なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(55)「イエスの死刑宣告」ヨハネ11:45-57

4月14(日)復活節第3主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   208(主なる神よ、夜は去りぬ)

https://www.youtube.com/watch?v=o0fepgaZwBs

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編145編1-9節(讃美歌交読文158頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書11章45-57節(新約190頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    382(力に満ちたる)

https://www.youtube.com/watch?v=ueWu_htjYa4

⑨ 説  教  「イエスの死刑宣告」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日のヨハネによる福音書の11章45節以下には、ラザロの復活の出来事に対する人々の反応が記されています。

 

45節には、<マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた>(新共同訳)と言われています。ヨハネ福音書では奇跡は「しるし」と見られています。そいてその「しるし」である奇跡を見て信じる信仰を、ヨハネ福音書のイエスは必ずしも信頼してはいません。2章23-24節前半にこのように記されているからです。<イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった>(新共同訳)と。ヨハネの記述の重点は、奇跡それ自体にではありません。その奇跡が証ししている出来事の核心であるイエスの人格と言葉に置かれているのであります。ですから、<マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた>(新共同訳)と言われていますユダヤ人の信仰も、ラザロの復活の出来事が証ししているイエスご自身を信じたということではないかと思います。カルヴァンは、「かれ(ヨハネ)はこう言おうとしているのだ。ここに語られている人たちは、キリストの神的な力を讃嘆し崇敬し、服従してかれ(イエス)の弟子たちになった、と。そうでなければ、奇跡それ自体では、信仰をもつのに十分ではあり得なかったろう。だから、この信じるという語は、ここでは、キリストの教えを受け入れる従順さと敏速さ以外の意味にとってはならない」(『ヨハネ伝註解』)と言っています。

 

ところが、イエスのなさった事を目撃したユダヤ人の中には、イエスを信ぜず、<ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた>(46節、新共同訳)と記されています。イエスの言葉と業は、ユダヤ人たちを、彼を信じる者と彼に反対して告発する者とに分けたのです。ラザロを復活させたイエスの奇跡(しるし)は、ユダヤ人の中に否定し得ない大きなインパクトとなって広がっていきました。その出来事はエルサレム近郊のベタニヤ村で起こったのですが、ベタニヤ村を越えて、エルサレムの祭司長やファリサイ派の人たちにまで伝えられていったのです。

 

そこで彼らは最高法院を招集しました。最高法院とは、ローマ帝国支配下にあった当時のユダヤ自治機関で、70人の議員と大祭司によって構成されていたユダヤの最高決議機関でした。その最高法院を招集して、イエス殺害の策略をめぐらしたと言うのです。この最高法院の構成員は、一般の民衆とは違って、ユダヤ人社会の宗教的・政治的権力を握ってましたその最高法院という密室において、イエスに対する処置が討議され、決定されたのです。

 

彼らはイエスの人気が高まり、その奇跡(しるし)の影響力が民衆の間に広がることを恐れました。そうなればローマも黙って見ているはずはないだろうから、ユダヤに対するローマの武力干渉が起こり、<もしもこのまま彼をほっておけば、すべての者が彼を信じるだろう。そしてローマ人が来て、我々の場所も民族も取り上げるだろう>(48節、田川訳)。そうなれば、ユダヤの民は決定的に滅ぼされてしまうのではないかと、彼らは考えたのです。彼らはいかにもユダヤの民の安全や幸福、国家の名誉や神殿での神奉仕のことを心配しているかに思われます。しかしそれはただうわべだけのことであって、祭司長やファリサイ派の人々が本当に恐れていたのは、ユダヤの民に対する自分たちの支配体制が打ち倒されてしまうかもしれないということだったのです。支配者たちの自己保身の姿がここには浮き彫りされています。

 

ヨハネはこの記事で、紀元70年のユダヤ戦争で、ローマの軍隊がエルサレムを占領し、神殿をはじめ大祭司の支配体制も、ユダヤ民族の自立性もすべて破壊されてしまった悲惨な歴史を知って、その後で書いていることは明らかです。当時ユダヤの指導者たちが恐れていたことは的中したのです。しかし、それは彼らが考えていたように民衆がイエスを信じて従って行ったからではなく、むしろ逆に彼らがイエスを十字架につけて殺し、その後も、イエスの弟子たちによる初代教会の働きを弾圧し、迫害しつづけたためでありました。そのために初代教会の人たちの大勢はローマの異邦世界に出て行くことになったのです。

 

この危機的状況において、最高法院の議長をつとめる大祭司カヤパ(紀元18-36年在任)が、なみいる議員たちに対して一つの決定的な提案をします。それはひとりの無実の男(イエス)を殺害することによって、ユダヤ全国民を救おうとする計画でした。この場合それしか方法がないというのです。この提案は議会の受け入れるところとなり、イエス殺害が決議されます。そして問題はこの決議を実行に移す段取りとその時機とがはかられることになります。

 

しかしこの大祭司の提案の意図はきわめて政治的でありました。その考え方は、全体をすくうためには、その人が無実であってもかまわないから、だれか個人に責任を負わせて犠牲になってもらうのも已(や)もう得ない、という考え方の上に立っています。「全体を救う」という美名に隠れて、自己の支配体制を守ろうとする体制擁護の思想に根差しているわけです。全体(国家であろうと会社であろうと)が、その中にいる個人に常に優先するので考え方です。その場合犠牲とされるのは、いつも弱い者です。イエスはそこで、自己保身をはかろうとしたユダヤの指導者たちによって、いけにえの羊とされたのであります。

 

