なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(34)

2月13日(日)降誕節第8主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   2(聖なるみ神は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-002.htm    

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編126編1-6節(讃美歌交読詩編143頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙8章12-16節(新約284頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     529(主よ、わが身を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm

⑨ 説  教    「神の子ども」       北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)8章は、ローマ書の中でも中心的な箇所です。このローマ書8章について、内村鑑三はこのように述べています。

 

  • <この章は救の完成について説いたものでパウロの信仰の絶頂であり、極地である。従って理解することは容易ではない。・・・理解に難きものを人に向かって解釈し説明せんとするは尚更に困難である。又解釈を聴いたとてそれだけでは解るものではない。かかる大文字に対しては聖霊の指導により信仰の実験を重ね味解するより外に道はない。即ち説明や解釈を経ずして唯パウロの文字そのままが心に味得せられる時を待つ外はない。しかし此時を招来するために二つの予備行為を要する。第一は此のまま此章を暗記しておくことである。之は此文字を其儘味ふ方法である。第二は誤解することなきように、誤解しそうな箇所について注意をして置くことである>(『ローマ書研究』より)。

 

  • その意味では、私のこの説教も、予備行為の第二の「誤解することなきように、誤解しそうな箇所について注意をして置くこと」に過ぎません。ぜひ皆さんがご自身で、このローマ書8章を「聖霊の指導により信仰の実験を重ね味解する」ように努めていただきたいと思います。

 

  • さて、ローマ書8章12節は、≪だから従って、兄弟たちよ、≫(田川訳)という書き出しになっています。≪だから従って≫と言うのですから、この箇所の前の所を受けていることが分かります。8章9節でパウロは、≪もしも神の霊があなた方の中に宿っているのであるとすれば、あなた方は肉の中に居るのではなく、霊の中に居るのである。もしもキリストの霊を持っていない者がいるなら、その者はキリスト者ではない≫(田川訳)と言っていました。

 

  • そして8章10節、11節で、≪キリストがあなた方の中に居るのであれば、身体は罪の故に死んでいても、霊は義の故に生命である。イエスを死人の中から甦らせた方(=神)の霊があなた方の中に宿っているのであれば、キリストを死人の中から甦らせた方はあなた方の死すべき身体をも、あなた方の中に宿っている霊によって、生かして下さるであろう≫(田川訳)と言っているのです。

 

  • そのことを受けて、12節、13節で≪だから従って、兄弟たちよ、我々は肉に従って生きるなどという義務を肉に対して負っているわけではない。すなわち、もしもあなた方が肉に従って生きるなら、死ぬことになろう。しかしもし霊によって身体の行ないを殺すなら、生きるだろう。≫(田川訳)と言っているのです。

 

  • ここには「肉による生」と「霊による生」が対照的に語られています。キリスト者とは、神の霊が宿っている者であり、キリストの霊を持っている者である(9節)とすれば、キリスト者の中には「肉による生」はないのでしょうか。≪霊によって身体の行ないを殺すなら、生きるだろう≫と言われていますから、キリスト者にも身体の行ないがあるということ、つまり「肉による生」があるということを意味しています。

 

  • たまたま12日(土)の日々の聖句ローズンゲンが指示する聖書箇所の一つエフェソの信徒への手紙2章1-10節は、肉による生と霊による生について記されているところでした。少し長くなりますが、そのところを新共同訳で読んでみます。

 

  • ≪さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです—―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとしたのです。事実、あなたがたは、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです≫。

 

  • ここには、肉を支配する罪によって死んでいた、生まれながらの私たちが、神がキリスト・イエスと共に復活させて下さることにより、死から命に導かれていることが語られています。それは、信仰によって与えられた神の賜物であり、自らの力によって得たものではありません。

 

  • この手紙の著者は、そのようなキリスト者である≪わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです≫と言って、わたしたちが≪善い業≫=「霊なる神の律法」を行って歩むために、≪キリスト・イエスにおいて造られた≫者なのだと言っているのであります。

 

  • このことは、正しくローマ書で言われていることではないでしょうか。≪キリストがあなた方の中に居るのであれば、身体は罪の故に死んでいても、霊は義の故に生命である。イエスを死人の中から甦らせた方(=神)の霊があなた方の中に宿っているのであれば、キリストを死人の中から甦らせた方はあなた方の死すべき身体をも、あなた方の中に宿っている霊によって、生かして下さるであろう≫(8:9,10田川訳)。

 

  • ≪だから従って、兄弟たちよ、我々は肉に従って生きるなどという義務を肉に対して負っているわけではない≫(12節、田川訳)のです。

 

