってかの「古き人」(6:6)として生きている人間である。このような人間にかかわり、このような人間を拘束するものが、律法、「罪の死の律法」(8:2)であることは疑いない。パウロが答えなければならぬ問いに相応して、初めから眼中に置いているのはこの律法にほかならぬ。すなわち、それは5節によれば、一方ではわれわれの肢体とわれわれの全生活のなかに罪の欲情を起こさせ、他方ではその律法がわれわれに語る判決によって死の恐れ(6:21)をさけられぬものとさせる律法である。このような人間の生は、いつ、いかなる事情にあっても、この律法のもとにおける生であろう>(バルト同上)。

 

  • そして、2―3節で一つの譬話が挿入されています。結婚・再婚の譬えです。

 

  • 男の下にある女は、男が生きている限り、法によってその男に結びつけられている。男が死んではじめて、彼女はその男の法の効力からはずれるのである。つまり、男が生きている間は、もしも女がほかの男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれることになろう。しかしもしも男が死ねば、女はその法から自由になる。つまり、ほかの男のものとなっても姦淫の女とはならない≫(田川訳)。

 

  • 他の訳では≪男≫は≪夫≫と訳されています。バルト訳ですと、この2、3節はこのように訳されています。≪結婚した女は、もちろん夫が生きているあいだは律法によって夫につながれている。しかし夫が死ねば、その女は自分を夫の側につなぐ律法の領域からぬけ出す。したがって夫の生存中に、この女が他の男のものとなれば、この女は淫婦となる。しかしもし夫が死ねば、この女はその律法から解放され、それゆえ他の男のものとなっても、淫婦ではない。≫。結婚・再婚の譬えとしては、こちらの訳の方が分かりやすいと思います。

 

  • この結婚によって女が男である夫のものとなるという結婚観は2000年前の古代人パウロのものですから、今の私たちにとっての結婚関係はこのパウロの結婚観でとらえることはできません。離婚もあり得ますから、異性婚であっても、一度結婚したら女の人は相手の男の人が死ななければ、その男との法的拘束力から自由になれないということはありません。離婚した元夫が生きていたとしても別の人と再婚することができるからです。まして事実婚の場合は、そもそも法的拘束力からお互いに自由であろうとしているわけですから、パウロの結婚観ではとらえることができません。けれども、パウロの時代の社会では、女の方が一方的に法的拘束力を受けて男としての夫に従わざるを得ないという、このパウロの結婚観が生きていたわけであります。

 

  • この結婚と再婚の譬えにおいて、パウロが言おうとしていることは、律法は人が生きている間だけその人を縛るが、死んだ人まで縛ることはできないということです。一般的にもこの社会では、法律によって権利を与えられ義務を課せられるわけですが、それはその人の生存中であって、死んでしまえば法律の効力はその人に届きません。先日大阪の心のクリニックでガソリンに火とつけ火災を起こし、そのクリニックの医者を含め看護師、患者20数名を殺し、自分も死んでしまったこのクリニックの患者は、法的に裁かれることはありません。死者に法律の裁きは及ばないからです。

 

  • ですから、パウロが結婚・再婚の譬えで語ろうとしているのも、死んだ人には律法の効力は及ばないということです。律法の効力が及ぶのは生存中だけだということです。そのことの上に立って、パウロは4節でこのように語っているのです。

 

  • だから我が兄弟たちよ、あなた方もまたキリストの身体によって律法に対して死んだのである。それは、あなた方がほかの者、つまり死人の中から甦らされた方のものになり、神にむかって我々が実を結ぶためである≫(田川訳)

 

  • ここでパウロは、夫に死別した女がほかの男を夫にして、その夫に従うように、(これもパウロの時代の再婚観ですが)、キリスト者は、キリスト者になる前に従っていた(夫である)律法の死滅に遭遇して、「ほかの者、つまり死人の中から甦らされた方のもの」、つまりイエス・キリストのものになったと言うのです。そしてそのことは、私たちが神に向かって実を結ぶためだと、パウロは言っているのであります。

 

  • パウロはコリントの信徒への手紙二の11章2節でもこのように語っています。新共同訳で読んでみます。≪あなたがたに対して、神が抱いている熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです≫と。パウロはここでもキリスト者をキリストと結婚した女性に譬えて語っているのであります。

