なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(48)「裁くため」9:36-41

2月18(日)受難節第1主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌 8(心の底より)

https://www.youtube.com/watch?v=E3tt50hxd4Y

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編91編1-13節(讃美歌交読文101頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書9章35-41節(新約186頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    419(さあ、共に生きよう)

https://www.youtube.com/watch?v=FbbYpBKeNfo

⑨ 説  教   「裁くため」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は、イエスに癒された生まれつき盲人だった人の物語の最後の部分であるヨハネによる福音書9章35-41節から、語りかけを聞きたいと思います。

 

まず最初に、前回扱いました、癒された人に対するファリサイ派の人たちの尋問の最後の所を、もう一度想い起こしておきたいと思います。イエスに癒された人は、ファリサイ派の人たちに向かって堂々と信仰告白をしました。そのために、その信仰告白を聞いたファリサイ派の人たちは怒り出して、34節で、「おまえは全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って、この人を「外へ追い出した」と書かれていますように、このイエスに癒された人は、ユダヤ教徒の交わりから追い出されて、村八分にされてしまったというのです。

 

この出来事には、一世紀末のヨハネ福音書の教会とユダヤ教の会堂との抗争が背景にあると思われます。当時のユダヤ教キリスト教を敵対化して、キリスト教徒をユダヤ教の会堂から追放していました。追放されたキリスト教徒はユダヤ教の交わりとは別の交わりに受け入れられないと、孤立しては生きていくことも出来なかったに違いありません。会堂はユダヤ教徒の生活共同体としても機能していて、そこから排除されるということは、別の生活共同体に属していないと、生きていくことができなかったのです。おそらくヨハネ福音書の教会も礼拝共同体であると同時に生活共同体でもあったと考えられます。ですから、ヨハネ福音書の教会は生活共同体としても、ユダヤ教の会堂と敵対的な関係にあったと考えられます。

 

古代社会は、現代社会のように何を信じていようが、その信仰に関係なく、公共の生活には誰でも参加できて、そこで生きるために必要な衣食住を得ることが出来るという社会ではありませんでした。自分が信じる宗教教団の中で生活もしていかなければならなかったのです。古い日本の村落共同体も同じでした。その村が祀る神社と村人の生活は一体だったのです。

 

ですから、ヨハネ福音書9章の生まれつき盲人で、イエスによって癒された人は、ユダヤ教の会堂から追放されることによって、生きるすべさえ失わなければならないという状況に置かれてしまったのです。この人は元々生まれつきの盲人で、物乞いしていた人ですから、生きるすべを持っていなかった人ではありますが、イエスによって癒された後にも、ユダヤ教の会堂から追放されたので、どこかに生活のすべを求めなければなりませんでした。そのことを耳にしたイエスは、そのように古い社会の交わりから締め出されたこの人を放置されませんでした。この人の身の上に起こったことをお聞きになったイエスは、直ちに自ら出かけて行き、彼に会い、新しい交わりの中に彼を迎え入れるのです。

 

35節から38節までを読みますと、<イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、>とあります。

 

この生まれつき盲人の癒しの出来事には、ひとりの人がイエスに出会って、イエスを主と信じる信仰を持って新しく生きていくことが、その人への神の臨在によることがよく示されていると思われます。この人はイエスとの出会いによって癒されます。そしてファリサイ派の人たちの尋問を受け、イエスが人の子として神から遣わされた方であることに気づかされていきます。そしてイエスから「あなたは人の子を信じるか」と問われ、人の子がイエスであると知って、「『主よ、信じます』と言って、(イエスに)ひざまずく」のです。彼をしてそのように、イエスを拝するようにさせたのは、彼自身によるというよりも、彼の中で働く神ご自身(聖霊なる神)ではないでしょうか。神はイエスを通してこの人に介入すると共に、その人の内に入って、その人を神への応答に導くのです。

 

この38節で、9章の初めから語られてきた、生まれつき盲人の物語は終わっています。出来事としては終わっているわけですが、次の39節から41節の9章の終わりまでに書いてあることは、この出来事が終わったあとで、この出来事が何であったかということについて、イエス自身が、いわばこの出来事を総括する形で語られているのであります。つまり、生まれつき盲人の癒しの出来事全体を統べくくる言葉として、あるいは9章全体を統べくくる言葉として、39節以下の言葉があるわけです。

 

そのようなものとして、ここには二つのことが言われています。その一つは、39節の、<イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者が見えないようになる」>というイエスのこの言葉です。

 

これを聞いて、私たちは、驚くのではないでしょうか。あるいは戸惑いを感じるのではないでしょうか。なぜかというと、私たちは、同じヨハネ福音書3章17節の、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」というあの有名な御言葉を思いだすからです。そして、この39節の言葉は、それと明らかに矛盾しているからです。しかし、そういう私たちの疑問に対する答えは、3章17節の前後を読めば、そこに明瞭に語られています。3章16節以下を読みますと、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行ないが悪いので、光よりも闇の方を好んだ>(16-19節)。すなわち、ここに明瞭に言われているように、神自身の意志は、あくまでも裁きではなくて、すべての者の救いです。しかし、それに対する人間の側の対応のために分離が起こります。ある者は見える者となり、ある者は見えない者となるという分離が起こるのです。

