なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(65)

10月9(日)聖霊降臨節第19主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編43編1-5節(讃美歌交読文47頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙15章14-21節(新約295頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   449(千歳の岩よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-449.htm

⑨ 説  教  「人を通して働く神」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

パウロは、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)で十字架と復活のイエスにおいて現わされている神の義の福音を語ってきました。それが15章13節で一応終わったのです。そこで、14節から個人的な事情を述べたり、挨拶をするわけです。その最初が今日のところで、このところは、異邦人使徒としてのパウロが、福音をどのように語ったのかという、彼の態度・姿勢がよく表れています。

 

まず14節にこのように記されています。田川訳で読んでみます。<わが兄弟たちよ。あなた方もまた善きことに満ち、あらゆる知識に満たされ、また互いに考えを正す能力があること、この私もまたあなた方について確信している>と言われているのです。

 

日本語訳とは違って、日本語訳では最後になっている、「この私もまたあなた方について確信している」は原文では、「ペペイスマイ・デ」(私は確信している、また)と、最初に来ています。「この句の気持ちをもう少しはっきり現わすとこうなります。<無論、わたし自身としても、あなたがたについては、以下のことは、堅く確信し切っているのです」(竹森)。

 

それは、ローマの教会の人々も「善きことに満ち、あらゆる知識に満たされ、また互いに考えを正す能力があること」(新共同訳「善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると」)を、よく知っているからです。これは、パウロが自分と同じようにローマの教会の人々も神の導きを受けていることを認め、確信していることを意味します。

 

ローマ書14章1節以下の強い者が弱い者を軽蔑し、弱い者が強い者を裁くという、コリントの教会と同じようにローマの教会にもあったとも思われる信徒同士の仲たがいを考えますと、このローマの教会の人々に対する賞賛の言葉は誉めすぎのようにも思えます。それには、パウロがローマの教会に福音を宣べ伝えるとともに、ローマの教会の支援を得てイスパニア(スペイン)伝道をしたいというパウロの計画がありましたので、どうしてもローマ教会の協力を得たかったということがあったからかもしれません。そのためにパウロはローマ書を書いたのですから。しかし、イスパニア伝道への協力・支援を得たいと思って書いたこの手紙(ローマ書)には、「あなた方に対して、ところどころ、いささかきついこと」があるかも知れません。しかし、それは<あなた方の記憶を新たにするためであって、それは神から私に与えられた恵みによって書いているのである>(15節、田川訳)と言われているのです。

 

ローマの教会の人々の信仰を称賛している14節と、この15節は大分トーンが違っています。異邦人使徒としてパウロは己の使命をはっきり自覚していたものと思われます。パウロはローマ書を「神から私に与えられた恵みによって書いている」と言っています。そして、「あなた方に対して、ところどころ、いささかきついことを書いたのは、あなた方の記憶を新たにするためであ」ると言っているのです。

 

「記憶を新たにする」とは、パウロ自身が、そしてローマの教会の人たちが、更にはすべてのキリスト者が建てられている土台であるイエス・キリストを新たに想起するということです。パウロが、ローマの教会の人々に対して、「ところどころ、いささかきついことを書いたのは、あなた方の記憶を新たにするためである」というのは、ローマの教会の人々がイエス・キリストを土台にしっかりと立ちつづけるために、そのことを思い起こさせるためであって、他の意図は何もないと言うのです。なぜなら、一度信仰を与えられてキリスト者になった者でも、誰であっても日々の生活の思い煩いの中で、いつの間にか自分がキリスト者であることを見失ってしまいがちだからです。だから常に自分はイエス・キリストを土台として生きているのだということを、その都度その都度新たに想い起すことがキリスト者には必要なのだと、パウロは言っているのです。そして、そのこと、つまり私たち信仰者が何よりもイエス・キリストを土台として生きることが許されているのは、自分自身の中から出たものではなく、偏に神の恵みによるのだから、パウロはローマの教会の人々とその神の恵みを分かち合いたいと言っているのです。

 

と同時に、パウロは、その神の恵みによって自分はイエス・キリストに仕える者となり、異邦人のための使徒とされたのもその神の恵みによることなのであると言うのです。16節にこのように記されています。<その恵みは私が異邦人のためにキリスト・イエスの仕え手になるため(に与えられたものである)。すなわち私は神の福音に祭司として仕える者となった。異邦人が(神に)喜んで受け入れられる捧げ物、聖霊によって聖化された捧げ物になるためである>(田川訳)。

 

16節によれば、パウロは、ローマの教会の人々とただ単にイエス・キリストを土台にして生きることを神の恵みによって許されていることを喜ぶだけでなく、その同じ神の恵みは自分にはキリスト・イエスの仕え手になるために与えられたもので、自分は神の福音に祭司として仕える者となったのだ、と言っているのです。「異邦人が(神に)喜んで受け入れられる捧げ物、聖霊によって聖化された捧げ物になるためである」と。

 

「一体パウロは何をするのか。彼は福音を宣教するのである。しかし、まさにそのことこそ、一人の演説家、一人の著作家の行為とは――たとえパウロの場合、多くを語り、書くことなしにはすまされないとしても――根本的には関係ない事柄である。むしろそれは、真に、供え物を捧げる祭司のために、供えられるべきものを用意する、供え物に仕える者、一人のレビ人の行為である(バルトは、祭司はイエス・キリストで、キリストに仕えるパウロは祭司の補助役のレビ人であるとしている)。祭司はイエス・キリストである。そして供え物は異邦人である。パウロが語りまた書くことによってなすことはすべて、この供え物があの祭司にとって役に立つようになるための奉仕にほかならならず、この供え物が神に喜ばれる供え物にされるための奉仕にほかならない。問題は聖霊による異邦人の聖化である。そしてイスラエルと諸国民との間のこの扉が不可思議にも開かれる際の、神の選びと召しとのこの奇跡の業にパウロがあずかることこそ、その語ること、書くことに対し、またローマ書に対しても、あの「思い切った「書きかた」(ところどころ、いささかきついことを書いた)」を与えたものである。この彼のつとめがーーそれに対する彼の人間的価値のためではなく、それがイエス・キリストご自身の奉仕の補助的奉仕のつとめとして、イエス・キリストにより彼に与えられているという事実によって――神に対する彼の誉れ、彼の名誉、義認を形造る(17節)」(バルト)。