 

  • パウロの結婚観によれば、結婚した女性は夫に献身的に仕えて、夫が喜ぶことを自分も喜んで生きるということでしょうか。キリスト者は、キリストを夫にした女性のように献身的にキリストに仕えて生きる者だと言っているのでしょう。キリストは、自分の命をかけて全身全霊で私たちを大切にしてくださったイエスの復活者ですから、そのキリストを夫として生きる女に譬えられているキリスト者が献身的にキリストに仕えて生きるのも、パウロにとっては当然なのでしょう。

 

  • そして5節、6節で、パウロキリスト者になる前と後の生活を対照的に語っているのであります。≪我々がまだ肉の中にいた時には、律法を通して生じる罪の情熱が我々の肢体の中に働いていて、その結果我々は死にむかって実を結んでいだ。しかし今や我々は律法の効力からはずれた。我々をとらえていたものにおいては、我々は死んだのである。その結果我々は霊の新しさにおいて仕えることとなったので、もはや文字の古さにおいて仕えているわけではないのである≫(田川訳)

 

  • <曾(かつ)て肉にありし時は、罪の諸慾我うちに働きて死のために果を結ぶのみであった。併しキリストに帰するに至って、律法に於て死にたる故律法より釈放せられ、今は何等旧き儀文(文字、規則、条文)の我を煩わすものなく唯神の霊の新たなるに浴してキリストに事(つか)へつつある。前の生活と今の生活—-律法に支配され居たる時の生活とキリストの支配に身を任せ居る今の生活—-との対比を、パウロは言外に深き感謝をこめて茲(ここ)に記したのである>(内村鑑三)。

 

  • キリスト者になる前の生活とキリスト者になってからの生活が、私たち自身の中でどのように変わったのでしょうか。少なくとも今日の箇所でパウロは、キリスト者は「肉の人の生活」から「霊の人の生活」へと根本的に変わったのだ、と語っているのであります。そのことが私たち自身において、どこまで深く起こっているのか。少なくとも私自身の中では不十分ではないのかという思いをもつことがしばしばです。つまり、私は洗礼を受けてキリスト者になりましたが、今もなお自分の中に「肉の人」がいるように思えてならないのです。信仰はそれでも、神がイエス・キリストによって私たちを霊の人に変えて下さっているという福音の真実を、その都度その都度信じて生きるということではないかと思います。

 

  • 最後にまたバルトの言葉に励まされたいと思います。<私の実存、そこから私が自分自身を救い出すことなど、昔も今もできないのだ。またその実存を見つめる時、私は昔も今も嘆息をつくほかなく、それが自分の背後に処理されている今でも、嘆息をつくほかはないのだ。「誰が私をこのような実存から救い出してくれるのだろうか?」だが私は、イエス・キリストにおいて、イエス・キリストが私の死の体に対して備えていて下さった死により、またイエス・キリストにおいて私の実存に対しても分け与えられていた死によって、この実存からすでに救い出されている!(24節)この殺された過去、私自身の過去としての実存が、これからも私の実存であり、常になお神と私自身の目の前にあろうとも、従って私が肉において――イエス・キリストにおいて死に渡された私の肉において!――なお常に、日ごとに、また私の生涯の終わりに至るまで、かの「罪の律法」に仕えることがあろうとも、私自身、内面における私、自らイエス・キリストの生の中に生きているのを見出すものとしての私、その私は今日すでに神の律法に仕えているのである(25節)。たとえ、イエス・キリストにおいて殺された私の肉が今日なお、従わされているのを見る律法があろうと、罪と死の律法である律法から、私は現実的に自由にされているのである>(同上)。

 

  • 私は皆さんと共にこのことを信じたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日はまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てなくなり、メール配信による自宅分散礼拝になりました。けれども、このような形で礼拝を持てますことを心から感謝します。
  • 神さま、私たちはイエス・キリストを信じて、生まれ変わった者でありながら、なお古き人としての肉の支配から完全に解放されてはいません。けれども、イエス・キリストによって私たちが肉の人から霊の人へと既に根本的に変えられていることも神の真実であります。
  • 神さま、私たちをその都度その都度の信仰によって、霊の人として生き、神を喜ばすことの出来る者としてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     378(栄光は主にあれ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-378.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。