なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(7)

7月11日(日)聖霊降臨節第7主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌     11(感謝にみちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編119編105-112節(讃美歌交読詩編137頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙1章18-21節(新約274頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

⑨ 説  教   「人類の罪、その原因」  北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 前回までで、ロマ書の序論の部分を扱いました(1:1-17)。パウロは、ローマの教会の人々への挨拶の中で、極めて自然にイエス・キリスト使徒である自分の使命を語り、ローマ教会に対する自己の責任を語っている中で、16節、17節で、話はいきなり中心問題触れることになってしまいました。特に17節はロマ書全体の主題と言えます。17節をバルトの訳で、もう一度読んでおきたいと思います。

 

  • ≪というのは、神の義は、その救いの音ずれ(福音)の中に啓示され、真実から信仰へ至らせる。これは「私の真実によって義人は生きるであろう」と書いてあるとおりである≫

 

  • この17節がロマ書の主題ということは、この17節に、ロマ書が語るすべての内容が言い尽くされているということであります。それは、イエス・キリストの福音の中に啓示された神の義が、それを信じる私たちを、神の真実によって生きる義人として生かしてくれるのだということです。この神の義がロマ書の内容のすべてであるというのです。

 

  • この17節を受けて、17節を出発点として、18節以下で語られていますロマ書の本論が始まっているのであります。新共同訳では分かりませんが、18節の最初の部分は原文では「なぜなら、神の怒りは・・・天から啓示される」となっています。<18節の始めの注目すべき言葉、「なせなら」は16節と17節に出て来る、ほかの二つの「なぜなら」という言葉――「なぜならそれは神の力だからである」(16節)、「なぜなら神の義は福音の中に啓示されているからである」(17節)――という一つの系列の中に立つものであることに注目すれば理解できよう。16,17節においては、これらの言葉が「私は福音を恥としない」という主張を支えている。18節の「なぜなら」も同様な役割を果たしている>のであります(バルト).

 

  • エスは、マルコによる福音書によれば、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って、バプテスマのヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えたと言われています(マルコ1:14,15)。このイエス神の国の宣教の言葉の中にも、「・・・悔い改めて・・・」と言われています。

 

  • これは、福音が語られる時に、同時に悔い改めを必要とする人間の救いがたい状況に触れないわけにはいかないということではないかと思われます。私たちは生来の自己中心的な自分のあり方を180度方向転換して、神から、イエス・キリストから、聖霊から生きるようにならなければ、神の国に入ることはできないのです。

 

  • エス神の国の宣教の中で語られた、悔い改めを必要とするこの救い難い人間の現実を、パウロもロマ書1章18節以下で語っているのでありあます。ロマ書では1章18節から3章20節までが、その部分になります。

 

  • クランフィールドは、「パウロのこの個所の発言は、1章16節後半―17節及び3章21-26節に基づいて述べられている言葉として理解されなければならない。換言すればこの個所で語られていることは、パウロの、同時代の人々についての判断・評価ではなく、人間についてのすなわちすべての人間についての、福音その自体が宣言している判断である。パウロはこれを聴いた、そして彼はこれを甘受した。・・・このセクションはキリストの十字架の光に照らして明らかになる人間を描く。それは特に悪い人々だけについて言われていることではなく、われわれすべての者の内奥の真相・有り体の姿についての記述である」と述べています。

 

  • 神の福音である神の怒りの下に明らかになる救い難い私たちすべての人間の現実とは、どのような現実なのでしょうか。パウロは、18節でこのように語っています。新共同訳では≪不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義≫と訳されています。バルトは≪不義≫を≪不服従≫と、≪不信心≫を≪不敬虔≫と訳しています。そして18節について、バルトはこのように述べています。

 

  • <神と人間が――たとえ世界都市ローマの人間であろうと――福音の宣教と聴取という形で出会う場合、そこで明らかにされるのは両者の間の抗弁、すなわち人間の方で対抗的に持つ抗弁と、それに向かっていく神の抗弁以外のものではありえない。神に対する人間の態度はその場合、畏敬喪失として――それこそが神喪失の本質であるが――、また反逆・反乱として――それこそがすべての人間的不義の本質であるが――明らかにされる。その時、炎が燃え上がる。その炎は人間の中に生ずる、ありうべからざることを焼きつくす。この炎が神の怒りである」。そのように語って、バルトは、<神の怒りを、神の愛とは無関係な、相対立するものであるように考えていてはいけない>と言うのです。<そうではなく、神の愛を、このように燃え上がり、焼きつくす愛として理解してほしい。神の怒りの啓示、罪のために人間の上に下される神の死の判決の啓示は、神が(8:32)ご自身のみ子をさえ惜しまないで、われわれすべてのもののために死にわたした行為にほかならない。イエス・キリストの十字架の死は、天からの神の怒りの啓示である。この点からパウロは考えていく。ここから出発して、われわれは今や次の箇所(19-20節)をも理解せねばならない>と言っているのであります。

 

  • 19節から21節を読んでみたいと思います。この部分の新共同訳は原文に比較的忠実に訳していると思われますので、新共同訳で読んでみたいと思います。≪なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです≫。

 

