なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(4)

6月20日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    7(ほめたたえよ、力強き主を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編14編1-7節(讃美歌交読詩編15頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙1章8-15節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  502(光のある間に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-502.htm

説教   「パウロの願い・ローマ訪問」   北村慈郎牧師

 

  • パウロは、ロマ書1章1節から7節までの挨拶の部分に続いて、当時のヘレニズム世界からディアスポラユダヤ教に受け継がれた書簡形式によれば、「手紙の序文」と言われる部分を、8節から15節で記しているのであります。バルトはこの部分に「個人的なこと」という表題を付けています。

 

  • 「個人的なこと」でありますが、それをパウロはどうしても未知の教会の人たちに記さざるを得なかったのであります。このことだけは分かってもらいたいという強い想いをもって、パウロはこの手紙の序文を書いたものと思われます。

 

  • 「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたが一同についてわたしの神に感謝します」(8節前半)。新共同訳では「まず初めに」と訳されていますが、これは原文では「プロートン・メン」で「まず第一に」になります。しかし、「第一に」とありますから、「第二に」「第三に」が続きそうですが、この手紙には「まず第一に」だけで、第二、第三はありません。ですから、この「まず第一に」は順番を言うわけではありません。「何よりも先に」ということでしょう。手紙の最初に、何よりも先に言っておかなければならないことを書くのは当然であると言えます。それなら、パウロが、一番先に書いたことは、何であったのかと言いますと、それは「神への感謝」であります。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたが一同についてわたしの神に感謝します」(8節前半)。

 

  • このパウロの神への感謝について、竹森満佐一さんはこのように述べています。「人間の値打ちをはかる方法は、いろいろあるようであります。その人の才能や学殖が、人を驚かすこともあります。しかし、最もよく人の値打ちを定めるものは、その人が、正しく感謝しうるかどうか、ということによるのであります。友人に対し、恩人に対してさえ感謝することは、なかなか難しい、そのために、思わぬところで、弱点を暴露して非難を受ける人は、決して少なくないのであります。しかし、難事中の難事は、正しく神に感謝することであります。自分の受けたものを、神の恵みとして感謝することは、容易なことではありません。殊に、他の人について、神に感謝することは、最も困難なことであります。他人の成功を、口で祝うことはできるかも知れません。しかし、心の中は穏やかではありません。そのことについて、神に感謝するなどということは、容易な業ではありません。パウロは、それをしているのであります」。

 

  • パウロはここで(8節前半)「わたしの神に感謝します」と言っています。「われわれの神」ではなく「わたしの神」です。神との関係において、私たち人間の側から心から感謝が生まれるのは、神からいただいた宝物があまりにも大きなものだからではないでしょうか。神からの宝物とは、神の恵みであり、それはイエス・キリストによる救いの出来事と言えます。パウロは、ダマスコ途上で復活の主イエスと出会って、その救いに与ったのであります。このことは、パウロにとって決定的なことでした。イエス・キリストの救いに与り、神の恵みを知った者にとっては、神は疎遠な存在ではありません。神との間にあった一切の妨げが取り除かれて、「アバ 父よ」と祈ることの出来る神に対する親しさを感じることができるのです。パウロの神への感謝は、これが基礎になっているのではないでしょうか。

 

  • では、パウロの神への感謝の内容は何でしょうか。それは、「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」(8節後半)ことです、「パウロは、ローマのキリスト者の、敬虔さや、その他の人間の目にも見える美点を神に感謝したのではない。ただ単純にキリスト者としてのかれらの存在を感謝したのである。特別な性質や特別な行為よりもはるかに重要なのは、旗が立てられ、主の名が呼ばれ、告白され、神の国が待ち望まれ、宣べ伝えられるという事実である。そこに、まさに信仰が、すなわち神の真実に出会う人間の応答真実が成立する。この事実が存在するところには、イエスの復活によって導入される危機が進行し、かれが神の子として定められたことが啓示され(1:14)、主の僕が感謝する理由をもつ」(バルト)のです。

 

  • ある人はこのようにも言っています。「一人の罪人が悔い改めると、天に大きな喜びがあると言われます(ルカ15:10)。それならば、一つの教会ができること、それが存在していることは、どんなに大きなことでしょうか。ローマにも教会があることは、全世界の信仰者にとって、心から感謝すべきことなのであります。それはまた、われわれの所属する、小さな弱い教会についても言えることであるはずであります。それを、心から感謝していないとすれば、われわれは、教会が何であるかを、まだよく知っていますのだと言われても、弁解できないのであります」(竹森満佐一)。

 

  • 船越教会が存在し、そこに数は少なくてもキリスト者の群れがあるということ、それ自身が感謝すべきことなのです。そのことを忘れないようにしたいと思います。

 

  • パウロはローマにキリスト者の群れとしての教会があること自身が感謝であると言うのですが、それだからこそ、「祈るときにはいつもあなたがたのことを想い起し、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるようにと願っている」(9節後半、10節)と言うのです。

 

  • そのことは、15章に、もっと具体的に記されています。「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし、今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき訪ねたいと思います。途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアに向けて送り出してもらいたいのです」(15:22-24)。

 

