なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(46)「見えるようになる」ヨハネ9:1-12

この説教は、誤解を与えかねないので、教会でしたものを一部表現を変えています。

 

1月28(日)降誕節第5主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

 (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌   208(主なる神よ、夜は去りぬ)

https://www.youtube.com/watch?v=o0fepgaZwBs

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編19編1-7節(讃美歌交読文20頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書8章48-59節(新約183頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    120(主はわがかいぬし)

https://www.youtube.com/watch?v=iz_PLi2m4WA

⑨ 説  教   「見えるようになる」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

先ず9章1-3節をもう一度読んでみます。<さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人は生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答になった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」>と、書いてあります。

 

ここで生まれつきの盲人、生まれながらの盲人が登場してくるわけですが、ここに「生まれつきの盲人」と書いてありますように、この人は生まれた時から光を一度も見たことのない人で、それだけで不幸なことですが、その上、特別に貧しい人でもあったようです。すこし先の8節に、<近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを知っていた人々が言った>とありますように、彼は、道に座って物乞いをして、人が施してくれるもので生活しなければならない、そういう境遇の人でありました。もっとも彼に身内の人がいないわけではありません。先の方で(18節以下)、彼の両親が登場してきて、人々とやりとりをしたことが書いてあります。両親は健在であったのですが、この人が物乞いをして生活をしなければならないということは、彼の家庭全体が貧困であったということでしょう。

ところで、そのような生まれつきの盲人が、道端で物乞いをしているその場に、イエスが通りかかります。1節に、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」と書いてあります。もちろんこの盲人に目を留められたのはイエスだけではありません。イエスと一緒に歩いていた弟子たちもやはり、この盲人を見ました。そして、この盲人の不幸な姿は、弟子たちの心をも強く打ったにちがいありません。そこで弟子たちは、イエスに向かって、2節で、「ラビ、この人は生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と、問います。つまり、彼らは、このような不幸が地上にある、その原因は、一体何ですかと、問うわけです。私たちがいろいろな不幸に出会う時、あるいは人々の不幸に出会う時,一体なぜそのような悲惨なことが起こるのかと、私たちは問います。それと同じように彼らも、一体何故そのような不幸が起こるのかと、イエスに向かって問うわけです。

 

その場合、今日の私たちとは違って、彼らはイスラエルの伝統の中に生きていた人びととして、「それは一体誰の罪ですか。誰の罪のために、このような不幸が起こるのですか」というふうに問います。つまり、彼らのそういう問いの背景にあるのは、人間の不幸は、みな、人間の罪に対する当然の刑罰であるという考え方、思想であります。そして、それは単にイスラエルの伝統の中に見られる思想というだけでなく、恐らく古代の社会全体に見られる思想であろうと思います。さらにそれは、決して私たちにも無縁の思想ではなくて、私たちの社会でも、珍しくない考え方であろうと思います。私たち日本人は、人間の不幸を、前世の因縁とか、運命としてあきらめてしまう因果応報の思想にならされています。

 

ただ彼ら弟子たちが、ここで、「だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」というような問い方をしているのは、彼らの前にいるのが成人してから盲目になった人ではなくて、生まれつきの盲人であるからだと思います。つまり、彼は母親の胎内にいた時から盲目であったわけで、彼がそういう生まれつきの盲人であるとすれば、それが彼の犯した罪の結果であるということは考えにくいことだからです。生まれる前から彼が罪を犯したとは、考えにくいことだからです。それゆえ彼らは、このような不幸の原因は、この盲人の罪のためなのか、それとも両親の罪のためなのかと、問うているのだと思います。

 

ところで、弟子たちがそのような思いで見ているこの盲人に、イエスの目もやはり注がれています。そしてイエスがこの盲人を見るその見方が、弟子たちの盲人を見る見方と、全く違っているということは、3節のイエスの言葉によって示されています。<イエスはお答になった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」>。――つまり、イエスは弟子たちの問いに対して、直接の答えを与えようとはされません。この盲人の不幸の原因が、この盲人自身の罪のためだとも、あるいは、両親の罪のためだとも言われません。むしろ彼は、弟子たちの問いそのものを否定されます。そして、その上で彼は、弟子たちが思い及ばなかった全く新しい視点から、「神の業がこの人に現われるためである」と、そのように言われるのです。

 

このイエスの言葉については、昨年3月に帰天された全盲の某牧師は、常々疑問を呈されていました。自分はこのイエスの言葉ではなく、十字架上の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」を、自分自身の言葉として神に向かって叫ばざるを得ないという趣旨のことをおっしゃっていました。

 

また、の3節のイエスの言葉は、田川建三さんもこのように言っていま。「<そうではなく、神の業が顕れるためである>……それにしても、どうもひどい話ではないか。神の栄光が顕れるために、どうしてこっちが失明して苦労しないといけないのだ。御自分の栄光を顕わしたいが故に、他人をその材料として利用する。いわば、優秀な医者が自分の技量を世に示すために、健康な患者をわざと難病に感染させ、その上でそれを治してやって、どうだ、俺は優秀な医者だろう、と威張っているようなものである。要するに、神信仰に固執し、無理に神を弁証しようとするから、こういうことになる。まあ、著者としては、これをイエスの復活を予告する比喩的出来事として描きたかったのだろうけれども」(田川)と。

