なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(5)

6月27日(日)聖霊降臨節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    8(心の底より)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-008.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編133編1-3節(讃美歌交読詩編147頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙1章16節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  357(力に満ちたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-357.htm

説 教 「福音を恥としない」           北村慈郎牧師

 

  • 今日のロマ書の箇所である1章16節は、17節と共にロマ書の主題が記されているところであります。

 

  • パウロは、この手紙の挨拶において(2-4節)、福音の内容を簡潔に触れた後、「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(15節)という志を明らかにして、ローマ教会に対する自分の個人的な思いを披瀝しました。

 

  • 新共同訳ですと、その後突然「わたしは福音を恥としない」となっていますので、唐突のように感じられます。しかし、ギリシャ語原文では16節は、ウー・ガルと書き出されていて、「ガル=なぜなら、わたしは福音を恥としない」となっています。

 

  • パウロは、自分は異邦人の使徒としてギリシャ人にも未開の人にも、全ての人に対して責任を感じるから、ローマにも行きたいと言いました。それには理由があると言って、自分は「福音を恥としない」からである、この福音こそ、神の力だからである、と言いたいのであります。

 

  • 「わたしは福音を恥としない」。この言い方は否定的な言い方です。「わたしは福音を誇りとする」と言えば、積極的な言い方になります。どちらも「わたしは福音を信じます」と言っているのですが、言い方の違いになります。なぜパウロは「「わたしは福音を恥としない」と、消極的な言い方をしたのでしょうか。

 

  • マルコによる福音書の8章38節に、イエスが語った言葉として、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」とあります。

 

  • このイエスの言葉には、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者」がいると言われています。イエスとイエスの言葉は、抵抗なくすんなりと、神に背いたこの罪深い時代の人々に受け入れられるものではない、むしろ拒絶されるのだ、と言うのです。

 

  • パウロも、この現実を目の前にしていたのではないでしょうか。かつては自分自身も教会の迫害者として、イエスとイエスの言葉は受け入れられず、拒絶していたからです。福音を拒絶し、福音を恥じるこの世とわたしたち人間の現実を直視しつつ、パウロは「わたしは福音を恥としない」と、はっきりと、また力強く、信仰を告白しているのであります。

 

  • パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中でこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」(Ⅰコリ1:22)と。

 

  • ユダヤ人はイエスに対しても、しるしを欲しがりました。マタイによる福音書12章38節以下に、≪すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いている時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(マタイ12:38-39)と記されています。イエスは、しるしを求める律法学者やファリサイ派の人たちを、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言って、たしなめられたというのです。

 

  • パウロは出自を同じくするこのようなユダヤ人のしるしを求める思いをよく知っていながら、「(しかし)わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」と言い切っているのであります。

 

  • しるしを求めるユダヤ人に対して、ギリシャ人は知恵を求めます。知恵を愛するという哲学がギリシャにはじまったことは、よく知られていることです。それを承知いた上で、パウロは、ギリシャ人に対しても、やはり、同じ十字架を宣べ伝えることしかできない、と言うのであります。

 

  • しかも、十字架につけられたキリストは、しるしを求めるユダヤ人にとってはつまずきであり、知恵を求めるギリシャ人にとっては愚かなものであることを、パウロは初めからよく知っていたのです(Ⅰコリ1:23)。しかし、それ以上に、「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Ⅰコリ1:24,25)と、パウロは言うことが出来ました。

 

  • パウロは、神の知恵と人間の知恵を比べてこのようにも語っています。≪十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われた者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする」。知恵ある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教の愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです≫(Ⅰコリ1:18-22)。

 

  • パウロが福音を恥としなかったことには、一つだけ理由がありました。それは、福音こそが神の力であると、パウロが確信していたからです。逆に福音を恥じる者は、福音が神の力であることに確信が持てないから、恥じるのではないでしょうか。福音に神の力、福音にこそ私たち人間を生かす本当の命の力が現れていると信じることができるならば、誰が何と言おうと、福音を恥じることはありません。パウロと共に、「わたしは福音を恥じない」と言うことができるのです。

 

  • 口語訳詩編98編に、≪新しい歌を主に向かってうたえ。/主はくすしきみわざをなされたからである。/その右の手と聖なる腕とは、/おのれのために勝利を得られた。/主はその勝利を知らせ、/その義をもろもろの国民の前にあらわされた。/主はそのいつくしみと、まことを/イスラエルの家にむかって覚えられた。/地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た。/全地よ、主に向かって喜ばしき声をあげよ。/声を放って喜び歌え、ほめうたえ。≫と、記されています。

 

