なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(6)

今日の説教は、後半はバルトの引用になってしまいました。

ゆっくり繰り返し読んでみてください。

バルトの言っていることが伝わればうれしいです。

 

7月4日(日)聖霊降臨節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    351(聖なる聖なる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-351.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編143編1-6節(讃美歌交読詩編156頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙1章17(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  361(この世はみな)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-361.htm

説教 「神の義の啓示」    北村慈郎牧師

 

  • 福音とは、神の救いのよき音ずれですが、それは、聖書に証言されているイエス・キリストであります。私たちは、このような礼拝での説教による福音の宣教、宣べ伝えを通してイエス・キリストと出会い、イエス・キリストが信じるすべての人にとって神の力であることを確信するのであります。

 

  • パウロは、16節で「わたしは福音を恥としない」と言って、「なぜなら、福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言いました。

 

  • 今日の17節の新共同訳は、田川建三さんによると、<無茶苦茶な改ざん。パウロがこの「訳」文を見たら、俺の文をこんなに改ざんしやがって、と血相を変えて怒るだろう」とまで言われているものです。特に新共同訳の≪・・・それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです≫という部分です。この部分のギリシャ語原文は、エク・ピステオース・エイス・ピスティンで、直訳すれば、≪信仰から信仰へ≫です。ですから田川さんは、≪神の義はその(福音)中で、信から信へと啓示されるからである≫と訳しています。また、17節のギリシャ語原文は、新共同訳には訳されていませんが、「なぜなら」とか「というのは」と訳されるガルという接続詞で17節を受けていますので、≪何故なら神の義はその(福音)の中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように≫(田川訳)になります。バルトの訳では、≪というのは、神の義は、その救いの音ずれ(福音)の中に啓示され、真実から信仰へ至らせる。これは「私の真実によって義人は生きるであろう」と書いてあるとおりである≫になります。

 

  • 16節で、パウロは、「わたしは福音を恥としない。なぜなら、福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言い、それを受けて、≪何故なら神の義はその(福音)の中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように≫(田川訳)。≪というのは、神の義は、その救いの音ずれ(福音)の中に啓示され、真実から信仰へ至らせる。これは「私の真実によって義人は生きるであろう」と書いてあるとおりである≫(バルト訳)と、17節で語っているのであります。

 

  • バルトは「信仰から信仰へと」(田川さんによれば「信から信へ」)を「真実から信仰へ至らせる」と訳しているのです。

 

  • 田川さんは、「信から信へと」は、「信」という語をどう解するかによって、三つの可能性があると言っています。<第一は、ふたつの「信」のどちらも「神の信」つまり、「神が信実であること」の意味にとる。第二は、どちらも「人間の信」、つまり人間の神に対する「信実、信頼」の意味にとる。第三に、最初の「信」を「神の信」、二番目の「信」を「人間の信」の意味にとる、第三が文法的にも語義的にももっとも素直。「神の義は、神が信実であることから発して、それを受けて神を信頼する人間の信実へと向かって啓示される。神の義が福音の中に啓示されるということはそういう意味だ」ということ。私は、なるべく文法的語義的に素直に理解するのがいいと思う。「~から~へ」は常識的には出発点と到達点を指す。「神の義」が啓示される出発点は「神の信」であり、その啓示が示される相手は「人間の信」である。たとえばバルトはそのように解して説明している、「神の義は福音の中に啓示される、信実(Treue)から信仰(Glauben)へと」。バルトがこういう時に「信実」と言うと、「神の信実」の意味である。神が「義」を啓示したのは、人間たちに対して(罪人であり、本来それに価しない人間たちに対して)神の側があくまでも誠実さを貫いてくれたということだ、と。そして、それならその啓示を受け取る人間も「信頼」ないし「誠実」をもってそれに対するべきものだ、と。これはパウロの思想の根本である。その根本をパウロはこういう形で要約的に標語化して言っている>と言っています。その意味でも、≪神の義は、その救いの音ずれ(福音)の中に啓示され、真実から信仰へ至らせる≫というバルトの訳文は適切であると言えるでしょう。

 

  • 17節の新共同訳に問題がありますので、少しその説明が長くなりました。17節の前半で、パウロが<なぜなら、(神が神たることを示す)神の義は、その救いの音ずれである福音の中に啓示される=明らかに示される。それは、本来それに価しない罪人である私たち人間に対して、神の側があくまでも誠実さを貫いてくれたので、その啓示を受け取る私たち人間も「信頼」ないし「誠実」をもってそれに対するべきものである>と言っているのであります。

 

  • そして17節後半でパウロは、ハバクク書の預言の一節を引用して、≪「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように≫(田川訳)、≪これは「私の真実によって義人は生きるであろう」と書いてあるとおりである≫(バルト訳)と語っているのであります。

 

