なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(33)

2月6日(日)降誕節第7主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   358(小羊をばほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編109編21-31節(讃美歌交読詩編124頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙8章1-11節(新約283頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

⑨ 説  教    「霊に従って歩む者」       北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 新しい年も早いもので2月になりました。また、オミクロン株による新型コロナウイルス感染がパンデミックになっています。またしばらくは、今まで以上に、可能な限り、人との接触を避ける以外に、このパンデミックを抑える方法がないようです。一人一人気を付けながら生活したいと思います。

 

  • さて、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)も、今日は8章1節以下になります。何事も物事には否定と肯定があります。キリスト教信仰も同じです。

 

  • パウロはローマ書7章24節25節で、一方では「私は何という惨めな人間だろうか」と嘆くと共に、他方では「神は感謝すべきかな」と言っていました。ここにも否定と肯定が言い表されていると思われます。「何という惨めな人間なのか」は否定的な言葉です。「神は感謝すべきかな」は肯定的な言葉です。

 

  • これは、パウロの中に一つの転換が起こったことを言い表しているのではないでしょうか。パウロは、イエス・キリストを信じることによって、自分の中で「肉にあるわたし」から「(キリストの)霊にあるわたし」に自己転換が起こったと言っているのです。

 

  • パウロはローマ書7章5節~6節でこのように記していました。≪我々がまだ肉の中にいた時には、律法を通して生じる罪の情熱が我々の肢体の中に働いていて、その結果我々は死にむかって実を結んでいた。しかし今や我々は律法の効力からはずれた。我々をとらえていたものにおいては、我々は死んだのである。その結果我々は霊の新しさにおいて仕えることとなったので、もはや文字の古さにおいて仕えているわけではないのである≫(田川訳)。

 

  • (ここで)呈示された第一の部分(5節)が7章7~24節で詳細に論じられ、第二の部分(6節)がこの段落8章1節~17節で展開されていく。7章7節~24節では罪に捕らわれ、肉に従って生きる<わたし>が死に至る実を結んでいた姿が赤裸々に描かれ、それは7章24節の「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という絶叫に極まった。この<わたし>が克服されたキリストにある者の視点を明示したのが、7章25節a「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」であった。この7章25節aが第一の部分から第二の部分への転換点である。8章1節~17節は、この7章25節aの感謝の叫びの内容、つまり7章6節のテーゼ「律法からの解放とその結果としての霊に従う新しい生き方」を詳述する。この段落は一纏まりを成すが、細かく見れば、1節~11節がキリスト者の霊にある生を論じ、12節~17節はそれを神の子たる身分にあることとして説明する(以上川島重成)。

 

  • ですから、今日のローマ書8章1節~11節は、「キリスト者の霊にある生」について記されているところです。

 

  • 「アダムの子として、アダムが行うことを行なう人間は罰せられる。すべての肉は、罪が宿る人間性として罰せられる。とりわけ敬虔な、道徳的な肉は罰せられる。すなわち神の前に自己を義とし、神に対して自己を聖としなければならぬと考えることによって、神の律法を曲げ、また破る人間は罰せられる。このように扱われても真であり、働くことをやめない神の律法は、すなわち人間が曲げ、また破った神の律法が罰するのは、このような人間にほかならない。彼は律法により、恵みに固執するよう命じられているのに、その恵みをしりぞけ、その代り律法の古い文字を満たすことによって(7:6)、自分の倖せを自分で造り出そうとしたため、すでに裁かれてしまっており、今はただ生きながら死んでいるものでしかない」(バルト)。

 

  • 「しかし今や、『キリスト・イエスにある』者は罪に定められることがないと8:1でいわれている。8章全体は、人間のかの断罪が次の事実により無効になっていることについて教えていくであろう。すなわち、神は福音において、人間による律法のあのような歪曲と破壊に対し、その律法をイエス・キリストにおいて、神の律法として新しく、また今こそ正しく打ちたてるという事実と直面させるのである。神はイエス・キリストにより、律法にふさわしい敬意と注視を造り出し、かくしてイエス・キリストを信ずるものにおいて、またすべての人にとって、あのしりぞけられた恵みを勝利せしめ、かくして、イエス・キリストを信ずるこれらの人々は、罪と死の律法から解放される希望における生活(17-27節)、咎のない生活(28-39節)、一言で言えば、霊における生活、神の恵みの意志に従属する生活に向かって積極的に解放される〔自由にされる〕のである。・・・神はイエス・キリストの福音の啓示によりその律法を打ちたてる、すなわち神はイエス・キリストを信ずる者たちに、彼の霊を与え、また霊と共にすでに今ここにおいて、本来永遠の生命となる約束を持つ、義しい咎のない倖せな生を与えるのである。神の律法の樹立、神の霊の支配のうちにこそ、信仰者の義の宣告はまことのものとされ、人間の和解、聖化、解放は完成されるのである」(バルト)。

 