 

17節<私は、神に対しては、キリスト・イエスを誇りとしている>(田川訳)。「彼のつとめこそが、彼の聞き手や読者に、「思い切った〔書き方〕(ところどころ、いささかきついことを書いた)」として、新しさ・特異性として、その注意を引かせるかも知れぬことの理由である。彼がその語ること・書くことにおいて敢えて何をしようとも、まさにキリストがこの彼のつとめによって現実とし給うこと以外の何も決して語ろうとはしないであろう(18-19節)」(バルト)。

 

18-19節:<すなわち私は、異邦人が聞き従うようになるためにキリストが私を通じて、言葉と業でもって、徴と奇跡の力によって、神の霊の力によって、働き給うた事柄以外については、敢えて何も語るつもりはない。このようにして私はエルサレムから、ずっとめぐってイリュリコンにいたるまで、キリストの福音を満たしてきたのである>(田川訳)

 

パウロは今自らの奇跡の業--すなわち、今日異邦人が神の言葉と業によって、また神より与えられたしるしと奇跡によって、すなわち霊の力によって従順へと召されているという奇跡の業――の事実の前に、驚きに打たれて立っている最初の人物である。パウロは自分が、「キリストの福音をエルサレムから始まり、めぐりめぐってイルリコ(イリュリコン)に至るまで満たして来た」という事実の前に立っている。この表現において二つの場所が表示されていることは、文字通りにではなく、パウロのこれまでの道のりにおいて走り抜いて来た領域の終点を指示するものとして理解されるべきである。そして、「みたす」はもともと「徹底的に福音化する」という、疑わしい、現代の概念とまったく関係がない。この言葉の語らんとする意味は、この全領域に、また、そこに住む住民たちに、彼の宣教が到達したこと、福音の光がこの全領域においてかなり多くの場所に点ぜられたこと、かくしてそこで以前支配していた闇は打ち破られ――そこかしこで信仰にはいるようになった者の数の多少は問うに足りない――この全領域と、この全領域に住む人間性が、イエス・キリストの名を聞いたという事実を確定することが許されるようになったということなのである。そして20-21節によれば、パウロがこの道のり全体において、忠実にとどまった根本的命題とは、以前ほかの人々によって遂行された伝道の働きとのいかなる結合も断念し、「他人の土台の上に建てること」いっさいを断念し、キリストがまだ知られておらず、従ってイザヤ書52:15の「彼のことを知らされていなかった〔宣べ伝えられていなかった〕人々が、見、聞いていなかった人々が、理解する〔悟る〕ようになるだろう」という言葉を、その文字通りの真実さにおいて知るいようになる人々にのみ、またそのような場所、地方にのみ固執することであった」(バルト)。

 

20―21節:<この際私は、キリストの名がすでに唱えられているところでは福音宣教をしない、ということを誇りとしてきた。他人の土台の上に立てることをしないためである。そうではなく、「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞いたことのなかった人たちが理解するであろう」と書いてあるとおりである>(田川訳)

 

パウロがなぜこのように語ったのかは、「ローマ教会を彼自身の教団に組み入れることが彼のローマ訪問の目的であるかのような印象を防ごうとしている」(ヴィルケンス)のかも知れません。「このようにして、22節以下でローマ訪問の真の目的を明確にし、さらにローマ訪問に先立ってエルサレムに行って果たさなければならない務めをめぐる不安をもらし、ローマ教会の人々の祈りにおける連帯を望む、新たな段落への移行の備えをしたので」(川島)す。

 

最初に私は今日のローマ書の箇所を、「このところは、異邦人使徒としてのパウロが、福音をどのように語ったのかという、彼の態度・姿勢がよく表れています」と言いました。パウロはフィリピの信徒への手紙3章で、自分を捨て、イエス・キリストの内に自分を見出していることを吐露しています。少し長くなりますが、そのところを引用して終わりたいと思います。

 

「…キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生ずる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕らえよと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(3:8-12)。

 

自分に死んで、キリストに生きる。それが異邦人使徒としてのパウロの生きざまなのです。私たち信仰を与えられた者の生きざまも同じではないでしょうか。「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひらすら走ることです」(同3:13-14)。

 

異邦人使徒パウロを通して神が働いてくださったように、わたしたち一人一人を通しても、神が働いて下さることを信じて、神の御手に委ねて生きていきたいと願います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちすべての人間はあなたに命与えられた者です。そのような私たちが戦争をして殺し合っていたり、一部の人間によって他の多くの人間を支配・抑圧・差別したりして、あなたから与えられた命を軽んじています。また、自然もあなたから与えられた賜物です。けれども私たちは過度な豊かさを求めて、気候危機を起こしてしまっています。み心ならば、私たち一人一人を、あなたによって命与えられた者として、あなたを大切にし、隣人を大切にして生きていけるように導いてください。
  • どうかそのために私たちを通してあなたが働いて下さいますように、私たちを導いてください。
  • 今さまざまな苦しみの中にある人びとを助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     469(善き力にわれかこまれ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-469.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。