なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(37)

3月6日(日)受難節第1主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   7(ほめたたえよ、力強き主を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編91編1-13節(讃美歌交読詩編101頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙8章31-39節(新約285頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      510(主よ、終わりまで)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-510.htm

⑨ 説  教    「私の味方である神」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今日は、教会歴では受難節の第一主日です。昨年12月のクリスマス礼拝から、会堂で礼拝が出来たのは1回(1月9日)だけです。メール配信による自宅分散礼拝を続けています。3月2日の灰の水曜日から受難節に入っています。去る2月24日にはロシア軍によるウクライナ軍事侵攻が起こり、ウクライナの人々の命と生活が脅かされています。力によって自分の意に沿わない人や国を軍事力によって自分の意に従わせようとするプーチンの傲慢の罪を目の当たりにしています。愕然とさせられると共に、平和の主であるキリストにある者として、私たちキリスト者が今何をすべきなのかを考え、出来ることしていきたいとを思います。

 

  • さて、今日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙(以下ローマ書)8章31-39節は、イエス・キリストにあるということが、どういうことなのかを、パウロが最高度に積極的、肯定的に語っているところではないかと思われます。パウロは、ローマ書1章16節、17節で自らの信仰を告白して、このように語りました。

 

  • ≪わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです≫(新共同訳)。

 

  • そして1章18節以降で、イエス・キリストの福音とは何かを諄々と説いてきました。その最後の結論ともいえるのが、今日の箇所(ローマ書8:31-39)なのです。パウロは、問いを立てそれに答えるという、当時のディアトリベーという弁論術によって、この部分を記しているように思われます。

 

  • 先ず31節、≪では、これらのことについて、何と言おうか。もしも神が我々の側であるなら、誰が我々に反対しえよう≫(田川訳)。田川さんは、≪もしも神が我々の側にあるなら≫と訳しています。これは原文に忠実な訳です。本田さんの訳も田川さんの訳と同じですが、新共同訳をはじめ他の訳はほとんど≪もし神がわたしたちの味方であるならば≫と訳しています。≪我々の側にある≫を≪私たちの味方である≫と訳しています。

 

  • 「神が我々の側に、味方でいてくださるなら、誰が我々に反対できますか」。こういう問いをパウロは8章31節で立てているのです。そして32節で≪神は御自分の御子さえ惜しまず、我々皆のために(死へと)引き渡し給うたのであるから、どうして御子とともにあらゆるものを我々に恵みとして与えて下さらないなどということがあろうか≫(田川訳)と、その問いに答えているのです。31節の味方と反対する者(敵対者)という言い方や、34節では≪神の選びの者たちのことを、誰が告発できよう≫(田川訳)と、「告発できよう」(「訴えるでしょう」新共同訳)と言われていること。そして34節では≪断罪するのは誰か。死んだキリスト、むしろ甦らされたキリストである。そのキリストがまた神の右にいまし、また我々のためにとりなすこともして下さる≫(田川訳)と言われていて、この8章31節以下には頻繁に法廷用語が使われています。

 

  • そのことからある人は、この場面には天の法廷である最後の審判が想定されているのではないかと言っています。<パウロはここで単に最後の審判の予告をするだけでなく、それに際して本来裁かれるべきわたしたちがそれにもかかわらず、無罪判決を受けるであろうことまでも示唆しつつ、その根拠としてのイエス・キリストの「執り成し」を持ち出したのである。とすればこの「執り成し」は、やはり最後の裁きの場での嘆願、つまり法的行為として言われている、と解してよいであろう。すなわち、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」という問いに、「いや、(それはだれもできない。)イエス・キリストがわたしたちに代わって、(わたしたちのために)嘆願してくださるからです」と答えているのである。キリストが天の法廷における弁護士として描かれていると考えてよいであろう。…(しかも)キリストの天上における「執り成し」(嘆願)は、26節、27節の聖霊の「執り成し」(嘆願)と同様、わたしたちのために不断になされている現在の行為なのである>と(川島重成)。

 

  • わたしたちキリスト者は、イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪赦され、今は神の永遠の選びに定められた神の愛する子どもなのです。わたしたちは生まれながらのアダムの末裔として、この闇のような世に独り放置されているのではありません。神を味方として、キリストを弁護人として持っていて、キリストのからだである共同体の一員として生きているのです。これがパウロの確信で、このローマ書の箇所でローマの教会の人たちにパウロが語っていることです。

 

  • その上に立って、35節以下の言葉が続くのです。≪何がキリストの愛から我々を引き離すか。患難か、困難か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か≫(35節、田川訳)。

 