  • 信から生きる義人とは、どのような人のことを指しているのでしょうか。そこで、私たちがすぐに思い起こすのは、イエスが語られた義人の話です。「自分を義人だと自認して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬えをお話になった」(ルカ18:9)。それは、祈るために、宮に上った、二人の人たちの話です。一人は、ファリサイ派の人で、神に対して、大声を上げて、自分が神の律法を守り、定められたとおりに断食し、施しをする者であると言って、自信満々に祈りました。すると、もう一人のひと、すなわち徴税人は、宮の前に近寄る勇気もなく、遠く離れて、目を伏せて、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしをおゆるし下さい」と言いました。イエスは、この二人のことを語られて、「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ派の人ではなかった」と言われました。

 

  • ファリサイ派の人は、神の律法を自分勝手に都合よく解釈して、自分を義人だとしていますが、イエスからすると、それは信から生きる義人とは言えなかったのであります。それに対して、徴税人は、「神様、罪人のわたしをおゆるし下さい」と言って、「神の前に出ることすら、恐れ多いと思っていたのであります。イエスは、そのような徴税人こそ、その正しい悔い改めのゆえに、神からは正しい者とされたというのであります。もし義人という言葉を用いるならば、この人こそ、信仰から生きる義人ということができるでのではないでしょうか。

 

  • それにしても、私たちは日常の中で、ふと自分は何のために生きているのだろうかと思うことがあるのではないでしょうか。おそらくこの問いは、誰もが一生の間には何度となく思い起こす問いではないでしょうか。こういう問いを発するということは、私たちが何よりも生きたいためであり、生きることに感じている困難を除きたい、と思っているからではないでしょうか。

 

  • 中には生きることの困難さのために、死にたいと思っている人もあるかもしれません。しかし、死にたいという思いも、裏を返せば、生きたいということではないでしょうか。

 

  • そういう意味で、私たちがどう生きるかということは、一人一人に課せられた大きな課題と言えるでしょう。

 

  • ところで、私たちの信仰生活は、私たちがどう生きるかということと密接不可分と言えるでしょう。信仰は生きることそのものなのです。本田一郎さんは信仰を、「信じて歩みを起こす」と訳していますが、「信じて歩みを起こす」ということは、イエスを信じて「生きる」ということそのものではないでしょうか。

 

  • 「義人は信から生きるであろう」とは、イエス・キリストにおける神の信実(真実)に促されて、人間の信実(真実)をもって生きる。それがイエスを信じて生きることではないでしょうか。

 

  • <人間に対する神の真実はかわらない。神が欲するものと、人間が自己自身からの解放を望みつつ、ひそかに欲するものとの最も深い一致はかわらない。人間の究極的な問いがわれわれの内でめざめるときに、われわれに与えられる神の答えはかわらない。「われら、義の住まう新しい天と新しい地を待ち望む」。われわれがこの待望の中におかれていることによって、われわれは神の真実を知るのである>。

 

  • <・・・神の否という重荷をみずから負う者たちは、より偉大な神の然りによって支えられる。苦しむ者と重荷を負う者は、慰められる。その矛盾を回避しない者たちは、神の中にかくまわれる。あの待望の中に正しく移された者は、かれらが待ち望むことが許されており、待ち望むべきであり、待ち望みうるという点で、神の真実を知っている>。

 

  • <かれらにおいて、「真実によって義人は生きるであろう」(ハバクク書2:4)との預言が成就する。「義人」とは、看守となった囚人のことであり、神の現実の戸口に立つ番人のことである。神の裁きの下に立つ人間の義、恐れを感じた者、希望する者の義以外の義は存在しない。かれは生きるであろう。かれはこの生の空虚さを知ったことによって、真の生の相続権をもっている。そしてかれは、この生において、・・・過ぎ去るものの中おいて過ぎ去らぬものへの期待をもっている。偉大な不可能は、小さな不可能の終極と目標をかれに告知した。かれは神の真実によって生きるであろう。神の真実によってといおうと、人間の信仰によってといおうと同じことである。すでにこの預言者の言葉の伝承が二つの方向を示している。神の真実とは、神が、まったく他なる者として、まったくのがれえないような仕方で、われわれに向かってあらわれ、われわれの後を追うことである。そして人間の信仰とは、この否をあまんじて受ける畏敬であり、空洞への意志であり、否定の中に動揺しつつ踏みとどまることである。神の真実が人間の信仰に出会うところに、かれの義があらわれる。そこにおいて義人は生きるであろう>(以上、バルト)。

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができ、感謝します。
  • 神さま、今日はローマの信徒への手紙の主題にあたる1章17節から、語りかけを聞くことができ感謝いたします。あなたの真実によって義人は生きるとのみ言葉をかみしめることができますように。私たちは道を踏み外して生きていることが多くあります。どうぞあなたの命に繋がる生を生きることができますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   262(聞け、天使の声)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-262.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。