  • このところは、文脈を無視して、ここを独立した文章として読みますと、イエス・キリストの福音とは関係なく、自然界や歴史を通して、私たち人間が神を認識することができるというようにも読めます。≪世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます≫(20節)と言われているところです。実際そのようにこの個所を解釈してきた歴史があります。けれども、先ほど紹介したクランフィールドにしてもバルトにしても、そのことを強調しているのですが、<この個所(19-20節)は決して一つの断片ではなく、使徒パウロの言葉として、ローマ書とパウロの書簡全体との特別な関連を持>っているのであります。

 

  • パウロは、ここで、異邦人について語っているのでありますが、パウロは異邦人自体とか異邦人一般について語っているのではありません。パウロが異邦人について語る場合には、後から出て来るユダヤ人の場合も同じですが、<その異邦人とは、今やイエス・キリストの復活により、またその時以来全世界を往きめぐっている彼の名の宣教により――彼らがそれを知ろうと知るまいと、またそのことが彼らにとって好ましかろうとなかろうと――福音に直面させられている人間のことなので>あります。

 

  • イエス・キリストの福音に直面させられている人間として、私たち人間は(異邦人もユダヤ人も)、神の救いとしての神の義に招かれている者であります。と同時に、私たちは神に対する不信(不敬虔)と不義(不服従)において、極めて重大な咎があり、責任がある者として、弁解の余地なく、神の怒り前に立っているのであります。これがイエス・キリストの福音に直面させられている人間の現実の明暗です。

 

  • パウロは、神の怒りの下にある私たち人間は、≪神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなっている≫(21節)と言っているのであります。

 

  • <このようにして、光はわれわれの中において暗黒となり、われわれに対する神の怒りは避けがたいものとなった。「その思考はむなしくなり、その無知な心は暗くなった」(むなしい思いにふけり、心が暗くなった)。・・・人間は、無意味に自己自身にたよって、無意味に支配するこの世の権力に対立する。というのは、われわれの生は、この世においては、ただ真の神に関係することによってのみ意味を獲得するからである。しかし、この関係が成立するのは、われわれの思考とわれわれの心が、・・・永遠を想起することによって打ち砕かれる場合であるに違いないであろう。ヨブの歩んだ道に成立する関係以外に、真の神に対する関係は存在しない。この破砕(打ち砕き)が行われないならば、思考は空虚であり、形式的であり、たんに批判的でしかなく、不毛であり、満ちあふれる現象を統制できず、個を全体との関連で理解することもできない。うちくだかれない思考は、事物に対して現実的な関係をもつことを放棄する。そしてうちくだかれない心、すなわちいかなる究極的洞察によっても見張りを受けていない事物についての感覚は、逆に、思考を支配することはできない。この心は、暗黒で、盲目で、無批判的で、偶然にゆだねられてしまっているために、独自な実体をあらわす。思考は、直観なしに理解することによって心情を失い、それゆえ空虚となる。そして心は、概念的理解なしに直観することによって、無思想になり、それゆえに盲目となる。未知の神を認識することなしでは、すなわち人間が自己と世界とを再発見するためには、人間が両者をそこで喪失せざるをえない真の神を回避するならば、精神は世界と無縁になり、世界は精神をもたなくなる。/これが、われわれがさ迷っている夜の原因であり、われわれの上にあらわれる神の怒りの原因である>(バルト)。

 

  • 今日もバルトからの引用が多くなってしまいました。私たちは、神を神とせず、己を神として生きている、神に対して不敬虔(不信心)で、神のみ心に不服従(不義)に生きている己が自分自身の中にあることを認めざるを得ません。その利己的で薄暗い己が、徹底的に神の怒りの下に裁かれて死ななければ、私たちは神の真実に信仰によって応えて生きるキリスト者として立つことはできません。イエス・キリストの福音に直面させられている人間として、私たちは、この肉体において生きていく限り、そのような己を神とする自分自身の死を繰り返し経験していかなければなりません。その意味で、キリスト者の生活とは、日々不敬虔で不服従な己に死に、神によって新しくされた人としてイエスと共に生きていくことではないでしょうか。

 

  • そのことを惰性に流されないで、生き生きと感じながら生きていくことができれば幸いです。

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができ、感謝します。
  • 神さま、今日はローマの信徒への手紙の一節から、あなたに対して不敬虔で不服従な私たち人間の暗い現実が、神の怒りの下に置かれていることを示されました。この世の私たちを苦しめている様々な問題も、あなたをないがしろにして、自分を神として生きる私たち自身から生まれていることを思わざるを得ません。神さま、イエス・キリストの福音に直面して明らかになる、この的を外してしまっている、己を神として生きる私たち人間の現実を打ち砕いてください。そして、すべての者があなたに命与えられた者として、あなたを畏れ敬い、互いを受け入れ合って共に生きていけますように、お導きください。そのためにあなたが私たちの所に遣わしてくださった主イエスに従って生きていくことができますように、私たちをお導きください。
  • コロナウイルス感染の再拡大と、多くの者が反対したにも拘わらず、オリンピック開催という為政者の選択の中で、私たちは戸惑いの中にあります。その中で苦しんでいる多くの方々がいます。どうかその方々を支えてください。ウイルス感染というパンデミックに対処する知恵と力を私たちに与えてください。その知恵を持つ人を政治家に私たちが選ぶことができますように。
  • 今年も豪雨による災害のために、亡くなる人、苦しむ人が出ています。その被災にあった方々を支え、力づけてください。また、この災害を引き起こしたと思われる開発と気候温暖化に結び付く私たちの生活の在り方を根本的に変えていけますように、私たちのその力を与えて下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   442(はかりも知れない)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-442.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。