  • ここに挙げられています七つから成る「危難のカタログ」は、おそらくパウロ自身の実際の経験に裏付けられていると思われます。例えばコリントの信徒への手紙二の11章には、パウロが経験した使徒としての労苦が述べられています。そこでは≪ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をして、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町ので難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟からの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。…≫(Ⅱコリント11:23-27、新共同訳)と言われています。また、コリントの信徒への手紙一、15章30-31節では、≪また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます≫(新共同訳)とも言っているのです。パウロはイエスの苦難をたどっている歩みをしていたのではないでしょうか。

 

  • ≪だがこれら一切において我々は、我々を愛し給う方によって、勝って余りある≫(37節、田川訳)と、パウロは断言しているのであります。「我々を愛し給う方」とはキリストのことです。<そのキリストの愛がこの世の敵意を呼びおこす理由でもあったが、同時に、いやそれ以上にその敵意に対する終末論的勝利の原因ともなっている(ケーゼマン)。終りの日に至るまでのキリスト者の歩みは、この世の勢力の試みにさらされつつ、キリストにあって、あの高挙者の執り成し(嘆願)のゆえに常にそれに打ち勝って進む希望の生である>(川島)のです。

 

  • 38節、39節では、七つの危難のカタログのようなパウロが具体的に体験したいろいろな苦しみの原因となっているこの世の悪魔的な諸々の支配力が列挙されています。そしてそれらを圧倒するキリスト・イエスにおける神の愛を、パウロは高らかに謳い上げているのであります。

 

  • ≪何故なら私は確信している、死も生も、天使も支配力も、今あるものも来るべきものも、諸力も、高いものも低いものも、ほかのいかなる被造物も、我らの主なるキリスト・イエスにおける神の愛から我々を引き離すことができない、と≫(田川訳)。

 

  • ここに挙げられている諸力は、パウロの時代の黙示文学的な背景の中で語られている、宇宙的な支配力としての悪魔的な諸力を意味していると思われます。35節のパウロ使徒キリスト者)として受けたとされる具体的な諸艱難とは違います。けれども、現代においては、キリスト者であるわたしたちにとって、35節の具体的な艱難よりも、38節、39節の黙示文学的な悪魔的な支配力の方がリアリティーがあるのではないでしょうか。

 

  • 関根正雄さんは、現代という時代を黙示録的な時代と捉えて、このローマ書37節~39節をこのように解説しています。<要するに、こういうところで(パウロが)表そうとしていることは、現代のわれわれの状況にひじょうに近いのです。現代はまったく神無き時代です。神無き時代とは他面から言うと神以外の諸々の力が働いている時代なのです。時代の霊と総括することも出来ます。政治的に問題を見過ぎるのも時代の霊の影響です。そしてわれわれ自身もその真只中にいる。それにどっぷりつかっている。キリストだけがそういうわれわれを呪縛しているもの全部を取り除いてわれわれをそういうもろもろの神に反する力から解放してくださる。われわれがまったく解放されるというのは、どこで解放されるか、というと、くり返し言うように、十字架においてであります。われわれを義とすることにおいて、われわれを訴えるあらゆる神に反するもの、そういうものの訴えを全部キリストがご自分に引き受けてくださり、それゆえわれわれはもはやその訴えになんら煩わされないのです。そういうものから完全に自由なのです。そういうことでこのいちばん最後のところはいちばん昂揚したところです。キリストによる勝利の讃歌です>。

 

  • 最後に、35節から39節のパウロが語るキリストの勝利の讃歌をもう一度読んで終わりたいと思います。

 

  • ≪ 何がキリストの愛から我々を引き離すか。患難か、困難か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。「あなたのために我々は一日中死に定められている。我々はほふりの羊として数えられたのだ」、と書いてあるとおりである。だがこれら一切において我々は、我々を愛し給う方によって、勝って余りある。何故なら私は確信している、死も生も、天使も支配力も、今あるものも来るべきものも、諸力も、高いものも低いものも、ほかのいかなる被造物も、我らの主なるキリスト・イエスにおける神の愛から我々を引き離すことができない、と≫(田川訳)。

 

  • 何ものによっても引き離すことの出来ない神の愛によって私たちが生かされていることを覚えたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
  • 神さま、ロシア軍による一方的なウクライナ軍事侵攻は始まって、10日が経ちます。たくさんの人の命が失われ、ウクライナの施設や町の破壊が続いています。この戦争が一刻も早く終わりますように、心から祈ります。体制の違いによる対立が、今世界に広がり、和解と平和がますます遠のいていくように思えます。どうか世界に平和がもたらせますように。神さま、あなたが導いてください。
  • 私たちがあなたの愛によって何ものをも恐れない者として、この社会の中で生きていけますようにお導き下さい。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     455(神は私の強い味方)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-455.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。