 

そのことを井上良雄さんは、「「譬えを借りて言えば、こういうことになろうかと思います」と言って、一つの譬えで語っています。「例えば、冬が終わり、春風が私たちの家に吹いてきます。春風は、この世界に春をもたらそうとしている。しかし、もし私たちがその春風に対して、自分の家の窓を開こうとしないならば、春風は私たちの家の中に吹き込むことはできません。したがって、家の外はもう春の世界であるのに、私たちの家の中では依然として冬が続いている――そういうことが起こるわけです。パウロはそのような事情を、第二コリント2章15節以下で、「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。……」と言っています。パウロがこのような言葉で言っていることも、やはり同じ事情であろうと思います。私たちは、福音の持っているそのような性格を忘れてはならないと思います。それがこの「総括」で語られている第一のことであります」と。

 

第二のことは、40節、41節に記されています。すなわち、<イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」>。

 

実は、これがこの物語の中でのイエスファリサイ派の人たちとの初めての対話であります。これまでファリサイ派の人たちは、あの癒された人を尋問したり、その両親に問いただしたりしてきました。しかし、まだイエス自身とは直接対話をしてはいなかったのです。ここで初めて、イエスファリサイ派の人たちが対話を交わします。ファリサイ派の人たちは、恐らく、イエスが「見えない者は見えるようになり、見える者が見えないようになる」と言われた39節の言葉を聞いたのでしょう。そこで彼らは自分たちのことについて問います。「あなたがそういうふうに言うのであれば、私たちは、その見えない者の方に属しているのか。私たちは盲人だとあなたは言うのか」と。

 

その宗教の専門家たち、聖書のことに通じている自分たち、見える者だと自他共に認めている自分たち、そういう自分たちを、あなたは、盲人だというのかと、彼らはイエスに対する反発の思いを込めて詰め寄ってゆくのです。それに対してイエスの言葉は、きわめて鋭く、また直截であります。彼は次のように言われます。「あなた方が盲目であるのは言うまでもない。それは、あの癒された人が盲目であったのと全く同じである。しかし、あなた方が盲目であるのと、あの人が盲目であったのとは、決して同じではない。あなた方のほうが一層悪い意味で盲目である。あの癒された人の場合は、自分が盲目であることを知っている。そして自分の盲目が癒されることを願っている。それだから、癒されることも可能であった。しかし、あなた方の場合は、そうではない。あなた方はあの癒された人と同じように盲目であるのに、自分たちが盲目であることを知らない。自分は見えるというふうに思いこんでいる。

 

これが、この物語全体に対する総括として、イエスが語られた第二のことでした。つまり、春風が家に向かって吹いているのに、あなた方はかたくなに窓を閉ざして、それを入れようとはしない。そして寒い部屋の中に閉じこもっている。それがあなた方の問題なのだ」と。

 

今日の説教題は「裁くため」とつけました。それはイエスがこの世に来られたのは、この世を裁くことによって、この世を救うためであるというイエス・キリストの福音を強調したかったからです。私たちは、生来の自分が「見えない人間」であるということになかなか気づき得ないのではないでしょうか。そのことに気づかされたのは、癒された人と同じように、私たちもそれぞれなりのイエスとの出会いを持つことができたからではないでしょうか。イエスとの出会いを通して、如何に私たち自身が自己中心的な人間であるかに気づかされたのではないでしょうか。ですから、パウロと共に、「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマ7:24-25前半)と、私たち自身も言わざるを得ないのです。

 

今も「見える」と言い張る人が多い中で、この世界は大変な状況に置かれています。その中にあって、私たちキリスト者は、イエスに癒された生まれつき盲人だった人のように、イエスを主と信じ、神の国の義と平和と喜びを望み見て、その証言者の一人ひとりとして歩み続けていきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いて下さいますように!

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたはイエスを通して私たちひとりひとりに関わって下さり、私たちを自分からイエスを主と告白して生きるように導いてくださいます。そのことを覚えて、心から感謝いたします。どうか主イエスに倣って、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々、泣いている人々と共に生きていくことができますように、
  • また、見えると言い張るファリサイ派の人々のように、イエスを通したあなたからの関りを拒絶し、高ぶった自分の思いで生きることのないように、私たちをお導きください。
  • 世界には戦争や貧困や様々な差別によって苦しんでいる人々が沢山います。どうぞそのような人々がその苦しみから解放されて、あなたから与えられた命を大切に生きていくことができるように、この世界が平和な世界になるようにお導きください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。
  • 日本の国もアメリカとの軍事同盟を強化し、軍拡を進めています。どうか憲法第9条に基づいて、戦争によらない平和外交に徹するように、この国の政治を導いてください。
  • 能登半島地震で苦しんでいる人々を支えてください。また適切な支援が与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌  305(イエスの担った十字架は)

https://www.youtube.com/watch?v=mSu_qva7-BQ

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

(この説教は井上良雄『ヨハネ福音書を読む』の当該箇所を参考にしています。)