  • パウロはかねがね、何とかして機会を見つけて、ローマに行きたい、と切望していました。それは、パウロの思い描いていた、ローマを中心に、東はアラビア(パウロはダマスコ途上における復活のイエスとの出会いによる回心後 異邦人への使徒としてアラビアに行っている。ガラテヤ1:17)、西はイスパニアという世界伝道のためであったと思われます。加えて、ローマの教会の人たちと交わりを深めたいという願いもありました。

 

  • 「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」(11節)と言われていますように、一つは、「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力づけたい」ということでした。

 

  • この言葉だけを単純に読みますと、使徒としてのパウロが一方的に霊の賜物をローマの教会の人たちに分け与えるように読めるかも知れません。しかし、たえとパウロ使徒であったとしても、信仰者同士の交わりにおきましては、霊の賜物はそれぞれ与えられているわけですから、パウロからローマの教会の人たちへと共に、ローマの教会の人たちからパウロへという相互的なものであるはずです。

 

  • ですから、「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」(11節)と言った後に続けて、パウロは、「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(12節)と言っているのです。

 

  • 「一人の信仰者としてのパウロは、自分が教えることだけが、大切なのではありません。自分も与えられたことを持ち出す、それとともに、他の信者の与えられた賜物をも分けてもらう、お互いにそのようにすることによって、力づけ合い励まし合うことこそ、伝道者パウロの喜びでした」(竹森)。

 

  • このようにパウロがどんなに熱心にローマ行きを希望していたかが分かります。しかも自分がどんなに熱心に行きたいか、ということは、神が証人になって下さるとまで、パウロは言っているのであります。9節、10節にそのことが記されていますが、岩波訳で読んでみます。「実際、私の霊において、〔また〕その方の子〔についての〕福音において私が礼拝している神が、〔次のことの〕証人である。〔すなわち、〕私がいかに絶えずあなたがたのことを想い起しているか、〔そしてその際、〕私が自分の祈りにおいて、必ずやいつの日かあなたがたのところに行くことを神がその意志においてよしとされるようにと、〔いかに〕常に願っているか〔、ということである〕」。

 

  • それにしても、パウロはなぜそんなにローマに行きたかったのでしょうか。ローマの教会の人たちと、お互いにその信仰によって神から与えられている霊の賜物を分かち合い、励まし合うためであったことは、既に確認した通りです。もう一つの目的は、世界伝道です。具体的にはまだ神の福音が伝えられていないとパウロが思っていたと思われるイスパニア伝道でした。その拠点にローマの教会がなってくれかたというパウロの願いがあったからです。

 

  • そのような世界伝道をパウロが熱心に願っていたのには、神の福音がまだ伝わっていない地にその福音をもたらしたいという願いと共に、もう一つ別の理由がパウロにはありました。それは、自分が仕えている神の福音は、全ての人のための福音であるということであります。「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵ある人にもない人にも、果たすべき責任があります」(14節)と言われているのが、それに当たります。

 

  • クランフィールドは、「ギリシャ人にも未開の人にも、知恵ある人にもない人にも」はユダヤ人を除いたすべての「異邦人」を指していて、第一のグループ分け「ギリシャ人と未開の人にも」は共同体を、第二のグループ分け「知恵ある人にもない人にも」は個々人が考えられていると言っています。パウロは自分が異邦人の使徒として、すべての異邦人に神の福音を宣べ伝えるために、果たすべき責任があると考えていたのです。その思いがパウロをかりたてて、ローマに行かせようとするのです。「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(15節)と、パウロの記している通りです。

 

  • このように、パウロの福音宣教にこめた彼の個人的な熱い思いが、今日の聖書箇所から私たちにも伝わってきます。だから、このパウロの熱い思いを私たちも引き継いで、すべての人に福音を伝えるということは、キリスト者の獲得、教会の拡張としての「それ行け、伝道だ」と受け止めなければならないのでしょうか。私にはそのようには思えません。人がイエス・キリストの福音に生かされるということは、私も全ての人に開かれていなければならないと思います、その意味で福音は全ての人ものでなければなりません。そのことを証言するためには、私たち自身が福音に生かされた者として、他者との関りをこの問題多い社会の中で、教会における同真の友と励まし合いながら、「神の真実に出会う人間の応答真実」をもって、ひとりの人間として生きていくたことではないでしょうか。

 

  • ローマ行きを熱望するパウロの個人的な思いを語る今日の聖書箇所から、私はそのようなことを思わされるのであります。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日はパウロのローマ行きへの個人的な熱い思いを語るロマ書の箇所から、あなたの語りかけを聞きました。福音宣教に賭けるパウロの姿勢は、私たちの心にも強く響いてきます。
  • 神さま、全ての人に与えられているイエス・キリストの福音を、私たちも自らの生きざまを通してすべての人に伝えて行けますように、その熱意を私たち一人一人に与えて下さい。分断と格差が広がる社会の中で、あなたの福音によって生きることによって、私たちが、人と人とを結び合わせ、上も下もない平等で公平な相互の関係を、身近なところからつくり出して行けますように、お導き下さい。
  • コロナウイルス感染がおさまらない中で、オリンピックの開催を強行に進めようとしている政府が混乱を引き起こしています。今は残念ながら、そのような愚かな政府の動きを止める力が、この社会の構成員である私たち一人ひとりにはありません。神さま、どうか社会の決定権を私たち一人一人が持つことができるよう社会に変えて行けますように、私たちのその力を与えて下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。