  • 竹森満佐一さんは、これが、福音の力であると、このように言っています。「福音というのは、神が決定的な行動をなされたことであります。御自分のために、勝利を得られたことであります。そのゆえに、われわれは、救いに入れられるのであります。これが、主のくすしきみわざ、すなわち力でなくて、何でありましょう。神が、ご自分のお造りになった世界に対して、まことに神となられる、このことが、主イエス・キリストの事実であります。神が、お働きになる、ということ以上に、驚くべき力がどこにありましょう。神が、行為される、お救いになる、ということ以上に、力を感じさせることはないははずであります。詩編の記者の喜びと讃美とは、当然なことであります」。

 

  • 私たちは、神がイエス・キリストにおいて決定的な行動を起こされ、その神の行動にこそ真の力があるということを、どこまで深く受け止めているでしょうか。このイエス・キリストにおける神の行動によって、自己中心的で、互いに罵(ののし)り、騙(だま)し、自分の利益しか考えようとしない私たち人間に死の宣告が下されたのではなかったか。そのような古き人としての自分に代わって、イエスの兄弟姉妹として互いに違いを持ちながらも、一つになって生きる新しい人間として、キリストを着て生きる者となったのではなかったのでしょうか。

 

  • ≪福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです≫(ローマ1:16節)。

 

  • 福音(イエス・キリスト)によって与えられている神の力は、目に見えるものでも手にふれることのできるものでもありません。それは、神のことばによって、語られているのであります。それゆえ、これを信仰をもって受け入れるのでなければ、力になりません。信仰がなければ、神の力が力にならないのではありません。神の力はイエス・キリストの生涯と死と復活の出来事において、すでに事実となって現れているのです。信仰が神の力をつくるのではありません。信仰をもって神の力である福音に応ずる、答えるのであります。

 

  • そのことは、「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべて」に当てはまります。「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも」という言い方は、厳密には「ユダヤ人と異邦人」という言い方ですが、ユダヤ人の視点から全世界の人を指す言い方です。前に「ギリシャ人と未開人」という言い方が出てきましたが、これはギリシャ人の視点から全世界の人を指す言い方になります。このように「すべて信じる者に」とって、「福音は、・・・救いをもたらす神の力である」と、パウロは言っているのであります。だから「わたしは福音を恥としない」と。

 

  • 今回、この≪わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです≫というロマ書1章16節のパウロ信仰告白を改めて読んで、パウロのように私自身「わたしは福音を恥としない」と言えるような生き方をしているだろうかと反省させられました。

 

  • パウロは、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」としての福音(イエス・キリスト)によって自己変革を経験しているのだと思います。ですから、ロマ書14章7節以下で≪わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです≫(14:7-8)と言っているのです。これが、≪わたしは福音を恥としない≫の内容だと思います。

 

  • この福音による人間変革、これは個の変革ですが、私は若い時に、荒井献さんが「パウロには自己変革はあるが、社会変革はない」と言われたことが気になって、福音信仰による社会変革の可能性の方に力を注いできたように思います。しかし、考えてみれば、一人一人の自己変革がなければ、社会変革もあり得ないわけです。

 

  • わたしたちは、信仰によって神の力としての福音(イエス・キリスト)に応答して、≪生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主(イエス・キリスト)のものです≫と、パウロのように言えるだろうかと思うのです。この私の中で自分ではなく主イエスが私の主体になるまでに、イエスの信じることによって、自己変革である主体の変革がなされているのか。そのことを自分自身に問うてみなければならないと、「わたしは福音を恥としない」というパウロ信仰告白が促しているように思ったのです。

 

  • 現代の問題は、新型コロナウイルスを野放しにする人間が生みだした環境破壊でもありますが、その環境破壊を生み出した人間の劣化の問題でもあるわけです。人を蹴落としてでも豊かになって自由に行きたい、その自由は自分勝手ということですが、そういう人間の問題が深刻になっているのが、現代の問題でもあるわけです。

 

  • 一人一人の自己変革が問われているのであります。その意味でも、≪わたしは福音をはじとはしない≫というパウロの自己変革を促す信仰告白は、現代に生きる私たち一人ひとりにとってもインパクトを与える言葉ではないでしょうか。

 

祈ります。

  • 神さま、今日は久しぶりに教会で皆が集まって礼拝をすることができ、感謝します。
  • 神さま、今日は「わたしは福音をはじとしない」というパウロの言葉を、共に受け止めることが許され、感謝いたします。神の力であるイエス・キリストという福音は、わたしたちすべてがこの世の束縛から解放されて、自由に生きることへと、わたしたちを招いています。その福音を恥としないで、わたしたちも生きて行けますように、神さま、わたしたちを導いて下さい。
  • 先週の6月23日は沖縄の慰霊の日でした。戦後75年が過ぎても、実態としての沖縄は、米軍の支配のもとに置かれています。日本政府がかつての戦争を反省し、二度と再び戦争をしないという決意をもって、主権国家としてアメリカと向かい合い、どうか一日でも早く、沖縄が米軍の支配から解放されますように。そのために私たちもできることをしていく力を与えて下さい。沖縄の人々を支えてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   227(主の真理は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-227.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。