「恐れながらも喜び」 マタイ28:1-10、復活節礼拝、2019年4月21日船越教会礼拝説教
・先ずこのマタイによる福音書のイエスの復活の記事の中に出て来る二人の女性、マグダラのマリアとも
う一人のマリアに焦点を合わせて、この記事をもう一度振り返ってみたいと思います。
・イエスが十字架につけられ殺されて、墓に埋葬されてから、安息日が終わって、週の初めの日の明け方
に、マグダラのマリアともう一人のマリアの二人が、イエスの埋葬された墓を見に来ました。マルコ福音
書では香油を用意して女たちは墓に来たと言われていますが、マタイ福音書では、ただ墓に来たとだけ記
しています。マタイ福音書では、このイエス復活の記事の前に、イエスの遺体を弟子たちが盗み出して、
復活したと言いふらすのを恐れて、ファリサイ派の人々はピラトに願って、イエスの葬られた墓の前に番
兵を置いたと記されています(27:62-66)。しかし、二人の女性が墓に来た時、これもマタイ福音書にし
か記されていないのですが、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転が
し、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろ
しさのあまり震え上がり、死人のようになった」(2-4節)と言われています。「天使は婦人たちに言っ
た。恐れることはない。・・・・」(5-7節)。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び(「恐れと大きな喜
びとをもって」)、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8節)と記されて
います。
‣「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』(喜びあれ、平安あれ)と言われたので、婦人
たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行っ
て、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(9-10
節)と。二人のマリアは、天使と復活したイエスから「恐れることはない」と二度呼び掛けられているの
です。二人は、十字架にかかって殺されたイエスが甦ったことを信じて、「恐れながらも大いに喜び、急
いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と言われています。
・この記事によりますと、二人のマリアは、空っぽの墓の前で復活した十字架につけられたイエスの足を
抱いたと言われています。ここで二人のマリアに出会っているのは、十字架につけられて殺されたイエス
ご自身なのです。殺されて、死んで、墓に埋葬されている筈のイエスが、復活して二人のマリアの前にい
るのです。そしてそのイエスの体の一部である足を、二人のマリアは抱いたというのです。
・今日の週報の船越通信に青野太潮さんによるパウロのイエスの十字架と復活理解について、その著書
『最初期のキリスト教思想の軌跡』という本から引用しておきました。そのところを御覧ください。読ん
で見たいと思います。「青野太潮さんは、パウロのイエスの十字架と復活理解をこのように言っていま
す。パウロにとって、「『復活者』とは『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』(ガラテヤ書3:1の文
語訳)なのだ」と(『最初期キリスト教思想の軌跡』267頁)。【ガラテヤの信徒への手紙3章1節の新共
同訳では、この箇所は「十字架につけられた」と過去形に訳されているが、この所の原文は現在完了なの
で、文語訳の「十字架につけられ給ひしままなる」が正しい訳であると、青野さんは言っています】。
「そして「復活を可能としてくださる神を、パウロはずっと以前から信じていたにちがいないと思われま
すが、しかし実は、そのことを本当に心の奥底深くで体験したのは、まさに彼がイエスの苦難に重ね合わ
せる形で理解した自らの苦難の只中においてだったのです。それはあのイエスの『十字架』への神の『然
り』こそが『復活』であったのだという理解にピタリと符合しています」(同上244頁)。「パウロの宣
教の中心にある『十字架につけられてしまっているキリスト』(コリント1:23)とは、この世的に見たら、
愚かさ、躓き、弱さ以外の何物でもないのだが、しかし神の目から見たら、そこにこそ真の意味での知
恵、賢さ、救い、力(すなわち強さ)があるのだ、との『十字架の逆説』がここでは主張されている」
(同上246頁)。パウロにとっては、『十字架のキリスト』について語らないままに『復活のキリスト』
について語るということは、実は全く不可能なことだったのである。なぜならば、パウロにとっての『復
活のキリスト』とは、ただ『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』のもつ『愚かさ、躓き、弱さ』
を経てしか、つまりそれが逆説的に捉えられた時にしか、真に現実のものとなることはなかったからであ
る」(252頁)。
・どういうことかと言いますと、イエスは、当時の権力者であるローマ総督ピラトとユダヤの大祭司らが
