なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(47)「見えない人」ヨハネ9:13-23

2月4(日)降誕節第6主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

 (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌  4(世にあるかぎりの)

 https://www.youtube.com/watch?v=OfxHK-Tr0es

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編32編1-7節(讃美歌交読文33頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書9章13-23節(新約184頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    60(どんなにちいさいことりでも)

https://www.youtube.com/watch?v=07gyHKhp0JM

⑨ 説  教   「見えない人」           北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

生まれつきの盲人がイエスによって見えるようになった癒しの出来事が起こった後、13節では、人々は目が見えるようになった盲人をファリサイ派の人々のところに連れて行ったと言われています。この「人々」とは誰かと言えば、8節から12節に記されていましたように、近所の人々です。シロアムの池でイエスによって見えるようになった生まれつき盲人だった人が自分の家に帰って来ます(7節)。すると、近所の人々は、この盲人の癒しが余りにも驚くべきことであったためと思いますが、彼のそばに駆け寄って、喜びや祝福の言葉を掛けるのが当然だと思うのに、そういうことはしないで、この盲人を、何か危険なものを見るように、遠巻きにして、奇妙な言葉を囁き合っています。ある人々は、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言います。すると「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う、似ているだけだ」と言う者もいます。そういうことがいろいろあった後で、近所の人々は、結局、癒された人を、ファリサイ派の人々のところに連れて行きます。つまり、この人の癒しをどのように考えればいいのか、宗教の専門家であるファリサイ派の人々に判断してもらおうというわけです。

 

癒された盲人に対するこのような近所の人たちの態度は、私たちの中でもしばしば見かけられるものではないでしょうか。今まで不幸だった人が突然幸せな人になったとき、そのことを隣人として心から喜ぶべきだと思うのですが、むしろ何故そのようになったのかを詮索し、あれこれとその人にとって良くない噂を流すのです。他人が幸福になることを妬み、不幸になれば自分に優越感を持つわけです。私たちは、どんな他者である隣人も、私たちと同じように、イエスが、その人のためにも十字架にかかって死なれたこと、イエスが極みまで愛されていることを忘れてはならないと思います。ですから、このヨハネ福音書の生まれつき盲人だった人のように、イエスに癒されたとすれば、その人と共に喜び、神に感謝すべきではないでしょうか。ところが、近所の人々はそうではありませんでした。彼をファリサイ派の人々の所に連れて行ったのです。

 

そこで13節から、この癒された人に対するファリサイ派の人々の尋問が始まります。この尋問は非常に長く、34節まで続きますが、今日はその前半の24節までにしたいとと思います。

 

ファリサイ派の人々も、近所の人々同様、癒されたこの人と共に喜ぶことは出来ませんでした。ファリサイ派の人々は癒された人に、まず「どうして見えるようになったのか」と尋ねます。すると癒された人は、「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」と答えます。それを聞いたファリサイ派の人々の中には、イエスがその人を癒した日が安息日だったので、土をこねたイエスの行動が安息日には禁止されていた労働であるということで、<「その人(イエス)は安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行なうことができるだろうか」と言う者もいた>と言うのです(16節)。イエスが何者であるのかをめぐって、ファリサイ派の人々の間に分裂が起こりました。

 

ファリサイ派の人々は、本来の安息日の意味を歪めて理解していました。彼らは、安息日は「人間のために設けられた」、人の体、心、魂にとってよいことのために使われるはずであったことを理解できませんでした。安息日が他の日から区別され、注意深く聖別され、きよく保たれなければならない日であるということは言うまでもありません。しかし、安息日を聖別することが、必要なわざ、あわれみのわざを禁じることなのでは決してありませんでした。病人をいやすことは、決して安息日を破ることにはなりませんでした。イエスがそうされたのを非難することで、ファリサイ派の人々は自らの律法に対する無知をさらけだしたに過ぎませんでした。

 

このことは、日曜日の礼拝を大切にするキリスト者にとっての「聖日厳守」という考え方の中にも見られるように思います。もちろんキリスト者にとって、日曜日を礼拝に出席する大切な日と考えることは必要なことだと思いますが、何が何でも聖日厳守でなければならないと考えるのは、ファリサイ派の人たちの安息日理解と同じことになるのではないでしょうか。

 

ここだけに限ったことではありませんが、私たちはイエスの行為を間違って解釈してはなりません。「安息日は人間のために定められた。人間が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)とイエスが言われ、安息日に生まれつきの盲人の目を癒したからと言って、十戒の第4戒の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」は、私たちキリスト者にとっては意味がなくなり、無効になったのだと考えるとしたら、それは間違いです。イエスは、安息日を快楽を求める日、労働の日、旅行をしたり、無駄に過ごしたりする日とするようにとは決して言っていません。イエスは、この世が存続する限り、安息日を「きよく保つ」ようにと言われたのだと思います。安息日の定めである十戒の第4戒は、私たちが神との交わりを大切にする日としているのだと思います。一週間をこの世の仕来りと自分の思いだけで生きていると、いつの間にか私たちはこの世の闇の力に捕らえられてしまうのです。ですから、安息日を神との交わりの日として大切にすることは、神に命与えられて生きている私たちには必要不可欠なことなのです。

 

安息日に生まれつきの盲人を癒したイエスについて、意見が分かれたファリサイ派の人々は、途方に暮れて、癒された人の意見を聞いて、彼を癒したイエスのことを知ろうとします。その癒された人は、イエスのことを「あの預言者です」と言います(17節)。18節から「ファリサイ派の人たち」が突然「ユダヤ人たち」に変わります。<それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じ>ませんでした(18節)。