 

確かに、この「神の業が顕れるため」という言葉には、そのような面がないとは言えません。しかし、健康であろうが病気であろうが、障害があろうがなかろうが、全ての人に神がイエスを通して働かいかけておられるということを否定することはできないと思うのです。全ての人間にイエスを通して働きかけている神の働きの対象として、この生まれながらの盲人もいるのではないでしょうか。

 

エスにとって大切なことは、この盲人の身に生まれつき負わされている苦しみの原因と罪を詮索することではありません。この盲人の開かぬ目に光と希望を与えること、過去という冷酷な運命の堅い扉を開いて、そこに神の御業を顕わすことでした。イエスは生まれつきの盲目という運命の重い扉の前に立ち止まらず、あえてこの鉄の扉に向かって突進し、その苦しみを自分の身に担うことによって、生まれつきの盲人の目を癒されたのであります。

 

6節、7節を読みますと、<こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た>と記されています。ここで大切なことは、イエスが盲人に「シロアム(遣わされた者、の意)の池に行って洗いなさい」と言われたという、そのことです。シロアムというのは、エルサレムの南の外れにある池で、これは、昔、ヒゼキヤ王が、ここから数百メートル離れた「ギボンの泉」というところから、岩をくりぬいた地下水道で水をひいて作った、小さな溜池です。イエスは盲人に、シロアムの池に行って目を洗いなさいと命じられます。

 

ここで注意したいのは、ヨハネ福音書の著者が、このシロアムという名について、それは「遣わされた者の意味だ」という説明をわざわざ付け加えていることです。この「遣わされた者」という言葉からは、神によってこの世に遣わされたイエス自身を連想するのが、一番自然なことだと思います。つまり、そういう説明を書き加えることによって、ヨハネ福音書の著者が言おうとしたことは、この盲人が癒されたのは、イエスがこの盲人に塗られた泥によってではなく、またシロアムの水の力によってでもなく、ただイエス御自身の力によってであるということです。イエスの力とは、この生まれつき盲人であった人の苦しみ、重荷を、ご自身の身に背負われたイエスの生涯と十字架と復活に現われている、人間の悲惨を癒す神の命(永遠の命)なのです。

 

もしそうだとするならば、イエスによって癒されたこの生まれつきの盲人に起こったことは、私たち一人一人においても起こっているのではないでしょうか。この生まれつき盲人の癒しの後に、イエスユダヤ人たちとの論争の中で、見える、見えないが問題にされています。見える、見えないという問題は私たちすべての人にとっての問題です。見えなかった人が見えるようになるということは、私たち自身の出来事でもあり、そこで示されている約束は、私たち自身に対する約束でもあるということなのではないでしょうか。イエスの前に立つ生まれつきの盲人、それは私たち自身の姿でもあります。私たちの内なる闇の力が、私たちをとりこにし、視るべきものを見なくしています。イエスがこの盲人に目をとめられた時、そこに大いなる神のみわざが現されました。神の光の力が、この世の闇の力に打ち勝って、そこに盲人の目が開かれ、希望の光が注ぎ込まれた。見えない者が見えるようになったのです。

 

「見える」と言い張りつつ、私たちもまた自分の盲目に気づかず、<見えるという罪>の中にあることが多いのではないでしょうか。イエスがこの世に来られる時、私たちは、この世と自分の闇の深さと盲目であることを知らされるのです。しかしイエスがこの世の闇に目をとめられる時、そこに大いなる神のみわざが現され、生まれつきの盲人の目に光が与えられるのです。

 

「わたしは、この世の光である」(5節)。ここに私たちの慰めと希望とがあります。夜が来る前に、時を惜しんで、この許された時の中で、神のみわざが私たちを通して現わされるように、そのことの証人としての生を生きる者となりたいと思います。

 

(この説教は、井上良雄『ヨハネ福音書を読む』と森野善右衛門『世の光』によるところ大です)。

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は、生まれつきの盲人の癒しの奇跡を通して、あなたの語りかけを聞くことができましたことを、心から感謝いたします。私は、この世の闇の力に取り込まれている自分を感じることがあります。世の光であるイエスを信じ、見えると思って生きていながら、見えない自分があるのです。神さま、どうかあなたの光によって、人として真実に生きていくことができますように、私たち一人ひとりをお導き下さい。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。また不当な支配の中で人権が無視されている国々に住んでいる人々の尊厳が回復しますように。
  • 能登半島地震で苦しんでいる人々のために祈ります。この地震で家族を亡くした方々、今もライフラインが失われたところで生活を強いられている方々、また避難生活を余儀なくされている方々の上に、あなたの支えと導きが与えられ、また復旧の手が差し伸べられますように。
  • 貧困に苦しむ人々に救済の手が差し伸べられますように。また病や老いの中で心身の弱さの中で苦しむ人々にあなたの癒しと支えが与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   55(人となりたる神のことば)

https://www.youtube.com/watch?v=FBeyxp9bw-w

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。