なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

教会は残念ながらすべての人ためにはありません! (鶴巻通信27)

カール・バルト一日一章』1月30日から

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」

                     マタイ福音書11章28節

 

この日のバルトの一日一章は、皆さんと共有したいと思い、まとめてみました。私がまずこの日のバルトの一日一章で心に響いた言葉が、表題の「教会は残念ながらすべての人のためにはありません」という言葉です。私は常々「教会とこの世」「教会と社会」

「教会と国家」という領域の問題において、現在の日本基督教団をはじめキリスト教会の信仰は、社会の中にあってゲットー化しているのではないかと思わされています。そのことを、バルトは「教会は残念ながらすべての人のためにはありません」と言っているのではないかと思います。

 

しかし、「イエスは『すべての人びとのために』おられます」と、バルトは言っています。「イエスはすべての人びとをご自分のもとへと招き、すべての人びとをご自分に属すると見なすに十分な広く自由であられる。すべての人びとをご自分に引き寄せる権利と力があると、信じておられる」と言うのです。イエスがすべての人のためにおられるのは、神がそうだからと、バルトは言っています。

 

「神だけがすべての人びとに関係があります。神においてのみすべての人びとに呼びかける自由があります。神だけがそうする全権を持ち、全権をお与えになります。ここにイエスと他の偉大な人間との間の相違があります。教会は残念ながらすべての人びとのためにはありません」。ここに「教会は残念ながらすべての人びとのためにはありません」という言葉が出て来るのです。

 

すべての人びとと関係がある偉大な人間は誰もいないのですが、「イエスはすべての人びとと関係があります。神を人びとは失ってしまいましたが、神は彼らを失わなかったのです。その人びとにイエスは神のもとからアタックなさる」と、バルトは言っているのです。

 

私は今教会でヨハネによる福音書の講解説教(と言っても、純粋な講解説教ではなく、講解説教と主題説教を混ぜ合わせたようなものですが)をしていますが、御存じのようにヨハネによる福音書では、イエスを「世の光」とは言っても、「弟子たち(キリスト者)の光」とも「教会の光」とも言っていません。キリスト者も教会の「世の光」であるイエスを、自分たちの光としているのだと思います。ですから、イエスを決して自分たちだけの光とは言わないのです。

 

そして、「イエスは赦しをもって人びとを掴みます。イエスは人びとから何も欲しない。人びとをただ神のために欲します。すべての人びとは神が必要なのです。イエスは誰をも排除なさらない。すべての人びとのための『赦し』、すなわち、進歩的な人びとのため、愚かな人びとのため、教養のある人びとのため、教養のない人びとのため、改宗者のため、非改宗者のため、重懲罰刑の服役者のため、説教壇上の牧師のための赦しであります」と言うのです。バルトはキリスト者であることも、自分も一肢体として連なっているキリストの体なる教会も相対化しているのです。絶対なおは神だけだからです。

 

現在の日本基督教団の中枢は教会の絶対化という過ちに陥っているように、私には思えます。「教憲教規と信仰告白」を教条的に絶対化することは馬鹿げたことであり、洗礼から聖餐へという道こそ福音主義信仰の不文律などと言うこともおかしなことです。宗教改革の伝統は「聖書のみ」「信仰のみ」なのです。それは絶対的なものがるなら神のみ、神の独り子なるイエスのみということです。

 

バルトは続けます。「イエスは私たちすべに対して、ただ『一つ非難』しておられる、というのは私たちが神から離れてしまったということ! そして私たちすべてのために、神は誠実であられるという『一つの約束』だけをなさる! このことをすべての人びとは理解できます。これをすべての人びとは、自分の品位を失うことなく、自惚れることなく、受け入れることができます。ここに、私たちが喘ぎ苦しんでいるすべての牢獄に合う鍵があります」。神が私たちを非難されるとしたら、私たちが何を考え、どう生きているかという私たちの思想や行動をチェックするようなことではなく、ただ一つ、私たちが神から離れてしまっているということであると言うのです。

 

「イエスは疲れている者と重荷を負う者に呼びかけます。では、やはりすべての人びとではないか。いや、すべての人びとです。というのは、すべての人びとが疲れており、重荷を負っているからです。イエスは、私たちが常に自分の在りようをこう見たいと思っているようには、私たちをご覧になりません。私たちの有能さ、熱心さ、真面目さをご覧になりません。イエスは私たちの答えではなく、疑問に興味を持たれ、私たちの確実さではなく心の動揺に、私たちの見出したものにではなく探求に対して、興味を持たれます。若い人なら誰をも駆りたて、仕事によっても無為によっても、服従によっても抑制の効かなさによっても、実際に鎮められないあの奇妙な満たされない憧憬を、如何なる理由も名もないゆえに非常に大きく危険であるあの悲哀を、イエスはお尋ねになります」。

 

「イエスは私たちの妻たちの家計の正確さではなく、彼女らの疲労と困惑とを尋ねられる。私たち夫には業績ではなく、密かな恥を、私たちの良心にあるエゴイズムの傷を尋ねられます」。バルトの夫婦観は性別役割分業のようですが、その点はバルトも時代の人ですからご寛容にお読みください。

 

「イエスは敬虔な人びとに彼らの回心の状態を尋ねません。それはファリサイ派の質問であるからです。むしろ彼らが『わたしは信じます。主よ、不信仰なわたしを助けて下さい!』と叫ぶかどうかを問われます。イエスにとって注目すべきことは、決して私たちの正義ではなく、不正であります。イエスが考慮されるのは、私たちが疲れた者、重荷を負う者であるということだけなのです」。

 

エスの福音をパリサイ人のように律法主義的に理解して、仲間を裁くのではなく、イエスの赦しの下にあって、互いに赦し合い、支え合って歩んでいきたいと思います。もちろん、真理が何かを求めて、論争は大いにしなければなりません。私たちの考えは誤っているかもしれませんので。