 

今度は、癒された人の両親をわざわざ呼び出して、ユダヤ人たちの尋問に移ります。イエス預言者として承認しなくても済むように、ユダヤ人たちはイエスによって生まれつきの盲人が癒されたことを疑います。前に盲人だった人の両親が来て、それが彼らの息子なのか、と尋ねられます。彼らはそれを肯定しますが、どうして癒されたかという問いに対しては、ユダヤ人の当局を恐れて、責任逃れの返事をします。<「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っております。しかし、どうして今、目が見えるようになったのかは、分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」。>(20,21節)と。

 

ユダヤ人たちは既に、イエスをメシア(キリスト)と認めた者はすべて会堂から追放することを、決議していたからであると言われています(22節)。この箇所はヨハネ福音書の記者によって、福音書記者当時のヨハネの教会とユダヤ教との敵対関係が、イエスの時代にさかのぼらされて記されているものと思われます。生前のイエスを信じた者がユダヤ教の会堂から追放されたという事実は殆どないのではないでしょうか。

 

キリスト教徒はいつ、どのようにして、会堂から追放されたのでしょうか。ユダヤ教の「十八の祈り」の中に追放のための理由が述べられています。第十二の祈り~「(4)ナザレ人(=キリスト教徒)とミンニーム(「ミーン人」、異端者とくにユダヤ教からの改宗したキリスト教徒を指す)は瞬時に追い散らせ。(5)彼らは生命の書から消し去り、義人と共に書き留めるな」~この反異端の祈りは紀元後85年頃、エルサレム陥落後のユダヤ教の重要な中心地となったヤムニアで公にされました。追放がどのようにして行なわれたかは、この祈りからはわかりませんが、ラビ諸文書から明らかにされていると言われています。

 

このようにヨハネ福音書の著者の時代には「ユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていた」のです。

 

最後にこの箇所のイエスに癒された盲人からで教えられることは、「人は自分で感じ、ふれてみて初めて完全に確信することができる」ということではないでしょうか。不信仰なユダヤ人たちが、イエスが癒された盲人を一生懸命説得しようと無駄骨を折っていますが、効を奏していない様子が記されています。癒された盲人は「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」とだけ言っているのです。自分に何かが起こったということを、彼は大胆に主張しています。彼は自分が感じたことを論証しようとはしませんでした。ユダヤ人たちがどう考えようと、彼にわかっている明確な事実が二つあったのです。「私は盲目であった。今、私は見える」。

 

このイエスによって癒された生まれつき盲人の証言は、イエスを信じるということが私たちにとってどういうことなのかを明らかにしているように思います。この人の知識はわずかであるかもしれません。信仰も弱弱しいかもしれません。教会の信仰告白や教理も何も理解していないかも知れません。しかし、もしイエスが御霊をもって、彼の心に恵みのみわざを本当に働かれたのなら、彼は自らのうちに、誰からも覆すことのできないない何かを感じているはずです。

 

ライルはこのように言っています。<「私は暗かった。しかし私は今、光を持っています。私は神を恐れていました。しかし今は神を愛しています。私は罪が好きでした。しかし今は憎んでいます。私は盲目でしたが今は見えます」。自分のうちに、確かな御霊の働きを認識するまで決して安んずることのないようにしよう。キリスト教という名称やその外面的なものに満足しないようにしよう。真の体験を通してキリスト教を知るようにしたい。感情は確かに惑わされやすいし、それがキリスト教のすべてではない。しかし、私たちが霊のことに関して、内なる感情を全く持たないとするなら、それは大変悪いしるしである。空腹の者は、食べて力がついたと感じる。渇いた者は、飲んで元気になったと感じる。同じように神の恵みを内に持つ人は、「私は神の恵みの力を感じる」と言うことが出来るはずである>

 

私はどちらかと言えば、頭で考えてしまう方で、信仰も感じるレベルにおいてもとらえているか、はなはだ疑わしいところがあります。しかし、このイエスに癒された盲人のように、イエスとの関係を体験的に持って生きることができれば幸いです。主が私たち一人一人をそのように導いてくださいますように!

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちは、自分自身に対しても、他者である隣人に対しても、どのように生きているのか、日々問われているように思います。自分のことだけを優先しがちな私たちですが、どうぞイエスとの出会いを通して受けた光と命によって歩むことができますように導いてください。生まれつきの盲人がイエスに出会って癒されて、「私は盲目であったが、今は見える」と告白して生きたように、私たちもイエスによる救いと解放を告白しつつ、体験的に生きることができますように!
  • 神さま、世界には、経済的に恵まれ、人間関係も健康にも恵まれている一部の人々がいる反面、貧困と様々な苦しみと痛みを抱えて、喘ぎながら生きている人々もたくさんいます。そのような人々がどんどん多くなっているように思います。神さま、どうか私たちに互いに愛し合う力を与えて下さい。他者の苦しみを自分の苦しみと感じる心を与えてください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。また不当な支配の中で人権が無視されている国々に住んでいる人々の尊厳が回復しますように。国家間の戦争や国家による民衆の弾圧が静まりますようにお導きください。
  • 能登半島地震で苦しんでいる人々のために祈ります。この地震で家族を亡くした方々、今もライフラインが失われたところで生活を強いられている方々、また避難生活を余儀なくされている方々の上に、あなたの支えと導きが与えられ、また復旧の手が速やかに差し伸べられますように。世界中の災害で苦しんでいる人々の上にも助けの手が差し伸べられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   356(インマヌエルの主イエスこそ)

https://www.youtube.com/watch?v=VHJREdKf7Ks

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。