  • <キリスト・イエスにある者は、まさにこのような負い目と義務から自由である(12節)。今や神に対してこのような悲しむべき、不毛な関係に進みこむどころか――まさに神に対してこのような関係は徹底的に不可能であるが—―、イエス・キリストにおいて彼らのために起こったことの力により、霊の力によって「体」や「わたし」が本来常に羨望してやまぬかのこころみ、かの「働き(=行ない)」(13節)を再三再四殺し、否定し、消滅せしめ、神の律法に対する真実の従順の中に(おいて)、実にこのような関係を何度も繰り返し否定するに至るのである。神の霊により、押し出され、動かされ、引き出されたものが(14節)――そしてこれこそがキリスト・イエスにあるものの本質であるが――神に仕えるのは、彼らが神の債務者としてそれを強制されているからではなく、まして神に対して自分を自由にしたいという債務者の理想を持つからでもない。むしろ彼らは――そしてこれこそが神の子、イエス・キリストにおける生であるが――神の意志をみたす神の子である。というのは、神が彼らの父であり、彼らは彼の子であるからであり、イエス・キリストの霊として子たる者の霊である、神の霊の力によって、彼ら自身から、彼ら自身の自由において、神の意志を遂行する以外の選びや可能性をまったく持たぬからである(15節)。だが、彼らは神に叫ぶことによって神の意志を遂行する。彼らは人間的実存の危機の深淵から、また深淵において、しかし今は「私は何というみじめな人間なのだろう!」ではなく、「アバ、父よ!」と叫ぶ。彼らは失われた子として、しかし失われながら神に見いだされ、支えられ、まさに失われながら、神を父と呼び、「憫(あわ)れみの父」「慰めに満ちたる神」(Ⅱコリ1:3)として神にしがみつくように――ちょうどイエスが彼に従う者を、事実そのように導いたように!――導かれている者として叫ぶ。まさに彼らは失われながらも、そのように叫ぶという唯一の良き業と、またそれとともに、神の律法によって命じられている、従順という唯一の行為をやめるわけにはいかないのである>(バルト)。

 

  • パウロは、私たちキリスト者はそのような「アバ、父よ」と叫ぶ神の子なのだと言うのです。そこでバルトは、一つの問いを提起します。<だが事実彼らは、そのような叫びによって、恵みに従順であることをやめることもありえないのだろうか。彼らの霊が疲れることなどありえないのだろうか。彼らが、恐れを持たぬわけにはいかず、死以外の場所では終わることがなく、神の名をただ汚すほかないような、神関係のかの「働き(=行ない)」に再び転落してしますような傾向を持つことはもうありえないだろうか>と。そしてバルトは、<いや、これは常時、起こりうることなのだ>と言うのです。

 

  • <どうしてそうでないと言えるはずがあろうか。しかし彼ら自身太刀打ちできぬ、この絶えざる脅威と危機においてこそ、神の霊は、彼らの弱い霊、常に無力なことを知っている霊の側に、その証しをもって立ってくださるのである。彼らはそのような時、打ち立てられた神の律法から、また彼らについてすべてが決定されたゴルゴダの十字架から、「われわれは神の子だ」ということを何度も何度も聞くのである(16節)! すべてのよき業を自力でなすには、まことに無力なわれわれ! その肉が罪によって住まわれ、支配されているわれわれ! 自己追求的な、謀反的な、役に立たない僕であるわれわれ、そのわれわれが神の子である! われわれの聖からざる霊が、かの聖い霊によって動かされ、押し出されてわれわれにこの証しを与えるためには、かしこから来る証し、聖霊の証しが必要である。われわれが自分自身に「われわれは神の子である!」と言いうるために、すでにそのことが先に語られておらねばならぬ! だがまさに「われわれは神の子である!」ということが、かしこから、しかも何度も繰り返し語られるであろうという事実、そしてわれわれはそれに基づき、そのことを大胆に自由のうちに、自分自身にも語ることが許されているという事実、そして何かそれ以外のことを自分自身に語るという選びはまったくなくなってしまっているという事実は、少しも欠けずに起こりうるし、また事実起こるであろう。/さらに、われわれが「アバ! 父よ!」と叫ぶことの中に成立する、従順のかの良き業に、新たに踏みこむことを許され、また踏みこまねばならぬという事実もまた、少しも欠けずに起こりうるし、事実起こるであろう。…>(バルト)。

 

  • そのような意味において、私たちが「アバ、父よ」と叫べる神の子であるということ、肉の体をもって生きる私たちが、霊に生かされて生きることが許されているということは、何と大きな恵みではないでしょうか。内村は、このようなキリスト者の霊による生を電球に譬えてこのように語っていいます。

 

  • <電球は其のままにては何等の光を放たない。これを電線につなぎて初めて光を放ち得る。人は電球の如きものである。独りありては暗々黒々たるのみである。これ即ち罪であり不信である。故に神につながりさえすれば、恰も電球が電線に繋がりし如く即坐に輝光(ひかり)を放ちて周囲を照らすのである。電球は電線を離れ居ては如何ひとりでに努力し工夫しても光を放ち得ない。人が神を離れての努力、修養、工夫は如何に積り重なるとも零の加重である。我等は自己一切の考量、工夫、計度(けいたく)、努力を棄てて唯生命の源なる神に帰ればよいのである。これ悔改、復帰である。罪を離れし事である。かくすれば線に繋がれし電球の如く求めずして光を放ち得るのである>。

 

  • 電球が電線と繋がっているから光を放つように、キリスト者イエス・キリストと連結しているから光を放つのであって、その連結が絶えてしまったら電線と繋がっていない電球と同じです。その可能性を常に抱えていることを十分自覚しながら、それでも神の子とされた恵みを見失うことなく、イエス・キリストと連結した霊に従って生きる道を踏み外さないように歩んでいきたいと願います。

 

  • 主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
  • 神さま、あなたは私たちをイエス・キリストによって「アバ・父よ」と叫ぶことのできる神の子として、罪赦された者としてくださいました。このことを心から感謝いたします。どうぞ私たち一人一人に、そのようなあなたの子どもとしてこの世の現実を生き続ける力を与えて下さい。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      455(神は私の強い味方)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-455.htm 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。