このような政治的な悪知恵から出た大祭司カヤパの言葉を、福音書記者ヨハネは意識的に、神による救済の預言として解釈しています。この言葉をカヤパは、それなりの思いをこめて自分の考えとしてのべているのですが、しかしその言葉は、発言者の思いを越えて、彼自身の意図しない神の救いの計画の預言として、ヨハネによって聞きとられ、書き記されたのであります。「これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ、と言ったのである」(51,52節、新共同訳)(同上)。

 

カヤパのよこしまな思いからのイエス殺害の言葉と行動とが、さらに高いところから動かされた預言の言葉として聞きとられ、神の救いの計画の道具として用いられるということは、ヨハネ福音書記者の独自の歴史理解であります。シュラッターはこう書いています。「カヤパは、ただユダヤ民族の保存を考えていたにすぎない。彼はイエスを、ユダヤ民族を救うために必要な犠牲と呼んだ。しかるにイエスの十字架の業は、ただ単にユダヤ人に福音をもたらすにとどまらない、またユダヤ人を和解の恵みのもとに置くだけでもない。それは、すべての神の子らのために、また共同体に集められていない散らされた者たちのために行われた。たとい彼らが神を知らなくとも、しかし神は彼らを、御国に招かれた者として知っておられる。このような者たちを集め、自分たちの神、自分たちの羊飼いを見出した一つの教会へとまとめるための道が、イエスの十字架の業であった」。

 

エスの十字架の死が、ただユダヤ民族だけのものではなく、またユダヤ人以外の異邦の民をも含むすべての民の救いのためであるとの考え方は、とりわけヨハネ福音書記者の強調する信仰的理解であります。そのことは、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)、「わたしに、この囲い(すなわちユダヤ民族)に入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)にすでに示され、また後に続く第17章の大祭司の祈り「すべての人を一つにしてください」(17:21)にもっとも明確な形で述べられています。

 

<それでその日から彼らはイエスを殺そうと決議した>(53節、田川訳)。イエス殺害の相談は、すでに前からなされていました(5:18,7:1,8:40,10:31)が、今ここで最高法院の会議の決定として、最終的かつ正式になされたことになります。彼らはイエスを、ユダヤ民族にとって、また彼らの支配体制にとっての「危険な人物」と判定したのですが、そのように判定する理由については、共感福音書ヨハネとの間に違いがあります。共観福音書、特にマルコによる福音書の場合には、イエスの権威ある律法解釈が、モーセの権威に違反し、ひいては祭司長、ファリサイ派の人々に対する挑戦として受けとめられたのですが、ヨハネにおいては、イエスの受難の直接の原因は、イエスの奇跡行為(その最大のものはラザロの復活の奇跡)であって、律法違反ではありません。ですから、ヨハネ福音書では、この後ラザロ復活の生き証人であるラザロその人をも殺そうと計り(ヨハネ12:10)、その証拠を湮滅しようとするのであります。

 

さてイエスは、ベタニヤから一直線にエルサレムへの道を進まれたのではなく、一時荒野に近いエフライムという町に退かれました(54節)。エフライムはどこにあるかははっきりしませんが、要するにイエスは一時人々の前から姿を隠されたのであります。このようにイエスの生涯には、あらわされた面と隠された面があって、この両者が交錯しつつイエスの人格の核が形づくられているのであります。

 

この今日のヨハネ福音書の箇所から、イエス殺害を、最高法院を招集して、その最高法院の決議として決定した大祭司をはじめファリサイ派の人々の自己保身について考えさせられます。それに対してイエスは、正に「仕えられるためにではなく、仕えるために来た」と言われていますように、私たち一人一人を愛し、その尊厳を大切にするが故に、十字架に極まるまで、徹底的な自己放棄の生を生きたことを思わされます。その生きざまは余りにも対照的であります。

 

現代日本の岸田政権をはじめ政治家の方々は、ある面で大祭司やファリサイ派の人々に近いのではないでしょうか。また、多くの市民も、イエス時代のユダヤの群衆のように、自己追求に明け暮れていて、他者の痛みへの共感が弱いかも知れません。しかし、切実に救いを求めている、傷ついている人々の叫びがあり、それに応えてイエスに倣って生きて行こうとしている人々もいることも事実です。私たちもまた、イエスが中心に全ての人が集い、共に生きる世界(神の国)を望み見て、今を生きているのではないでしょうか。2000年前にユダヤの国に生きたイエス現代日本に生きているとしたら、今もイエスを抹殺しようとする人々と、イエスを信じて未来を紡いでいこうとする人々の対立の中を歩んでいるのではないでしょうか。そのイエスに私たちも自分なりに精一杯従って生きていきたいと思います。

 

主が私たちをそのように導いてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今日は、ヨハネ福音書から、死の陰の下に生きる人々に命の輝きを与えてくださるイエスを、権力者とその同調者は受け容れることは出来ず、殺害の決定を下したことを学びました。もしそのイエスが、現代のこの日本社会にいらっしゃったら、同じことが起こるのではないかと思われます。
  • 神さま、私たちがイエスを拒絶し、抹殺する権力者の同調者ではなく、全ての人に命の輝きを与えてくださるイエスに従う者の一員となって生きることができますように、お導きください。
  • 戦争や貧困という私たち人間が造り出す悪を取り除いてください。それにも拘わらずそのために苦しむ人々を支え、助けてください。災害や病気で苦しむ人々を支えて下さり、その一人一人に希望をお与えください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   300(十字架のもとに)

https://www.youtube.com/watch?v=7Tjo4BmEwMY

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。