結託して十字架にかけられて殺されたのです。勿論扇動されて、イエスを十字架に着けろと叫んだ群衆も
加担しました。イエスを三度知らないと言って、イエスを否認したペテロも逃げ去った他の弟子たちも、
否認と逃亡という行為によってイエスを十字架につけることに加担したのです。
・青野さんは、このイエスの十字架は、「この世的に見たら、愚かさ、躓き、弱さ以外の何物でもない」
と言っているのです。この世的に見たら、知恵、賢さ、助け、強さは権力と富にあるように思われている
からです。弟子たちでさえ、イエスの十字架を前にして、イエスを否認したり、逃亡してしまったのは、
十字架のイエスの「愚かさ、躓き、弱さ」に耐えられなかったし、そういうイエスを十字架に着ける権力
者の暴力を恐れたからではないかと思われます。
・しかし、この世的に見たら、愚かさ、躓き、弱さ以外の何物でもない『十字架につけられてしまってい
るキリスト』(コリント1:23)にこそ、神の目から見たら、真の意味での知恵、賢さ、救い、力(すなわち
強さ)があるのだというのです。それは『十字架の逆説』であり、そのことを「復活のキリスト」が示し
ているのだと。
・パウロの「復活のキリスト」理解を、今日のマタイの記事に当てはめることは出来ないかも知れません
が、二人のマリアが復活者イエスの足を抱いたとき、そのお方が十字架につけられているイエスご自身で
あることを知り、二人のマリアは「十字架の逆説」に出会ったのではないでしょうか。イエスの十字架と
いう死への道行ききこそが命の道であるという逆説です。復活のイエスは十字架のイエスであり、十字架
のイエスは復活のイエスであるという逆説です。
・パウロはコリントの信徒への手紙一、1章18節以下でこのように語っています。「十字架の言葉は、滅
んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と。そして、「ユダヤ
人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられた(青野訳「十字
架につけられてしまっている」)キリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるも
の、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の
力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも
強いからです」(汽灰1:22-25)と。
・私たちはこの十字架の逆説を見失ってはならないと思うのです。これは、青野さんも言っていますよう
に、イエスの十字架を私たちの罪の贖いとする贖罪論ではありません。十字架の逆説によって、私たちは
イエスの十字架を自分の十字架として負う者へと導かれていくのではないかと思います。
・3年前のイースターに今日と同じマタイによる福音書の復活の記事で説教をしました。その時の説教
で、私は、ジャン・バニエの『きいてみたいな イエスさまのおはなし』という本に記されています、イ
エスの言葉を紹介しました。それをもう一度紹介します。「また、イエスさまの 声がきこえます“困っ
ている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈りしたり できれば 近くで あなたの力を わ
けてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに ひ
とつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと たすけて しゅくふくを おくってくだ
さいますよ”」
・これは、「自分の十字架を負って私に従ってきなさい」というイエスの招きの言葉の言い直しと考えら
れます。
・十字架のイエスである復活のイエスに出会って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏している二人のマ
リアに、十字架を前にしてイエスを否認し、逃亡した弟子たちをイエスは「兄弟たち」と言って、このよ
うに語りました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。
そこでわたしに会うことになる」(マタイ28:10)と。
・十字架に躓いて、イエスのもとから逃げてしまった弟子たちは、再びガリラヤで復活のイエスに出会っ
て、自分の十字架を背負って、イエスの十字架への道を十字架のイエスである復活のイエスと共に歩いて
行ったに違いありません。
・「 “困っている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈りしたり できれば 近くで あな
たの力を わけてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなた
の近くに ひとつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと たすけて しゅくふくを
おくってくださいますよ”」とのイエスの呼びかけに従って。
・私たちもその一人として歩んでいきたいと思います。