  • 信仰者の「イエス・キリストにある生」、「霊にある生」がどういうものであるのかを、このバルトの註解は私たちによく示してくれているのではないでしょうか。私たち信仰者の「イエス・キリストにある生」、「霊にある生」とは、どのような生なのでしょうか。このことについても、バルトの註解によって理解したいと思います。バルトは、私たちに「イエス・キリストにある生」、「霊にある生」という<その新しい現実が与えられていくのは、人間がもはや「私」でもって始めなければならぬのではなく、イエス・キリストが彼と共に新しい始めを造り給うたという事実に基づいて、イエス・キリストでもってはじめることを許されることによるのである>と言っているのであります。

 

  • この<イエス・キリストが(私たちに)彼と共に新しい始めを造り給うたという事実>を認めること、そのイエス・キリストの事実の上に立つということ、それが私たちにとって根本的に重要な事ではないでしょうか。そのイエス・キリストの事実を信じ、認めることが出来ない場合、私たちは怪しい「私」から始める以外に道がないので、そうせざるを得ないのではないでしょうか。けれども、イエス・キリストの事実に基づいて、怪しい「私」ではなく、イエス・キリストから始めることが私たちに許されているのです。

 

  • <そのようなことが起こった場合、その人のことを「キリスト・イエスにある」というのである。そしてこの現実は次のことの中に成立する。すなわち――イエス・キリストが彼と共に新しい始めを造り給うたという事実に基づいて――人間が「私」ではなく、イエス・キリストによって始めることを許される、まさにその場所で、神の律法がまず、自分自身を罪によるかの悪用から解放し、まず自分自身、罪と死の律法のかの顛倒した形体を突き破り、自分自身をその真の形体において呈示するということのうちに成立する>。
  • 「私」で始まる場所では、律法は、文字の律法として、その人が敬虔で聖なる者に、つまり神のようになろうとする、罪の働きをすることになり、人間に死をもたらすことになる。しかし、<イエス・キリストによって始めることを許される、まさにその場所で、神の律法がまず、自分自身を罪によるかの悪用から解放し、まず自分自身、罪と死の律法のかの顛倒した形体を突き破り、自分自身をその真の形体において呈示するということのうちに成立する>と言うのです。

 

  • そして<律法はこのような人物を駆り立てて、神の恵みを求めるようにさせる御霊として示されるのである。まさにそのことによって御霊は今やこのような人間をも、律法の顛倒した形体から解放し、また顛倒した形体において律法が人間に引きおこすに違いない危機から解放し、まさにそのことによって、今やこのような人間をも、生と希望と、咎のない道に向かって突き進んでいくようにさせるのである>(バルト)。

 

  • 今回もバルトの註解の紹介になってしまいましたが、このバルトの註解を注意深く読んでもらいたいと思います。

 

  • 鍵になるのは、「私」で始めるか、「イエス・キリスト」によって始めるかです。この二者択一です。「私」ではじめる人は「肉」にある者です。「イエス・キリスト」によって始める人は「霊」にある者です。8章5節から8節でこのように語られています。

 

  • ≪何故なら、肉による者は肉のことを思うが、霊による者は霊のことを思うからである。つまり、肉の思いは死であり、霊の思いは生命と平和であるのだ。何故ならば、肉の思いは神に対して敵対する。すなわち神の法に従わないし、従うこともできないからである。肉の中に居る者は、神に喜ばれることができないのだ≫(田川訳)。

 

  • 「私」で始める肉の人は悲惨です。≪何故ならば、肉の思いは神に対して敵対する。すなわち神の法に従わないし、従うこともできないからである。肉の中に居る者は、神に喜ばれることができないのだ≫と。

 

  • イエス・キリスト」によって始める「霊」にある人については、8章の9節から11節でこのように語られています。

 

  • ≪もしも神の霊があなた方の中に宿っているのであるとすれば、あなた方は肉の中に居るのではなく、霊の中に居るのである。もしもキリストの霊を持っていない者がいるなら、その者はキリスト者ではない。キリストがあなた方の中に居るのであれば、身体は罪の故に死んでいても、霊は義の故に生命である。イエスを死人の中から甦らせた方(=神)の霊があなた方の中に宿っているのであれば、キリストを死人の中から甦らせた方はあなた方の死すべき身体をも、あなた方の中に宿っている霊によって、生かして下さるであろう≫(田川訳)。

 

  • 二者択一と言っても、私たちの現実は「肉にある」己から完全に自由となって、「霊にある者」としてのみで生られるというわけではありません。生きている限り、私たちは信仰者と言えども、肉を抱えながら生きているのであり、「わたしは何という惨めな人間なのだろうか」という嘆きと、それにも拘わらず「神は感謝すべきかな」と喜びの叫びをあげる者であります。そのことを十分自覚しながら、繰り返しイエス・キリストから始めることを選んで行くことができますようにと、神の導きを祈り求めつつ歩んでいきたいと願います。

 

  • 主がその道を私たちに与えて下さいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
  • 2月に入りました。厳しい寒さの中にも自然は春の訪れを感じさせてくれます。新型コロナウイルス感染という不安を抱えながらの生活が3年目になっています。その中で命と生活が脅かされている方々も多くなっています。神さま、その方々を支えて下さると共に、この困難な状況を、希望を失わずに、生き延びる力を私たちに与えて下さい。
  • 神さま、私たちが、現実の生活の中で、肉に勝る霊によって、私からではなく、イエス・キリストから始める生き方を選び取っていけますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      449(千歳の岩よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-449.htm 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。